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晩 節

今日は、日本史上初めて天下統一を成し遂げた戦国時代の武将、


 豊臣 秀吉

の命日・没後420周年にあたります。


       


天文2(1537)年に農民の子として生まれ、織田信長に仕官。


草履取りから側近の武将にまで取り立てられ、『本能寺の変』 以降並み居るライバル達を手なずけ、あるいは倒し、遂には天下を獲ったことは、皆さんもご存知の通り。


彼の立身出世物語については、太閤記その他であまた伝えられておりますね。


墨俣城を一夜にして築いたとか、いろいろ眉唾な逸話も数々ありますが、一農民から関白まで昇り詰めたことは紛れも無い史実ですから、その頭脳と機転・人身掌握術が超一流であったことは間違いでしょう。


柴田勝家と丹羽長秀から1文字ずつもらって〝羽柴〟と名乗った逸話は、秀吉の先輩武将に対する気配りをよく表しています。


子供の頃の私は伝記を読んでは(凄い人だなぁ・・・。)と純粋に憧れたものですが、自分が彼の亡くなった年齢に近づいてくると、視点が自ずと〝終活〟に向いてしまうのです。       


残念ながら天下統一を果たした秀吉の晩年は、あまり褒められたものではなかったようです。


1591年、54歳の時に家督を甥の秀次に譲り、〝太閤〟と呼ばれるようになりましたが、この頃それまで重用していた茶人・千利休を切腹させたり、2度にわたる朝鮮出兵の暴挙(?)。


そして58歳にして淀殿との間に秀頼が生まれるや、家督を譲ったはずの関白・秀次に切腹を命じてしまいます。


(※なお秀頼は,秀吉ではなく家臣・大野治長の子とする説が有力。)


秀吉がなくなる直前に残したといわれる遺言がこちら。
(※一部改行編集)


秀よりの事 なりたち候やうに    (秀頼のこと 成り立つように)
此かきつけ しゆとしてたのみ申候  (この書き付け 五大老衆に頼みます。)
なに事も此ほかにわ           (何事も此の他には)
おもいのこす事なく候かしく       (思い残すことはありません。)
返々秀よりの事 たのみ申候    (かえすがえすも秀頼のこと 頼みます。)
五人のしゆたのみ申候       (五人の衆、頼みます)
いさい五人の物ニ申わたし候   (委細は五人の者に申し渡してあります。)
なこりおしく候 以上          (名残惜しく思います。以上)

八月五日 秀吉 御判

いえやす        (徳川家康)
ちくせん         (前田利家)
てるもと         (毛利輝元)
かけか津        (上杉景勝)
秀いへ         (宇喜多秀家)

  まいる


 

                  遺言状 (毛利博物館蔵)


これからの天下をどうするか、配下をどう動かすか・・・そのような戦略・方向性を授けることは一切無く、ただひたすら愛息の行く末を心配するのみ。


天下人・秀吉も、この時はもうただの年老いた父親でしかなかったのかも。


この遺言を残した約2週間後の慶長3(1598)年8月18日、太閤秀吉は61歳でこの世を去りました。


残された五奉行のうち、直ぐに前田利家が没した後は狡猾な家康が徐々に実権を掌握。


遺言に沿って、秀頼は家康の孫娘・千姫と政略結婚したものの、やがては大阪の陣で滅ぼされることに。

 
※大坂の陣に関する過去記事は、こちら。(↓)



信長・秀吉の最期を自らの目で見てきた徳川家康は、その経験を踏まえてか(子沢山だったことも幸いして?)万全の継承体制を敷き、以降江戸幕府は300年近く代を重ねました。


もし晩年の秀吉が、単なる親バカ(失礼!)で終わらなければ、豊臣家は違った運命を辿ったかもしれません。


人間、やはり引き際・散り際が肝心。

最近、妄言を吐いて世間から顰蹙を買っている元総理や元大物政治家が目立ちますが、あんな老人にはなりたくないもの。


なるなら、尾畠さんのような献身的なボランティアが理想的ですネ。扇子


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