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壮 士

嘗て小泉首相が所信表明演説で口にして有名になった〝米百俵〟。


この逸話の主である小林虎三郎と並んで有名な元長岡藩士・・・といえば、


 河井 継之助


でしょうか。 今日・8月16日は、明治維新直後の北越戦争によって非業の死を遂げた、この壮士の命日・没後150周年にあたります。


         河井継之助

小林虎三郎より1年早い1827(文政10)年に、長岡藩の要職を代々務めてきた河井家の長男として生まれた継之助は、幼少の頃より負けず嫌いで気性が激しく、一本気なところがあったそうな。


藩校・崇徳館で陽明学に接した彼は15歳で元服した後、王陽明に対し自らが長岡藩を支える名臣になることを誓います。


25歳で遊学のため江戸に出た継之助は、さらに備中藩に山田方谷を訪ねて深く心酔し彼の許で学ぶことに。


その後一旦は藩士と衝突を起こして公職から離れたものの、藩主・牧野忠恭の信任を得て外様吟味役に復職すると、一代家老にまで出世すると共に 『慶応改革』 と呼ばれた大鉈を振るって藩政の立て直しの陣頭指揮を取りました。


しかし徳川慶喜が大政奉還を行ったことで、長岡藩の運命は大きく変わっていきます。


江戸藩邸を処分し、その売却益でガトリング砲などを購入して軍備を増強する一方、明治新政府に〝武装中立〟の立場を主張。

※ガトリング砲に関する過去記事は、こちら。(↓)


新政府軍と幕府軍の仲介役を果たし休戦を画策した継之助は、小千谷に進攻してきた新政府軍との談判に臨みます。

しかし彼にとって不運だったのは、やって来た新政府軍の軍監が若干24歳の岩村精一郎だったこと。


岩村本人が後年自ら述懐している如く、当時の彼は勢いに乗って進攻を重ね血気に逸っており、また経験不足から継之助の人物・器量を見抜くことも、また彼の意図も汲み取ることが出来ず、僅か30分で会談は決裂。


歴史に“if ” は禁句・・・とはいえ、もしこの時の会見相手が継之助の望んだ通り山縣有朋か黒田了介であったなら、その後の展開は全く違っていたでしょう。


しかし現実には継之助が中立を捨て奥羽越列藩同盟に加わることを決意し、新政府軍との全面戦争へと突入。


圧倒的な戦力を有する新政府軍に最新の軍備で対抗した長岡藩は、一旦奪われた長岡城を取り戻すなど善戦しましたが、継之助が戦闘中に流れ弾で重傷を負ったことで戦況が悪化。


再び城を明け渡した長岡藩軍は、会津に向け敗走・・・その途中の8月16日、彼は破傷風を悪化させて42歳の生涯を閉じたのです。


私が初めて彼の存在を知ったのは、人に勧められて司馬遼太郎の 『峠』 を読んだ時でした。


     峠


残念ながら、現在でも一部には長岡を戦火に巻き込んだ責任を問う声もあると聞きますが・・・私は太く短くも陽明学が目指す〝知行合一〟を自ら体現した継之助の生き様に、深い感動を覚えます。


最近の、口先ばかりで全く行動が伴わない政治家たちには、是非見習って欲しい傑物でありましょう。


もし彼が生き長らえていれば、榎本武揚と同様に明治政府ひいては日本にとって大きな仕事を成し得たはず。

久々に同書のページをめくりつつ、〝悲運の壮士〟の冥福を祈りたいと思います。笑3


 


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