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スパイ

未だスパイ防止法が無い、まさに〝スパイ天国〟の日本。

情報管理に関し脇が甘過ぎますが、それは今に始まった事ではありません。

その情報漏洩の際たる事例


 シーボルト事件

が起きたのが、今から190年前の今日のことでした。


事件の主役は、もちろんフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト。


       

             Philipp Franz Balthasar von Siebold


学校の授業ではシーボルトはオランダの医師・・・と教わった方が多いと思いますが、彼は1796年生まれのドイツ人。


名門貴族の家系で、祖父・父共に医師だったことから医学を学んだ彼は、同時に植物学にも興味を抱きます。


そして1822年にオランダ・ハーグに出向いたシーボルトは、内心では東洋学研究を志しながらも国王ウォレム1世の侍医から推薦を受けてオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐に。


但しこの赴任には、〝調査任務〟も含まれていました。

つまり医師であると同時に、スパイでもあったのです。


そして1823年8月、日本研究をしたいという本人の希望で長崎・出島にやってきたシーボルトは、オランダの商館医に。

※着任時、ドイツ人であるがゆえにオランダ語の発音が不正確だったことを日本人通辞に怪しまれたそうですが、「自分は山地出身だから訛りがある」 と偽って切り抜けたとか。

オランダには山などないのですが、当時の日本人は外国事情を全く知らなかったため、コロッと騙されたんですねぇ。


シーボルトには多くの日本人医師が弟子入りし、我が国の医学発展にはそれなりの貢献をしたのですが、その一方で彼は5年間の滞在期間中江戸にも出向き、様々な品物を収集しました。

その中のひとつに、伊能忠敬の日本地図が。


それをシーボルトに見せた上に縮図を渡したのが、江戸幕府天文方の高橋景保。

伊能忠敬を支援し、彼の没後 『大日本沿海輿地地図』 を完成させた景保は、なぜかシーボルトにそれを見せ、その精巧さに目を見張ったシーボルトは自分の持っている世界地図との交換を申し出ると、なんと景保はご禁制の地図を彼に渡してしまったのです。

まさに学者バ〇の見本?


そして彼が帰国するために多くの収集品を積み込んだコルネリウス・デ・ハウトマン号が1828年8月10日に座礁。

その荷の中から、ご禁制の日本地図が出てきて、事件が発覚した・・・と近年まで言われていましたが、その後の研究で座礁した船にはバラスト用の重りしか載せていなかったことが判明。

事件発覚のきっかけは、シーボルトから送られてきた書簡を間宮林蔵がそのまま上司に届け出て、その中に地図取得のお礼が書かれていたことから・・・などとも言われていますが、真相は分かっていません。

この禁制の地図持ち出しが明るみに出て、高橋景保は10月に捕らえられ、4ヶ月後に獄死。


一方のシーボルトは家宅捜索などを受け、尋問されました。

彼は 「科学的な目的のために情報を収集した」 と主張、嫌疑のかかった日本人を庇う証言も行い、自らも帰化して日本に留まると申し出たそうですが、結局彼は翌年国外追放処分に。

しかし分からないのは、その後の幕府の対応。

というのは、それから30年後の1858年、日蘭修好通商条約締結によって彼の国外追放処分は解かれ、再来日を許したばかりか幕府の外交顧問に任じているのです。

結局伊能忠敬の地図は、海外に流出。


       


2年前には、シーボルトの子孫自宅から当時写筆したと思われる日本地図が発見されました。

国防の要である自国の地図を易々と渡したり、スパイ容疑をかけたシーボルトを外交顧問にする・・・昔も今も、日本人の脇は甘過ぎます。


 


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