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労務畑

この方も、間違いなく〝昭和の名経営者〟の一人として名を残した方と言えましょう。

今日は、その三菱グルーブの重鎮、


 大槻 文平 


の命日・二十七回忌にあたります。


       


 大槻氏は、1903(明治36)年に宮城県に生まれました。

県立角田中学校から一高、東京帝国大学法学部に進学し、ボート部で心身を鍛えた彼は、卒業後三菱鉱業に入社。


大槻氏が入社した際に直属の上司だったのが、たまたまロイヤルを創業者・江頭匡一氏の父親だったそうですが、大槻氏が学生服姿で自宅に挨拶に来た後、江頭氏の父親が奥さんに

「大槻君は将来、三菱を背負って立つ男になる」

と話したのだそうな。 結果的にその予言は当たることになりました。

入社後は労務畑一筋に歩み、労務部長などを経て1963年に同社々長に就任。

時には生命の危険をも感じさせるような修羅場の労使交渉を経験した大槻氏は、さぞ肝の据わった経営者だったことでしょう。

しかし当時は石炭から石油へとエネルギー資源の大転換期。


1969年には炭鉱の整理と大幅な人員削減を実施せざるを得ず、彼は〝人切り文平〟と揶揄されました。

しかし大槻氏は、冷徹なコストカッターなどと言われた某外国人CEOとは違いました。


「従業員が安心して生活できることなくして社業の繁栄は有り得ないし、社業の隆盛なくして従業員の幸福も有り得ない。


経営者の責務は働く者の生活に責任を持ち、会社を立派に育て、それを次の後輩に渡していくことにある。」

そう語った大槻氏は、首を切るだけではなく従業員の再就職先の斡旋に奔走。


結果的に一人の失業者も出さずに事態を収拾したのです。


同時に脱石炭を目指した彼は、1973年に三菱鉱業・三菱セメント・豊国セメントを合併して三菱鉱業セメント株式会社を設立すると初代社長に就任。


斜陽産業を立て直した実績を買われて、1979年から8年間日本経営者団体連盟(日経連、現・経団連)の会長を務めました。

そして 「日本人は贅沢になり、派手になり過ぎている」 としてベア抑制を主張し、メザシの土光さんよろしく自らも質素な暮らしを実践し、批判を浴びつつも賃上げ抑制を実行。

1987~90年に第二次臨時行政改革推進審議会の会長を務めた大槻氏が88歳で天に召されたのは、1992(平成4)年8月9日のことでした。


       
         『私の履歴書』 (日本経済新聞社・刊 非売品)


バブルが弾け21世紀に入ってからの民間会社では、四半期毎に決算が行われ短気利益の追求が求められ、それに呼応して社員の入退社は激しくなると同時に勤務先へのロイヤリティーが低下しています。

元サラリーマンだった私からすれば、そういう労使関係は決して日本のために良くないと思えてなりません。

家族経営という言葉がありますが、今一度社員を大事にした松下幸之助翁や大槻文平氏の経営理念が見直されても良いのでは?


そんなことを思いつつ、宮城県名誉県民でもある名経営者のご冥福をお祈り致します。


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