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標 的

原爆投下を除くと、日本で最大の被害をもたらしたのは3月10日の東京大空襲でしたが、中京地区では今から73年前の今日行われた空襲が最大の被害をもたらしました。

米軍のターゲットとなったのは、愛知県豊川市にあった


 豊川海軍工廠(こうしょう)

つまり機銃や弾丸の製造工場でした。


1937年に海軍が大規模工廠の建設を計画し、軽工業・自動車組立工場が多く、広大な農地が広がる豊川市が候補地に決定。

地権者から実勢価格の1/4という超安値で半ば強制的に海軍が買い上げ、1939年3月から造成を開始。

同年12月には約200ha(東京ドームのグラウンド約150枚分!)の土地に巨大工廠が完成。


更に翌年南東側の土地を買収して拡張すると、航空機用機銃・対空機銃や弾丸・信管の製造を行ない、1945年2月時点では職員400名、工員10,000名、徴用工員40,000名、動員学徒6,000名の計56,400名が働く東洋一の規模を誇りました。


    


となれば、同工廠がアメリカ軍の空襲の標的になるのは当然のこと。
(実は広島・長崎と共に原爆投下候補地の一つでもあったそうな。)


1944年11月に偵察した米軍はその後散発的に空襲を行いましたが、1945(昭和20)年8月7日午前10時半から124機のB-29によって始まった空爆は、30分間に250kg爆弾3,256発・・・800トンも集中投下する壮絶なものでした。


        

                 工廠上空を飛ぶB29

当然の如く、工廠は全壊。


2,667名(※豊川市史編纂室調べ)が犠牲となり、その中には勤労動員された中・高・女学生452名(男子193名・女子259名)が含まれていました。

工廠周辺には
防衛のため高角砲台(高射砲台)2基、また廠内には機関砲台数ヶ所が造られていたそうですが、殆ど役に立たず。


またこの空襲の際に空襲警報や総員待避命令が出たかどうかも分かっていません。

仮に出されていたとしても、この集中爆撃に晒されたら広大な工廠の敷地から逃げることはまず不可能だったでしょうが・・・夜間でなくわざわざ米軍にとっても撃墜される危険が増す昼間に空爆したのは、明らかに工場だけでなく工員など日本人の大量殺戮を狙ったもの。


    
                  
全壊した工廠


戦後工廠跡地には警察予備隊の豊川駐屯地や国鉄分工場(現・日本車輛製造豊川製作所)、千代田光学(現コニカミノルタ)、豊川市役所などに転用され、記念碑以外工廠の面影を残すものはないとのこと。

しかし毎年、現地では慰霊祭は行われています。

東京大空襲同様、米軍の空爆で犠牲となった方々の慰霊は続けなくてはなりません。


歴史を風化させないためにも・・・。


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