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未公認

終戦直後、焼け野原で打ちひしがれ、日々の暮らしで精一杯だった日本人。

でも、そんな沈んだ気持ちを鼓舞した一人のスポーツ選手が現れました。 そのヒーローの名は


  古橋 廣之進  選手


       


1928(昭和3)年に現在の静岡県浜松市に生まれた古橋選手は、小学校の水泳部で早くも頭角を現し、地元で伝統的に行われていた浜名湖の遠泳で学童新記録を出し、〝豆魚雷〟の異名を新聞でつけられました。


しかし浜松第二中学校在籍時は戦局の悪化で水泳が出来ないどころか、学徒勤労動員による砲弾工場での作業中に誤って旋盤で左手中指の第一関節を切断してしまいます。

一時は水泳が出来なくなると落胆したものの、日本大学に進学して水泳を再開した古橋選手の名が全国的に知られるようになったのは、今からちょうど70年前の今日・1948(昭和23)年8月6日。


実はこの時ロンドン五輪が開催されていたのですが、日本は戦犯国扱いで参加できず。

そこで日本水連は、その五輪競泳競技の日程に合わせて日本選手権を開催。

同大会で古橋選手が400mと1,500m自由形で、五輪の優勝タイムを上回る快記録を叩き出したのです。

その記録を比較すると、

              400m自由形       1,500m自由形

古橋選手        4分33秒4          18分37秒0

五輪優勝選手      4分41秒0          19分 7秒2 


400mで7秒6、1,500mに至っては30秒以上の大差をつけており、かつ当時の世界記録をも上回っていたのです。

しかし残念ながら当時の日本は国際水連から除名されていたため、この記録は未公認に。

更に翌月行われた学生選手権でも世界記録を上回るタイムを叩き出した古橋選手は、一躍国民的ヒーローとなりました。


そして翌年6月、国際水連に日本復帰が認められると、8月にロサンゼルスで行われた全米選手権に日本選手団が招待され、


    400m自由形   4分33秒3
    800m  〃    9分33秒5
  1,500m   〃       18分19秒0

と世界新記録を連発。 この時アメリカの新聞でつけられた有名な彼のニックネームが

〝フジヤマのトビウオ〟
The Flying Fish of Fujiyama

だったのです。


       


残念ながら1952年のヘルシンキ五輪ではアメーバ赤痢に罹患したこともあって不本意な成績に終わりましたが、それでも水泳日本の名を世界に知らしめ、日本人に勇気と希望を与えてくれたことは確か。

引退後は日本水連会長や日本オリンピック委員会(JOC)会長を歴任。


 

日本スポーツ界の発展に貢献し文化勲章も授与されたましたが、国際水連副会長再選を果たした直後の2008年8月2日に、ローマ市内のホテルで急性心不全により80歳で客死されました。


        


70年前に日本人を鼓舞した水泳選手がいたことを思い起こしつつ、2年後の東京五輪での新たなヒーローの誕生を願うばかりです。


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