FC2ブログ
天 誅

幕末の混乱する日本国内においては暗殺・襲撃が頻発しましたが、その中にあって〝人斬り以蔵〟で有名なのが、

 岡田 以蔵

今日は、この幕末のヒットマン・・・というか剣客の命日・没後150周年にあたります。


〝人斬り〟といわれるのは、司馬遼太郎氏の短編小説 『人斬り以蔵』 で彼の存在が注目されたから。

個人的には、1974年の大河ドラマ 『勝海舟』 で ショーケンこと萩原健一が演じた印象が脳裏に焼き付いていますが・・・彼の生涯を顧みるとその人物像は〝人斬り〟という悍ましいイメージとは違った一面があったようです。


1838(天保9)年に現在の高知県南国市に郷士・岡田義平の長男として生まれ、勉学は並み程度なれど、人一倍身体は頑健だった以蔵は坂本竜馬の遠戚にあたる武市半平太に師事し、小野派一刀流の麻田直養に剣術を学びます。

18歳の時に半平太と共に江戸に出て鏡心明智流剣術を桃井春蔵の元で学び、翌年土佐に帰省。

その後も半平太に付き従って中国・九州で剣術修行をした後、半平太が結成した土佐勤王党に入党。

ただ、それは彼の意志ではありませんでした。

一心に剣の道を突き進む彼は、政治・思想とは無縁・・・しかしたまたま師の半平太が同志と血判状を広げているのを見てしまい、半平太が口封じのため彼を入党させたもの。

もし以蔵がその密会を目撃しなければ、彼はヒットマンになることもなく一介の剣士として市井に埋もれ、歴史に名を残さなかったかもしれません。

腕前を買われて参勤交代の衛士に任命された彼は、半平太らと共に列に加わり京都へ。

すると彼は土佐勤王党の王政復古運動に加わる傍ら、平井収二郎ら勤王党の同志らと共に土佐藩下目付・井上佐市郎の暗殺に加担。

更には薩長ら他藩の同志らと共に安政の大獄に加担した京都町奉行の役人・与力らを〝天誅〟と称して襲撃を繰り返します。

(中には斬殺ではなく絞殺もあったとか。)


      
      『正伝 岡田以蔵』 (松岡 司・著 戎光祥出版・刊)



しかし1863(文久3)年1月、以蔵は脱藩(出奔)。


それまでの素行の悪さが響いてか周囲に助ける者はなく、一時長州藩士・高杉晋作の家に転がり込みます。

そしてその晋作が長州に帰ると、今度は (大河ドラマでその場面があったかどうかは記憶にありませんが) 勝海舟のボディガードに。

暴漢の襲撃から彼を防いだこともありましたが、やがては見放されて遂には無宿者に。

そして1864(元治元)年、商家に押し入り無理やり出資を迫ったとして幕吏に逮捕された以蔵は洛外追放となって土佐藩に引き渡され、故郷に強制送還。


そして彼は京都における一連の暗殺事件に関する取り調べを受けるのですが・・・なんと彼は簡単に拷問に屈して、暗殺に関わった半平太ら土佐勤王党の同志の名をペラペラと喋ってしまいます。

(※司馬遼太郎の小説では、自白を危惧した仲間が以蔵の毒殺を企てたことに彼が気付き、それを恨んで自白に及んだと書かれていますが、これは創作とのこと。)


彼の供述により、党員は次々捕縛され、半平太は切腹。


かつての師であった半平太から 「誠に日本一の泣きみそ」 と酷評された以蔵は、1865(慶應元)年5月11日に獄門・打ち首に処せられ、28歳でこの世を去りました。


中には拷問死した仲間もいる程の厳しい取り調べでしたから、口を割ること自体は致し方ないこととはいえ、〝人斬り以蔵〟という呼び名からは、ちょっと想像できない情けなさ。

剣の道は極めても、人の道は極められなかった・・・ということでしょうか。うー

◆ 余談ですが、以蔵は出っ歯だったとか。
  従って顔写真が残されていない以蔵のイメージは、私が抱いている
  ショーケンではなく、明石家さんまさん似だったのかも。

  ・・・う~ん、やっぱり殺し屋の迫力に欠けるかも。あせあせ



スポンサーサイト



コメント
コメント
コメントの投稿
URL:
本文:
パスワード:
非公開コメント: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック