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無 謀

拙ブログでは、過去何人もの優れた(教科書に載っていない)軍人をご紹介してきました。

しかし当然のことながら全ての軍人が有能だったわけではなく、中には国賊と言ってもよいくらいの愚将もいました。

その中でも特に悪評が高いのが、牟田口廉也(れんや)中将であり、彼が強引に遂行したのが


 インパール作戦

後に史上最悪の愚策と批判を浴びたこの作戦の中止命令をようやく大本営が発令したのが、今から74年前の今日のことでした。

       

                  牟田口中将


インパール作戦 (日本軍における作戦名は『ウ号作戦』)は、劣勢な戦局を打開すべく連合軍の補給路遮断とインパール攻略・アッサム侵攻を目的としてビルマ戦線で展開されたもので、前出の牟田口・第15軍司令官が1944年3月上旬から第15師団を含め3個師団を投入し強引に実行させたものでした。

    
                                ※産経新聞より

しかし現地は鬱蒼たる森林が続き、しかも山岳地帯で重火器運搬に向かない場所。 にも拘わらず

「元来日本人は草食である。然るに南方の草木は全て即ち之食料なのである。」

と嘯く牟田口司令官は、
荷物を運ばせた牛やヤギなどを必要に応じて糧食に転用する〝ジンギスカン作戦〟を
自ら考案して遂行を指示。

ロクな補給線も確保せず兵に食糧の現地調達を強いるという無謀な作戦を決行したのです。

実際には悪天候などに遮られ家畜の半分が水に流されたり斜面を滑落したり、あるいは爆発音に驚いて逃げたためジンギスカン作戦は敢え無く失敗。

兵士が重い兵器を自ら悪路を運搬する羽目に。

    

              武器を手に行軍する日本兵 

インド独立支援を謳ってインド国民軍6,000人を含む9万人の日本軍は、連合軍と戦う以前に飢餓と闘わねばなりませんでした。

対する連合軍は飛行機で食糧・弾薬を投下・補給しており、日本軍はそれを奪うために夜襲をかけたといいます。

補給線が伸び切り糧食が届かない日本軍は、兵が餓死したりマラリアに罹って次々と倒れますが、それでも牟田口司令官は前線からの補給要請に応じぬまま作戦続行を指示。

前線の惨状を知っていた第31師団長・佐藤幸徳中将は、作戦継続困難と判断して、度々撤退を進言するも受け入れられず、遂に5月末に独断で撤退を命じるに至ります。(抗命事件)


そしてようやく大本営がインパール作戦の中止を命じたのが、1944年7月4日でした。


何ら戦果を挙げることなく、糧食・弾薬が尽きた兵士たちに残された道は、撤退のみ。

その途中、道端には飢餓やマラリアで倒れる兵士の死体が累々・・・白骨街道と呼ばれました。

    

生還した兵士は約12,000人だったそうですから、8万人近い日本兵が現場知らずの功を焦った指揮官によって無駄死にさせられた計算になります。

その内の6割が戦闘ではなく撤退時に亡くなったそうですから、同作戦が如何に補給線を無視し兵士の命を軽んじた愚策だったかが分かります。

兵士たちから〝ムチャグチ〟と陰口を叩かれ、作戦中止決定後真っ先に前線から撤退した牟田口司令官は、作戦終了後司令官を解任され予備役に編入。

一方、軍法会議覚悟で抗命事件を起こした佐藤中将は、中枢部の責任追及を恐れた軍によって心神喪失という診断を下され予備役となり、
軍法会議で真実を話すことは出来ませんでした。

ワコール創業者の塚本幸一氏は、この作戦に従軍しながら九死に一生を得ており、講演会などでその時の経験談を語っておられたとか。


インパール作戦に関して私が読んだのは、以前ご紹介した『陸軍特別攻撃隊』など戦記物の著書を残した高木俊朗氏による 『インパール』・『抗命』・『戦死』・『全滅』・『憤死』 の、〝インパール5部作〟。(いずれも文春文庫・刊)


 

複数の戦地での修羅場を、数多くの証言をもとに再現しています。

この中には、牟田口中将に勝るとも劣らない〝酷将〟花谷正師団長(中将)も登場します。

部下をやたら殴って罵倒した挙句自決を強要し、何人もの部下を発狂・自決に追い込んだそうな。

この鬼畜も、牟田口中将同様戦後のうのうと生き延びています。

憎まれっ子世に憚るとは、まさに彼らのことを指すのでしょう。

また実際に補給支援部隊の一員として作戦に加わった平久保正男氏が、復員・帰国した翌日の1946年7月15日から同年末にかけて書き綴った備忘録をまとめたのが、

 『真実のインパール 印度ビルマ作戦従軍記     

                                 (光人社・刊)


       


この著者は経理や糧食手配を担当していましたので、かなり恵まれた環境にあったようですが、それでもマラリアや赤痢に散々苦しめられた様子。

後方部隊でそうなんですから、敵と対峙した前線の兵士たちの苦しみは、現代人の想像を絶します。
またこの中で、著者が二・ニ六事件で死刑判決を受けた陸軍大尉と山中で出会った話には驚きました。

処刑され戸籍も抹消されたはずなのに、特殊機関員としてビルマで活動していた・・・まるでスパイ映画さながらの話ですが、世界中で同じようなことは実在したんでしょうネ。

さて予備役となった〝ムチャグチ〟中将ですが、特攻生みの親・大西中将や阿南陸相のように自決することなく、終戦後も生き延び、1966年に没しています。

彼に関しては、以前拙ブログでご紹介した書籍 『昭和の名将と愚将』(文藝春秋社・刊)の中で、当然のことながら愚将のひとりとしてたっぷり紙面を割いてこき下ろされています。

       

インパール作戦中止直前には、部下の藤原参謀に遺留されることを前提に自決をほのめかしたところ、

「昔から死ぬ、死ぬと言った人に死んだ試しがありません。

司令官としての責任を、真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい。 誰も邪魔したり止めたり致しません。」

とにべもなく言われ、結局自決しなかった臆病者。

確かに優等生で学業優秀ではあった人物ですが、本部畑ばかりを歩き現場経験がなかったことが致命的。

更に終戦後はしばらく大人しくしていたようですが、1962年にイギリス人将校が彼に好意的な書簡を送ったことから一転して自己弁護活動を始め、「部下が無能だったら失敗した」と吹聴するように。

自分の葬儀の時には遺言により、自説を記したパンフレットを参列者に対して配布させる一方、最期まで部下の兵士たちに対する謝罪の言葉は一言も発しませんでした。


牟田口中将と前述の花谷中将・・・この両〝酷将〟に共通するのは、散々部下を怒鳴りつけ責任を擦り付けるくせに小心者で、自分だけは姑息に生き残ろうとしたこと。


「部下は上司を選べない」 とよく言いますが、こんな上司に使える羽目になったら、それこそ人生を棒に振りますネ。うー


 


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