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滅 亡

今からちょうど400年前の今日・1615(慶長20)年5月8日、徳川 vs. 豊臣 の最終決戦、


 大阪夏の陣

が終結しました。


1600(慶長5)年、『関ヶ原の戦い』 を制し天下を獲った徳川家康にとって、最後の頭痛の種はかつて仕えていた豊臣家の扱いでした。

主君・秀吉から 「くれぐれも頼む」 と言われた跡継ぎの三男・豊臣秀頼をどう処遇するのか?・・・結局家康は〝粛清〟へと舵を切ります。

1614(慶長19)年、豊臣家が再建した京都・方広寺の梵鐘に彫られた 『国家安康』 の文字に「家康の名を分断させた」とイチャモンをつけたことが発端で、同年10月から大阪冬の陣が勃発。

2ヶ月後には和睦となりましたが、豊臣方はその条件として大阪城の外堀を埋めることを余儀なくされます。

しかし家康は本来豊臣方の所有であった二の丸の堀も埋め、次なる戦に備えます。

そして翌年に入ると、大坂で不穏な動きがあるという報告を受けた家康は江戸から名古屋城に移動。

15万5千の兵を二手に分けて大坂へ向かわせます。



        豊臣秀頼                  淀 殿

一方の豊臣方はほぼ半数の7万8千。

大坂城が籠城に耐えられないと判断し、大坂に向かう徳川軍を街道筋で襲うなど野戦を挑みますが、多勢に無勢。


状況は徳川方有利のまま、大坂城での決戦(天王寺・岡山の戦い)となりました。

5月7日、大坂城を背にして布陣を敷く豊臣方と、茶臼山を挟んで対峙する徳川軍は全面衝突。

死に物狂いの豊臣方は真田幸村などの奮闘により一時期優勢になりますが、その幸村が討死するなど徐々に形成は不利に。

 ※真田幸村に関す過去記事は、こちら。(↓)
    < http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10233754182.html
>

同日午後3時過ぎに豊臣方は多くの兵を失い、僅かに生き残った兵は大坂城内に退却を余儀なくされます。


しかし既に堀を埋められた大坂城には続々と攻め入る徳川軍の攻撃を防ぐ力はなく、やがて


火を放たれた大坂城は炎上。

翌8日、徳川軍に包囲された秀頼は、母の淀殿(茶々)と共に自刃して果てました。


後に秀頼の長男・8歳の国松も処刑され、ここに栄華を誇った豊臣家は滅亡したのです。

※秀頼の正室・千姫(徳川秀忠の娘)は家康の命によって助け出され無事。 


余談ですが、秀頼は秀吉の子ではなく淀殿とかつて乳兄妹で大変親しかった大野治長との間にできた子だったという説が、当時からありました。

秀吉と違い長身で、顔形も治長に良く似ていたそうですが・・・その治長は最後まで秀頼・淀君に寄り添い、共に自害しています。

もし秀頼が治長の子であったとしたら、大坂城での一家心中ということになり、より悲劇的な結末ということになりましょうか。

いずれにせよ、この大阪夏の陣が長らく続いた戦国時代の〝最後の合戦〟となりました。

以後明治維新直前までの約250年、日本には内戦のない天下泰平の世が訪れたのですから。笑3


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