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麒 麟

季節は初夏。 ビールが美味しい季節になりました。

このビール・・・文献として我が国で最初に確認できるのは、1724(享保9)年にオランダの商船使節団が江戸に入府した際、8代将軍・徳川吉宗に献上された時のこと。

ちなみに国内で最初に醸造されたのは1812(文化9)年に長崎・出島でオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフによる自家醸造。

日本人で初めて醸造したのは蘭学者・川本幸民で、1853(嘉永6)年で、いずれも江戸時代のこと。

そして、初めて商品としてのビールが国内で醸造され、発売されたのが、今からちょうど130年前の今日のことでした。

その銘柄は、

 麒麟ビール

言わずと知れた、現在のキリンビールの前身。


      

             当時の麒麟ビールのラベル


しかし、この発売に至るまでには紆余曲折がありました。


1859(安政6)年、日米修好通商条約によって開港した横浜港には多くの外国人が居留し、その生活用品や食糧の殆どは輸入に頼っていました。

その中にビールがあったのですが、これが日本人にも人気となったため、各国が競ってビールを輸入を開始。

そして当然の成り行きながら、より安く供給するためにビールを日本で醸造しようとする動きが出始めました。

ここで登場するのが、ウィリアム・コープランド(1834-1902)というノルウェー系アメリカ人。

       

                 william copeland


来日して牧場や運送会社の経営などで財を成した彼は、この流れを見てビール醸造に目を付け、1870(明治3)年に横浜で 『スプリング・バレー・ブルワリー(日本名:清水谷醸造所)』 を創業。

当時としては最新鋭の低温殺菌法を取り入れて、大量醸造・販売を開始します。

1875年後には工場に隣接した自宅を改装して、日本初のビアガーデン 『スプリング・バレー・ビヤ・ガーデン』 も開設。

その翌年に、コープランドより早く日本で初のビール醸造所 『ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー』 を造ったドイツ人技師E・ヴィーガントと商事組合を結成。

品質の良さが評判となり、横浜のみならず東京・長崎・神戸・函館・上海・サイゴンへと販路を拡大。


        


しかし、好事魔多し・・・1880年に2人は経営の主導権を巡って対立し、組合は解散。

競売でコープランドは自らの醸造所を買い取り生産を続けましたが、この時の買収資金を借金で賄ったことが負担となり、1884年に倒産。

これを受けて、トーマス・グラバーが日本国内外に再建のための投資を呼びかけ、これに三菱財閥の岩崎弥之助らが発起人として加わり、『ジャパン・ブルワリー』 を設立。

『スプリング・バレー・ビヤ・ガーデン』 を買収して技師らを引き取り、生産を開始。

そして1888(明治21)年5月29日・・・明治屋と一手販売契約を締結した上で発売されたのが、麒麟ビールだったのです。

当時の価格は1本18銭、現在の貨幣価値だと4~500円だったとか。

※商品名を〝麒麟〟にしようと提案したのは三菱の荘田平五郎という人物で、当時西洋から輸入されていたビールの絵柄が動物だったことから、東洋の想像上の動物〝麒麟〟を採用したのだそうな。

上記の経緯から、キリンビールが三菱財閥系であることがご理解いただけるかと。

その後キリンビールが日本最大のビール会社に成長したのはご存知の通りですが、一方の貢献者コープランドの後半生はというと・・・。


倒産後もビール業界で再起を図るも果たせず、55歳だった1889年に箱根の旅館経営者・勝俣清左衛門の次女・ウメ(当時20歳)と再婚。(前妻とは死別)


     

           左から、コープランド・ウメ・ウメの両親


2人は1893(明治26)年ハワイに渡り、更に2ヶ月後には中米グァテマラのサンホセに行ってビジネスを始めるも失敗に終わり、彼は持病のリュウマチや心臓病にも悩まされるように。


1902(明治35)年1月、妻に支えられながら日本に帰国したものの、その翌月、68歳で亡くなっています。


ジャパン・ブルワリー社は葬儀費用として約200円を負担し、未亡人には慰労金を贈ったそうな。


今日ビールを飲まれる方は、横浜の外国人墓地に眠るコープランド夫妻に献杯を! ビール


 


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