FC2ブログ
術 → 道

この方の名が冠された大会が毎年開催されていますから、皆さんも講道館柔道の創始者として、また〝柔道の父〟としてご存知だと思います。

今日は、その


 嘉納 治五郎 先生


の命日・没後80周年にあたります。

       


嘉納先生は決して柔道界に留まらず、国際オリンピック連盟(IOC)の委員として日本のオリンピック初参加や東京大会の招致に尽力した〝日本の体育の父〟でもあり、また数々の学校で教鞭を取り校長も務めた教育者でもありました。

先生が摂津国御影村(現・神戸市東灘区)で酒造・廻船業を営む名家として代々続く嘉納家に生まれたのは、1860(万延元)年のこと。

10歳の時に、明治政府に招聘された父・治朗作と共に上京した治五郎少年は、東京で書道や英語を学び、育英義塾(現・育英高校)から東京大学に進学。

一方で(意外にも)学生時代虚弱体質だった彼は、たとえ非力でも剛の者を投げ飛ばせる柔術に興味を持ちます。

師範を探すもなかなか見つからず、片っ端から整体師を訪ね歩いた末に柳生心眼流の大島一学に短期間入門した後、天津新楊流柔術の福田八之助に出会い、弟子入り。

1879年に福田師範が亡くなり、未亡人からの依頼で道場を継ぐと、


同年には渋沢栄一の依頼で来日したグラント前アメリカ大統領の前で柔術演武を行うまでに。

1881年に東京大学文学部を卒業すると、それまで習得したものとは全く違う技を使う起倒流・飯久保恒年に学んだ後、各流派の長所を取り入れ〝知・徳・体〟の三育を加えた独自の〝柔道〟を創始。

そして1882年2月、23歳の時に現在の台東区東上野にある永昌寺に嘉納塾を開くと、同年5月には囲碁・将棋の段位制を導入した、単に武術だけを教えるだけでない・・・という意味合いで名付けた 『講道館』(とほぼ同時に私塾・『嘉納塾』)を設立。 (※その後数回移転を繰り返し、現在の所在地は文京区春日。)


       

             20歳代にして、この威厳と迫力

更に柔道に留まらず、剣術・棒術・薙刀術など他の古武道についても柔道同様に理論化することを目指し、それぞれの分野の師範を招いて講道館の有段者を対象に古武道研究会を開催。

自らの弟子を合気道の創始者・植芝盛平先生などに弟子入りさせるなどしました。

※植芝盛平先生に関する過去記事は、こちら。(↓)
 



講道館での指導だけではなく、東京専門学校(現・早稲田大学)の柔道場でも教えた嘉納先生は、教育者としても積極的に活動されました。

1882年からは学習院の教頭を務め、1893年から四半世紀にわたって東京高等師範学校(現・筑波大学)並びに同附属中学校の校長を歴任。

その他にも旧制第五高等中学校(現・熊本大学)の校長を務めたり、東大入学者を多数輩出することで有名な灘中学・高校の設立にも携わり、また文部省参事官を務めるなど教育界に多大な貢献をされています。

また1896年には留学生受け入れのため弘文学院を設立。
ここでは魯迅が嘉納先生に師事しました。


       

               柔道着姿の嘉納先生


そしてスポーツ界に於いては、1909年に東洋人として初のIOC委員になると、1911年には大日本体育協会(現・日本体育協会)を設立し、初代会長に就任。

翌年、日本人が初めて参加したオリンピック・第5回ストックホルム大会に団長として参加。

そして1936年のIOC総会に於いて、1940年開催予定のオリンピックの東京招致に成功しました。


当時はまだ飛行機が発達しておらず、ヨーロッパから来日するには船かシベリア鉄道経由で、どちらも20日近くかかった時代。

ヨーロッパ各国にしてみれば、日本に選手団を派遣することなど想像もできず、東京開催に難色を示すIOC委員が多数いました。

しかし嘉納委員はそれを逆手に取り、


「そのような遠距離にもかかわらず、日本からは1912年以来毎回多数の選手が参加している。

従って欧米の選手が1度来日することなど、日本選手団の苦労からすれば大した事はない。
むしろそうすることでオリンピックが欧米のものから世界的な文化になる。」


と主張し、対抗馬のヘルシンキを破って見事東京開催に漕ぎ着けたのです。


       

           IOC総会に出席中の嘉納委員(中央)


まさに柔道の如く、相手の力を利用した見事な一本勝ち・・・しかし残念ながら、第二次世界大戦のため大会は中止となってしまいましたが。


そして1938(昭和13)年5月4日・・・IOC総会が開催されたエジプトから帰国途上の氷川丸船中において、肺炎により77歳の生涯に幕を閉じられました。

1964年に東京大会が開催された時にはもうこの世にはいらっしゃいませんでしたが、きっと柔道が新種目として採用され、金メダル3個、銀メダル1個を日本選手が獲得したのを天国から眺め、拍手喝采されていたことでしょう。

そんな嘉納先生について詳しく知りたい方には、日本図書センターから出版されているこの自叙伝のご一読をオススメします。

       


講道館を立ち上げた際は〝誓文〟を書いた弟子9人からスタートし、その後しばらくは弟子の確保に苦労した話が率直に語られていて、〝柔道の父〟と謳われた嘉納師範も人並みに苦労したことを伺わせてくれます。

また道場にやってきた巨漢の外人を身長160cm足らずの小柄な弟子が見事に投げ、その評判が広まって入門者が増えた・・・なんて、まさに柔よく剛を制した逸話も。


今宵は久しぶりに同書のページをめくりつつ、あらためて日本の教育界・スポーツ界に多大な貢献をされた武道家のご冥福を祈りたいと存じます。笑3


 


                人気ブログランキング 

スポンサーサイト



コメント
コメント
コメントの投稿
URL:
本文:
パスワード:
非公開コメント: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック