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白 鳥

 今日は、バレエの世界に疎い私でもその名を知っている、20世紀最高のプリマドンナといわれた


 マイヤ・ミハイロヴナ・プリセツカヤ

       Maya Mikhailovna Plisetskaya


の命日・没後3周年にあたります。


       

プリセツカヤは、1925年にモスクワで生まれました。

多くの芸術家を輩出した一族の血を引き、生まれて8ヶ月で歩いたという運動神経抜群の彼女でしたが、ユダヤ系だったがために過酷な人生を送ることに。


9歳の頃、彼女は帝室バレエ学校に合格しエフゲニヤ・イワノヴナ・ドリンスカヤのクラスに編入。

バレエを始めて1年目で舞台に立つと、高名なバレエ教師エリザヴェータ・ゲルトの元で6年間学びますが、その間に悲劇が彼女を襲います。


       
                両親とプリセツカヤ


エンジニアだった父親は1938年にスパイ・陰謀の容疑をかけられスターリンの粛清により処刑され、映画女優だった母親は夫の調書に署名することを拒んで8年間カザフスタンへ強制送致。

残されたプリセツカヤは、バレリーナだった母方の伯母スラミフィ・メッセレルの養子となりました。

                

           メッセレル一家とプリセツカヤ(右下 1938年) 


両親と離別する不幸に見舞われながらも彼女はバレエを続け、1943年には国立モスクワ舞踊学校を卒業すると、名門ボリショイ・バレエに入団。


当初は群舞を行うバレエ集団の一員でしたが、プリマの座を目指す彼女はその環境に飽き足らず、ボリショイ劇場での公演以外にも積極的に出演し舞台経験を積みました。

その努力を神様が見ていてくれたのでしょうか・・・入団1年後に、欠員のため〝くるみ割り人形〟のマーシャ役に抜擢されたのです。

更に20世紀初頭に活躍したバレリーナのアンナ・パブロワの18番で、彼女の死後20年に渡り封印されていた〝瀕死の白鳥〟を、全く違う振り付けで踊り、以後当たり役にした彼女は一気にバレエ界の頂点に。


       

『白鳥の湖』のオデット/オディール役や『眠れる森の美女』のオーロラ姫役は、図抜けた跳躍力や柔らかい肢体と優れた表現力で当たり役となり、他の追随を許しませんでした。

しかし高い評価とは裏腹に、彼女がユダヤ人であることを理由にボリショイ劇場上層部はあまり良い待遇をせず、亡命を恐れて海外公演にも同行を許しませんでした。

彼女が西側世界の舞台に立てたのは、1959年。
その完成度の高い演技は、衝撃を与えたといいます。

その前年に作曲家ロディオン・シチェドリンと結婚した彼女は、1960年に念願のボリショイ・バレエのプリマドンナに任命されると、舞台だけでなく映画にも出演。

1980年代には夫共々海外に拠点を移し、ローマ・オペラ・バレエやスペイン国立バレエの芸術監督を歴任。

1990年、65歳でボリショイ劇場のソリストを引退しましたが、その後も芸術活動を続け、1994年からは自らの名を冠したマイヤ・プリセツカヤ国際バレエコンクールの審査員長を務めました。

また彼女は大変な親日家で、生涯に38回も来日。

2003年には宝塚歌劇団の振り付けを行うなど、そのバレエを通した我が国芸術界への貢献に対し、2006年には高松宮殿下記念世界文化賞を、また2012年には旭日中綬章を受賞しています。

                                     

               授賞式でスヒーチするプリセツカヤ


その彼女が心臓発作により訪問先のドイツで天に召されたのは、2015年5月2日のことでした。

彼女の生涯や芸術観をもっと知りたいという方には、この自伝のご一読をお勧めします。

『闘う白鳥 マイヤ・プリセツカヤ自伝』 (文芸春秋社・刊)


       


タイトル通り、まさに彼女の人生は人種偏見と母国の恐怖政治、そしてバレエとの闘いの日々だったのでしょうネ。

ライターによる代筆ではなく、ソ連がペレストロイカによって変革を遂げた頃に彼女自身が3年かけて書き上げたというこの自伝は、バレエに関心がない方にも当時のソ連の様子を知る上で読む価値は十分にあると思います。

最後に彼女の女性美の極致を表現した〝瀕死の白鳥〟の演技を鑑賞しつつ、稀代のプリマドンナのご冥福を祈りたいと思います。笑3




 


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