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名老中

老中とは、江戸時代に歴代将軍直属で国政を統括する定員4~5名の最高幹部。

それぞれの時代に有名な人材が登用されていますが、その中にあって比較的地味な存在ながら政治的手腕・人格共に高く評価されているのが、

 阿部 忠秋

今日は、3代・家光、4代・家綱に仕えたこの〝名老中〟の命日にあたります。


家康の家臣・阿部正勝の子、阿部定吉の二男として1602(慶長7)年に生まれた忠秋は、早くも21歳で豊後守に任ぜられると、兄が夭折していたたためその翌年に父の遺領6,000石を受け継ぎます。

そして1633(寛永10)年に六人衆に任ぜられると、その半年後には老中に昇格・・・とんとん拍子の出世を果たすと、以後33年にわたり老中職に留まって幕政に携わりました。

1651(慶安4)年に起きた『由井正雪の乱』以降、幕政に不満を持つ浪人たちを押さえつけるのではなく逆に心配りをすることで国内の不安を払拭するなど、その手腕はなかなかのもの。

そして我が儘なお殿様だった家光を巧みに操る手綱さばきの見事さは、いくつかのエピソードが物語っています。


         

                忠秋の花押

ほぼ同時期に老中だった松平正綱も頭脳明晰だったようですが、やや才気走るところがあったとか。

それに比べると、忠秋は非常に朴訥な性格も相まって周囲から親しまれ信頼されていたようです。

それを彷彿とさせる逸話には、こんなものが・・・。

ある日、家光が神田橋外の鎌倉河岸へ鴨狩りに出かけた際、彼が鴨を飛び立たせるために小石を投げるよう御付の者に命じたのですが、周囲に手ごろな石がありませんでした。 

そこで信綱が近くにあった魚屋を指さして「石代わりに蛤を使え」と指示。 


配下の者共が言われた通り蛤を調達してそれを投げ、事無きを得ました。

一部始終を黙って見ていた忠秋は、一行が去った後魚屋に寄って、遠慮する店主に自腹で代金を払ったのだそうな。 後に事の顛末を聞いた信綱が

「上様のお役に立ったのは魚屋にとって名誉なこと。 代金を払うことはあるまい。」

と言うと、忠秋は、

「商人は僅かな稼ぎで家族を養っている。 上様のなさったことで町人に損をさせるのは御政道の名折れだ。」

と反論したとか。

信綱の考え方はサッポロビールから間違って取り立てた税金を返さない国税庁のような今時の官僚と同じですが、忠明の切り返しはさすがですネ。

そんな忠秋は非常に子供好きで、捨て子を何人も育てては立派な奉公人に育て上げたそうな。

自身が我が子を早くに失ったせいもあるでしょうが、ここまでする為政者はなかなかいないでしょう。

今から340年前の今日・1675(延宝3)年5月3日、72歳でこの世を去った忠秋は、まさに知行合一・・・政治家や官僚に見習って欲しい、傑人だったのです。笑3




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