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返 還

7年前の2011年に世界遺産(自然遺産)に登録されたものの、普段は台風の通り道になった時くらいしか注目されない存在・・・と言っては失礼でしょうか?

現在は東京都に属し、亜熱帯に位置する自然の宝庫〝小笠原諸島〟について、今からちょうど50年前の今日・1968(昭和43)年4月5日に日米間で 『小笠原諸島返還協定』 に調印したことに因み、今日は


 小笠原返還記念日

とされています。 (※発効は同年6月26日)


若い方はご存じないかもしれませんが、終戦後はサンフランシスコ講和条約によりアメリカの占領下に置かれた時期があったのです。

同諸島は、本州の南南東約1,000kmの太平洋上に散在する30余りの島々で、総面積は僅か104㎢と東京・八王子市の半分ちょっとですが、住民がいるのは、父島・母島を含め僅か4島のみ。



                                父   島

これだけですと、この〝東京都小笠原村〟は実にちっぽけな存在に思えますが・・・ちょっと下の地図をご覧になってみてください。



グリーンの部分が小笠原諸島の位置と領海図ですが、まさに日本の表玄関というか防波堤。


日米間の激戦で有名な硫黄島も含まれていることからも国防上、また海洋資源の観点からも非常に重要な海域であることがお分かりいただけるはず。


ところでこの小笠原諸島、その歴史を紐解くとなかなか面白い事実が浮かび上がってきます。


元々は1593(天正20)年に信濃国深志城々主の小笠原貞頼なる人物がこの島々を発見した・・・と伝えられていました。

そして1727(享保12)年に、貞頼の子孫と称する小笠原貞任なる人物が島の領有権を幕府に求めました。

がしかし、幕府はそれを却下するどころか貞頼の存在すら認めず、貞任を詐欺罪で捕え財産没収の上、追放処分。

とは言え、この時から、島々は〝小笠原諸島〟と呼ばれるように・・・幕府が存在を否定した人物の名がそのまま島名になった、というわけ。

(※現在においても、小笠原貞頼の存在は否定されているそうです。)


更に言うなら、この諸島に最初に定住したのは日本人ではありませんでした。驚き顔


1830(天保元)年に初めて同諸島に定住したのは、当時日本近海にやってきた欧米の捕鯨船に水・食料を供給するため入植したラセニエル・セボレーなる白人ら欧米人5人と、オアフ島からやってきたハワイ人15人。

(※この3年前の1837年、イギリスはこの諸島の領有を宣言しています。)


その後ジュン万次郎やペリーらも訪れましたが、1862(文久元)年に幕府が咸臨丸を使って官吏を派遣。 


測量をすると共に、居住者に対し領有権が日本にあることと先住民の権利を保護することを伝達。

その後ジュン万次郎やペリーらも訪れましたが、1862(文久元)年に幕府が咸臨丸を使って官吏を派遣。 


測量をすると共に、居住者に対し領有権が日本にあることと先住民の権利を保護することを伝達。

その同意を得ると、幕府は日本駐在の各国代表に領有権を主張し、翌1863年に八丈島から38名が入植。


生麦事件が起きると一旦入植者は引き上げましたが、1876(明治9)年3月に明治政府は諸外国に領有を通告。


この時点で小笠原諸島が我が国の領土として確定し、内務省が出張所を設置すると同時に日本人37名が父島に定住しました。
農業・漁業・捕鯨などで栄え、大正後期の最盛期には人口7,000人を超えていたそうですが、大東亜戦争激化と共に島民は本土に強制疎開させられ、敗戦後は一部の欧米系島民しか帰島を許されませんでした。

日本人の島民が帰島できるようになったのは、敗戦後13年を経てから行われたこの返還以降のことですが、既に本土に生活基盤を置いていたため帰島しなかった住民も多かったとか。

同諸島の歴史を鑑みるに、やはり領有権を諸外国に認めさせるには国民の定住が必要であり、また一旦その権利を手放すと容易に取り返せないことが分かります。

数年来中国と衝突している尖閣諸島問題に関しても、同様のことが言えるはず。

私たち日本人も台風シーズンだけでなく、また観光地としてだけでなく、常日頃から国防の重要地域である小笠原諸島にもっと関心を寄せるべきでしょう。
扇子


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