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葦 原

〝遊郭〟や〝花魁〟といえば、多くの方が〝吉原〟をイメージすることでしょう。 その

 吉原遊郭


がいつからあったのか・・・皆さんはご存知ですか? 

正解は、今から約400年前の江戸時代初期から。

1590(天正18)年8月に徳川家康が江戸に入府し、1603(慶長8)年に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開くと、江戸の街はにわかに活気づき、全国から武士や人足、更には職を求める浪人が続々と集まってきました。

となれば当然江戸は男性人口が膨らみ、その彼らを狙った遊女屋が各地で営業を開始。

しかし幕府が武家屋敷の整備等を行う関係で遊女屋はたびたび移転を迫られたため、経営者たちは(場所を固定した)遊郭の設置を何度となく申請。

そして幕府は、今から401年前の今日・1617(元和3)年3月31日に


 客の宿泊は一泊のみ。
 ◆偽られて売られてきた娘は、親元に返す。
 ◆
犯罪者を見つけたら届け出る。


という条件付きで遊郭の設置を認め、申請の代表者で駿府の娼家主人・庄司甚右衛門に(現・日本橋人形町辺りの)2丁(約220m)四方の土地を提供。

そこを造成して翌年11月から、周囲に堀を巡らせて営業を開始。

その一帯が湿地で葦(よし)が生い茂っていたため葦原と名付けられ、その後縁起をかついで吉の字を当てた・・・これが吉原の地名の由来だとか。

(※前述の庄司甚右衛門の出身地が東海道の吉原宿だったから・・・という異説あり)

 

            吉原遊廓の之景(葛飾北斎・画)


つまり吉原は、奉行所が管理する幕府公認の売春街だったのです。

しかしその約40年後の1656年に起きた 『明暦の大火』 で日本橋一帯が全焼したため、吉原は浅草寺裏の日本堤(現在の台東区千束4丁目と3丁目の一部)に移転。

    


地図右下にスカイツリー、中央下に浅草寺。 


そしてその上に赤マークが固まっている一帯が吉原になります。

移転後も幕末までの約200年間で22回も火災に見舞われ(※その原因の大半は、日々の生活に疲れ将来を悲観した遊女の放火) ましたが、そのたびに再建。

更に明治以降では1911(明治)年4月に起きた浅草大火で、吉原は全焼。

これが五社英雄監督作品 『吉原炎上』(1987年公開) で描かれていることを、ご存じの方も多いでしょう。

人間の欲望を反映し強かに生き残ってきた吉原ですが、売春防止法の成立・施行により1957(昭和32)年4月に遊郭としての歴史に幕を降ろしました。

とはいえ、現在でもソープ街としてしっかり男性の性欲を満たしてくれていますが・・・。あせあせ

吉原について詳しく知りたい方には、この書籍をオススメします。

 『図説 吉原事典』 (永井義男・著 朝日文庫・刊)


       


これを読むと、江戸時代の吉原は単に売春街というだけでなく、花魁道中が昼間に行われるなど、江戸に出てきた人々がこぞって行きたがった人気スポットだったことが分かります。

つまり現代でいうなら東京ディズニーランド・・・というより、夜のはとバスツアーの人気ナンバーワン・スポットってところでしょうか。

えっ、こんな本読んだら行きたくなるだろうって?

それは若くて結構じゃないですか。


もうそんな気力も体力もない私は、落語 『紺屋高尾』 でも聴いて、当時の吉原の雰囲気をせいぜい楽しませてもらいます。笑2

※『紺屋高尾』に関する過去記事は、こちら。(↓)



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