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抗 戦

明治維新前後には新政府軍と幕府軍の衝突により様々な悲劇が日本各地で起きましたが、彼らもそんな激動の荒波に揉まれ散った集団でした。


1868(慶應4)年1月早々に勃発した鳥羽・伏見の戦いの最中、第15代将軍・徳川慶喜は突如ごく一部の取り巻きと共に軍艦・開陽丸に乗って江戸に逃走。

※戊辰戦争(
鳥羽・伏見の戦い)に関する過去記事は、こちら。(↓)



そして慶喜は主戦論を唱える小栗上野介を退け、新政府軍に対し恭順の意を示すため、2月12日に上野・寛永寺に蟄居。


        

                  徳川 慶喜 


これを不満とした一部の幕臣が一橋家所縁の者ら同志を募り慶喜の復権を目指して3回ほど会合を開くと、そのたびに参加人数が増加。

そして今からちょうど150年前の今日・1868年2月23日に浅草・本願寺で、慶喜の警護を目的として
血誓状を認め結成されたのが、


 彰 義 隊


でした。


〝大義を彰(あきら)かにする〟という意味から命名された同隊の頭取には一橋家々臣で渋沢栄一の従兄の渋沢成一郎が、副頭取には幕臣・天野八郎が投票により就任。


  

              渋沢成一郎            天野八郎


恭順を示す旧幕府は、同隊が新政府に抵抗する軍隊と捉えられるのを恐れ、彼らに江戸市中の取り締まりを委託する警護・守備隊として公式に認定。


4月3日には慶喜が謹慎している上野・寛永寺に本拠を移しますが、肝心の慶喜が江戸城無血開城の当日・4月11日未明に寛永寺を出て水戸へ退去。

彰義隊メンバーは千住から松戸まで慶喜を護衛しましたが、これによって隊の存在意義・名目は失なわれてしまいます。

※ただし数名の隊士は水戸まで同行したのですが、その中の一人・佐久間禎一はそのおかげで後の上野戦争に巻き込まれることなく生き残り、後に印刷会社・秀英舎を創業・・・これが現在業界トップの大日本印刷の前身。


慶喜が水戸に帰ったことで日光に退くべしと主張する渋沢頭取と、日光輪王寺門跡公現入道親王を擁して徳川家霊廟守護を名目に寛永寺に留まるべきと主張する天野副頭取の対立が鮮明化。

天野一派から命を狙われたため、渋沢頭取は隊を離脱。

その後天野副頭取が身分・出自を問わず希望者を入隊させたため、
各地から新政府打倒に燃える脱藩兵や浪人・町民、果ては僧侶まで集まり、彰義隊は最盛期で3,000人以上に膨れ上がりました。

そしてその中には新政府軍のスパイも複数紛れ込んでいたとか・・・。


組織が急に膨張したため統制が取れず、江戸入りした新政府軍兵士に対する隊士の暴行殺害事件が繰り返されたため、勝海舟が解散を勧告したものの彼らは聞く耳を持たず。

結局新政府軍が同年5月1日に彰義隊に対し武装解除を勧告し、更に14日には彰義隊討伐を布告。

翌15日、新政府軍から討伐を嘱託された大村益次郎がガトリング砲などの最新兵器を導入して彰義隊と寛永寺周辺で交戦。(上野戦争)


    


混成軍の彰義隊は、前日の戦闘予告に怖気づいて逃亡者が相次ぎ、更に軍備の差は歴然・・・戦いは僅か1日足らずで新政府軍の圧倒的勝利にて終結。

260名余の彰義隊士が戦死し、残りは散り散りに敗走。
同隊は結成後僅か3ヶ月で消滅しました。


江戸市中に潜んで再起を図ろうとした天野は密告により捕らえられ、その5ヶ月後に38歳で獄死。

一方の渋沢は自ら
率いる振武軍を指揮して彰義隊の援護に赴きましたが、途中で敗北を知り敗兵の一部と合流して退却。

その後彼は従兄・栄一の紹介で大蔵省入りし、実業家として成功しましたから、天野副頭取とはまさに天と地の差・・・人間の運命は分からないものです。

この彰義隊について詳しく知りたい方には、この書籍をお勧めします。


 『真説 上野彰義隊』 (加来耕三・著 中公文庫・刊)

       


新政府軍に抵抗しながらも呆気なく散った彰義隊々士の墓が、上野公園にある西郷さんの銅像の裏手に、ひっそりと建てられています。


                


但し新政府にとっての逆賊だからなのか、墓石には彰義隊の文字は彫られていませんが・・・。

       

上野にお越しの際は、西郷さんの銅像だけでなく新政府軍に征伐された彼ら彰義隊のお墓も、是非お参りしていただきたく・・・。
笑3


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