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大 仏

今から36年前の今日・1979年1月12日・・・一人の旧日本海軍軍人がひっそりと息を引き取りました。

その方の名は、


 工藤 俊作 元海軍中佐


現代の日本人には殆ど名を知られていない方ですが、是非とも皆さんには後世に語り継いでいただきたい〝武人〟なのです。


1901(明治34)年、現在の山形県東置賜軍高畠町の農家に生まれた工藤少年は、小学生の時に校長から立派な艦長の逸話を聞いて感動し、1920年に海軍兵学校入校。

1923年に卒業後、練習艦に乗り組み南洋航海を経験すると、翌年少尉に任官。


        
                海軍少尉時代  

更に駆逐艦や重巡洋艦などに乗り組んだ後、1937年海軍少佐に昇進。

そして1940年11月に駆逐艦・『雷(いかずち)』の艦長に就任し、太平洋戦争開戦を迎えました。

そして開戦から4ヶ月後の1942(昭和17)年3月1日、(現インドネシア・ジャワ島付近の)スラバヤ沖海戦で、日本海軍が英国海軍の巡洋艦エクゼターと駆逐艦エンカウンターを撃沈。


海に投げ出され約24時間漂流していた乗組員を、たまたま通りかかった 『雷』 が発見。


戦闘海域に停泊するという危険を顧みず、自船の乗組員数の2倍近い敵国漂流者422名を救助し、貴重な食料・水を与えて、全員を翌日オランダ病院船に引き渡したのです。


中には重油に覆われた海面に飛び込んで、衰弱した乗組員を助けた者もいたとのこと。

        

            雷の甲板上の救助された英兵士たち


この人道的救助を部下に命じたのが、工藤艦長だったのです。


身長185cm・体重95㎏と当時の日本人としては非常に大柄で、柔道三段の猛者。

しかし性格は至って温厚で、兵学校時代の鈴木貫太郎校長の薫陶を受け艦内では鉄拳制裁を厳禁、階級で部下を区別せず分け隔てなく接していたといいます。

そういう艦長だったからこそ、部下は彼の命令通りに敵兵を救助したのでしょう。

しかし工藤艦長はこの8ヶ月後に中佐に昇進したものの、体調を崩して1945年3月に前線を退き故郷で終戦を迎えました。

ところで、この美談・・・戦後の長きにわたり、公になることはありませんでした。


それは工藤中佐自らが戦後公職に就くことはなく、また海軍の同窓会などに顔を出さず毎朝戦死した動機や部下の冥福を仏前で祈る日々を送り、胃ガンにより78歳でこの世を去るまで身内にもこの救助を一切口にしなかったから。

また 『雷』 が工藤艦長の転任後に多くの乗組員共々沈んでしまったため殆ど証言者がいなかったため。


しかし1987年・・・その時に救助され、後に外交官として活躍したサムエル・フォール卿が、アメリカ海軍機関紙に 『騎士道』 と題してこの事実を寄稿したことで、初めて世にこの史実が明らかにされたのです。


工藤中佐と、この救助活動に関しては、この著書で詳しく知ることが出来ます。

『敵兵を救助せよ!』 (草思社・刊)  


      
 


著者・惠隆之介氏は取材中、フォール卿から


「貴君は武士道について知っているか? 
 
武士道とは日本人の道徳の規範だった。
 そして戦いにおいては、勝者は敗者の健闘を称え労ることが武士道の基本である。」

と諭されたことがあったとか。


私たちは、理不尽な行いがまかり通り精神主義一辺倒だと思われている旧日本軍の中にも、このような合理的思考を持った軍人が実在したことに誇りを持つと同時に、日本人として〝武士道〟を再認識したいものです。


大柄な柔道家でありながら、趣味は読書・・・部下からは敬意と親しみを込めて〝大仏〟といわれていた武人のご冥福を、心よりお祈り致します。 笑3




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