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徹底抗戦

多くの国民は、日本の外交が諸外国に対してはっきり主張をしない及び腰であることに、不満をお持ちのはず。

しかし明治時代の日本は、堂々と西欧諸国と渡り合っていたのです。

そんな格好の事例となる

 千島艦事件

が起きたのが、今から125年前の今日でした。

1892(明治25)年、日本海軍がフランスの発注していた水雷砲艦(通報艦) 『千島』 が完成し、日本に回航されました。

しかし同年11月30日午前5時前・・・長崎港から神戸港に向かう途中の瀬戸内海上・愛媛県和気郡沖の釣島海峡で、イギリスの大型商船・ラヴェンナ号と衝突。

ラヴェンナ号は破損のみでしたが、『千島』 は沈没。
乗員90名のうち74名が溺死・殉職してしまいました。

     

                    千   島


こういう国際的な海難事故が今起きたら、現在の外務省や政府はどう対応するでしょうか?

おそらく毎度の〝遺憾砲〟を発射するのみで、穏便に事を収めようとするはず・・・ですが、明治政府は違いました。

当時はまだ幕末の不平等条約が締結されたままの治外法権下にあったのですが、それでも明治政府はラヴェンナ号に過失有りとして、同船を所有していたイギリスのピーオー汽船会社に85万円(※現在の14億円前後)の損害賠償請求裁判を起こしたのです。

この裁判に関して、日本政府の訴訟代理人を務めたのが、

 岡村 輝彦 弁護士


      


岡村氏は1854(安政元)年頃に浜松藩士・岡村義昌の子として生まれた彼は、早くから海外事情に関心を持っていたようで、大学南校(旧・開成学校)から1876年に文部省留学生として渡英した秀才。

1881年に帰国後東京控訴院判事となり、2年後には大審院へ。


1885年には横浜始審裁判所長を務める傍ら後進の指導を行い、1891年に退官すると代言人(弁護士)となり事務所を開設。

まさにその翌年、国際経験豊かな彼に伊藤博文内閣が白羽の矢を立てた・・・というわけ。

第一審は横浜のイギリス領事館で開廷されましたが、この時ピーオー汽船会社は日本政府を相手に10万円の賠償を求め逆提訴。

判決はピーオー社の反訴のみ却下となり、双方がこれを不服として上海の英国高等領事裁判所に上訴し、今度はピーオー社の全面勝訴。

国内でもこの結果に不満が沸き起こり、条約改正を求める声が強くなりました。

そんな中、政府はイギリスの最高裁判所にあたる枢密院に上訴を敢行。

一任された岡村弁護士はイギリスに乗り込んで東アジアにおける領事裁判の実情について説明を尽くし、1895年7月に横浜領事館への差し戻し判決を引き出すことに成功したのです。


彼が実質勝訴を収めて帰国した際、新橋駅で真っ先に彼を出迎えたのは当時の海軍大臣・西郷従道海軍大将だったとか。


西郷大将は岡村氏に向かって薩摩弁で 「冷水にて顔を洗ひたるか如き快感」 と、心からの謝辞を述べたといいます。

単身敵地に乗り込んで勝利を収めたのですから、当然でしょうネ。


※結局その後双方の和解が成立し、ピーオー社が1万ポンド(現在で約2億円)の和解金と日本側の訴訟費用全額を負担することに。


2年程前に安保法制改定が行われた際、盛んに政府の足を引っ張る言動を繰り返した大学教授や弁護士らがいましたが、彼らは口先ばかりで何らの行動実績もなし。

後に中央大学の学長を務めた岡村氏のように、持てる知識と行動力をフルに発揮して母国の貢献する気骨ある学者は、現在どこにもいないのでしょうか?うー


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