FC2ブログ
三 矢

皆さんも、戦国時代に様々な権謀術数を駆使して中国地方一帯を支配した毛利元就という武将をご存じだと思います。

その彼が、3人の息子(長男・隆元、次男・元春、三男・隆景)らに宛てて、一致協力して毛利家の隆興存続させることを願った

 三子教訓状

を現在の山口県周南市にある勝栄寺で認めたのが、今から460年前の今日・1557(弘治3)年11月25日のことでした。


元就は、1546年に長男・毛利隆元に家督相続をしようとしたものの、隆元自身が「広大な領国を治めるには、まだ父上の後見が必要」と強く反対したため、元就は隠居できずにいました。

隆元は温厚な性格ではあったものの、父・元就からは 「優柔不断で武将としての資質に欠ける」 とみられていました。

強烈な個性とリーダーシップのある創業社長の2代目がおとなしいお坊ちゃま・・・という、よくありがちなパターンそのものだったようですネ。


 


      父・毛利元就                 長男・毛利隆元

また隆元も、「自分は生来、無才覚無器量である」 などと自身を卑下したり、優秀な弟たちに嫉妬するようなところもあり、家督を継ぐ長男としてはいささか心許なかった様子。

〝出来の悪い子ほど可愛い〟と言いますが、おそらく元就の心境も同じ・・・毛利家の行く末をかなり心配して、書状を認めたのでしょう。

14条からなるこの三子教訓状には、

◆毛利の苗字を末代まで廃れぬよう心掛けよ。
◆(兄弟)3人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。

  そんなことがあれば3人とも滅亡すると思え。
◆隆元は元春・隆景を力にして、全てを指図せよ。
◆私同様、皆々も厳島神社を信仰することが肝心。


等々、子供たちが仲良く力を合わせて毛利家を存続させるよう訴えています。

戦国時代の猛将も、家庭では普通の父親・・・子供たちがあまり仲が良くなかったことを案じていたことが、行間から伺えます。


 

         毛利博物館(山口県防府市)・蔵 重要文化財 


さて、毛利元就といえば〝三矢の教え〟が有名ですょネ。

死に際に元就が3人の息子を枕元に呼び寄せ、1本の矢は簡単に折れても3本束ねたら簡単に折れない、だから仲良く力を合わせろ、と言って息子たちを諭した・・・という逸話は、皆さんもご存知でしょう。

確かに教訓状には 「兄弟仲良く」 とは書いてあります。
が、実はこの三本の矢の例えは記されてはいません。

実際は長男・隆元の方が元就より7年余り早く亡くなっていますので、このエピソードは有り得ないのです。

この3本の矢と同様の教訓は、モンゴルや中国などのアジアで以前からあり、またイソップ童話にも似た話が出てくるそうな。

家族が力を合わせることの大切さは、古今東西を通じて人間が生きていく上での基本ということなのでしょう。

たまたま3人の息子を案じた三子教訓状の内容とシチュエーションが、人々の心に深く沁み込む教訓話として仕立てやすかったため、後世に創作されたと考えられます。


元就が遺したのは、〝三矢〟ではなく〝三子〟教訓状・・・お間違えなきよう。注意


              人気ブログランキング

スポンサーサイト



コメント
コメント
コメントの投稿
URL:
本文:
パスワード:
非公開コメント: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック