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ヒール

・・・と言っても、踵(heal )の話ではありません。

プロレス用語で〝悪役・憎まれ役(heel )〟という意味です。

今日は昭和の大横綱と言われながらも、そのあまりの強さと不敵な面構えだった故に大相撲のヒール役を心ならずも演じることになった


 北の湖 敏満   第55代横綱

の命日・三回忌にあたります。


       

北の湖関(本名:小畑敏満)は、1953(昭和28)年に北海道有珠郡壮瞥町で生まれました。

中学一年生時で身長173cm・体重100㎏という堂々たる体躯ながら運動神経抜群でスポーツ万能、特に柔道が強かった彼の名は、〝北海道南部に怪童あり〟という噂話となって角界にも流れ、スカウト合戦に。


そんな中、おかみさんが手編みの靴下を送ってくれた三保が関部屋に13歳で入門した彼は、墨田区立両国中学校に通いながら稽古に励みます。

稽古の疲れで授業中は居眠りばかりで、通知表は体育以外オール1。


(しかし決して頭が悪かったわけではありません。 

彼は自分の過去の対戦を相手力士だけでなく取り口まで再現することができたという、恐ろしいまでの記憶力の持ち主でした。)


また大食漢だったため、持って行った弁当は1時間目が終わった時点で完食、あとは友達の弁当を奪って食べていたそうですが、長閑な当時は学校も大目に見ていたそうな。

そんな環境でメキメキ強くなった彼は、最年少記録を次々更新して出世を重ね、15歳9ヶ月で幕下昇進。

(でも不思議なことに、幕下以下では優勝経験がなかったそうな。)


そして17歳11ヶ月で十両に昇進すると、1972年には18歳7ヶ月で幕内へスビード出世を果たします。


この時点で、「横綱を目指す」 と公言していた彼は、1974年1月場所で初優勝を果たして大関に昇進すると、5月場所で優勝、7月場所で優勝決定戦に残り敗れたものの、安定した戦績を評価されて場所後に21歳2ヶ月の若さで念願の横綱に昇進。

その後179cm・170㎏の巨体を生かし横綱・輪島と〝輪湖時代〟を築いた彼の強さは圧倒的でした。

普通これだけ強ければ人気が高まるはずなのですが、なぜか彼は憎まれ役に・・・これはおそらく、当時人気があった貴ノ花・蔵間・千代ノ富士らの二枚目力士を容赦なく投げ飛ばして女性ファンを敵に回したことが大きかったのかも。

1975年3月場所の優勝決定戦で貴ノ花に敗れ、悲願の初優勝を献上した瞬間、館内に乱れ飛んだ座布団が、ファン心理を象徴していたといえましょう。

       


1985年1月場所で、こけら落としとなった両国の新国技館の土俵を踏んだ直後に引退するまで、横綱在位63場所・優勝24回・幕内通算804勝247敗・勝率.765は立派の一言。

引退後は北の湖部屋を創設し、6人の関取を育成。

また相撲協会でも2002年に理事長に就任しました・・・が、時津風部屋の暴力事件・朝青龍のバッシング事件、更には弟子・白露山の大麻事件が次々と起こり、2008年に理事長を辞任する羽目に。

しかし2012年の理事長戦に立候補し、史上初の再任を果たします。

2013年5月場所では、赤いまわしをつけて還暦の土俵入りも実現しましたが、既に直腸がんに侵されていた彼は、足元がふらついていたとか。


その後体調が戻ることはなく、2015年11月場所初日も土俵に立って挨拶することは叶わず・・・同月20日に62歳でこの世を去りました。

現役時代も、そして引退後も大相撲を背負って立った大横綱でしたが、その功績の割に世間からの評価が高くなかったのは、やはり憎まれ役だったが故かもしれません。

最後に、不世出の大横綱誕生に関するエピソードをひとつ。

相撲界入りを強く反対していた彼の母親が根負けして入門を認めた際、彼女は13歳の息子にこう言ったそうです。

「強くなるまで、帰ってくるな。」

後年、北の湖関は、

「現役時代は、あの言葉があったから頑張れた。 どんな時でも耐えることができた。」

と語っています。

昨今は、進学・就職・結婚する際に 「辛くなったらいつでも帰っておいで」 と子供に甘い言葉をかける親が多いとか。

我が子の成長を真に願うなら、北の湖関のお母さんを見習うべきでしょうネ。扇子


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