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瓜二つ

ある意味、ここに自分の分身が展示されるかどうかが、世界的有名人として認知される条件のひとつかもしれません。


蝋人形館として有名な 『マダム・タッソー館』 がそれですが・・・・今日は、この博物館の設立者


 マリー・タッソー 女史
 (Marie Tussaud


の命日にあたります。


彼女は1761年にストラスブールで生まれたフランス人。


しかし父親は軍人で、彼女が生まれる2ヶ月前に戦死しています。


女手ひとつで娘をそだてなければならなくなった母アンヌ・メドは、ドイツ人医師フィリップ・クルティウスの家政婦として働き始めたのですが、これがマリーの運命を決定づけることになりました。


この医師が蝋による造形術に優れており、解剖模型を製作していたことからやがて蝋人形を手掛けるようになり、ルイ・フランソワ1世の勧めでパリに移住して本格的な蝋人形製作に従事。


そこに母親と共に6歳のマリーも呼び寄せられ、手伝いをしながら蝋人形制作の技術を会得していったのです。


17歳の時に初めて彼女が作った蝋人形は、ジャン=ジャック・ルソーだったとか。


その後も何人かの有名人の蝋人形を制作した彼女は、やがて勃発したフランス革命に巻き込まれてしまいます。


ルイ16世の妹エリザベートに蝋人形製作を教えていた彼女は王党派と見做されて捕えられ、頭髪も剃られてギロチンにかけられる寸前まで行ったのですが、幸いにも処刑は免れました。


その理由は・・・革命によって処刑された人々のデスマスク制作に、彼女の技術が必要とされたから。


まさに〝芸は身を助ける〟見本のような話です。


しかし斬首されたマリー・アントワネットらの生首を持ち帰って、それを基にデスマスクを作らされるという、若い女性には過酷な仕事をさせられることに。


         ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

1794年にクルティウス医師が亡くなった時に、彼の蝋人形コレクションを譲り受けたマリーは、その翌年に土木技師フランソワ・タッソーと結婚。


2人の息子をもうけた彼女は、1802年に4歳の長男を連れてロンドンに渡り、蝋人形の展示興行に参加したのですが、折悪くナポレオン戦争が勃発し、パリに帰れなくなってしまいます。


仕方なくイギリス各地を蝋人形展示会で転々とした彼女は結局再び帰仏することはなく、母や夫とは2度と会うことはなかったそうです。


(下の息子はその後自ら渡英し、母マリーの仕事を手伝うようになりましたが・・・。)


約30年間にわたり地方巡業を続けた彼女は1833年にロンドンに戻り、2年後の1835年・・・彼女が75歳の時に、常設の展示館 『マダム・タッソー』 を建設。


今から165年前の今日・1850年4月16日に88歳で亡くなるまで、この館を守ったのです。


さてその『マダム・タッソー館』・・・現在ではニューヨークやラスベガス、アムステルダム、ベルリン、更には香港など世界14ヶ所に分館があり、2年前には東京・お台場でもオープンしましたが、やはり大人気なのはロンドンの本館で連日長蛇の列。


イギリス王室一家やマイケル・ジャクソン等々、超有名人の蝋人形前で記念撮影する人がたくさんいますが、それ以外にも〝恐怖の館〟が人気とか。


ここには、前出のマリー・アントワネットらギロチンの犠牲になった人々の生首が展示されていたり、彼女の首を実際に刎ねたギロチンの歯も展示されているそうな。驚き顔


そして極めつけは、切り裂きジャックのような連続殺人鬼に実際に追いかけられるアトラクション(The Chamber Live )。


相当に怖いらしいですから、日本のお化け屋敷では満足しない方は是非ロンドンに行ってみてください。


マリーが制作した自分自身の蝋人形が、入口でお出迎えしてくれますョ~。




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