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圧 政

今でこそ我々日本国民は思想・宗教の自由を憲法で保障されていますが、昔はそうではありませんでした。


その象徴と言える出来事が、今からちょうど380年前に起きた

 島原の

と言えましょう。


かつての島原藩は、キリシタン大名・有馬晴信が統治していたためキリスト教信仰が盛んでしたが、1614(慶長19)年に有馬氏が転封。

しかし後任として領主となった松倉重政・勝家親子は江戸城改築の公儀普請役を引き受けるなど幕府に良い顔をする反面領民から年貢を過重に取り立てました。

またキリシタンに対する弾圧を開始し、改宗を拒んだ者に拷問を加えたり処刑を行うように。

この暴君ともいえる領主に対し、圧政に苦しんできた領民たちは一揆を計画。

首謀者たちが総大将として祭り上げたのが、当時キリシタンの間で人気のあったキリシタン大名・小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として天草諸島
(※現・熊本県上天草市)で生まれたとされる、当時16歳の天草四郎本名:益田四郎時貞)でした。


        

彼の出自等については詳しく分かっていませんが、生まれながらにして頭脳明晰・容姿端麗でカリスマ性があったとのこと。

ジャンヌ・ダルクの日本男子版ともいえる彼を押し頂いた領民たちは勢いづき、1637(寛永14)年10月25日に有馬村のキリシタンが中心となって代官所を急襲して代官・林兵左衛門を殺害したのです。

これに呼応する形で周辺各地でも一揆が起こり、藩の兵力では対抗できない程の勢いに。


 

           島原の乱図屏風(秋月郷土史館蔵)


そこで反乱を鎮圧すべく幕府が軍を派遣。

それを知った反乱軍・37,000名はかつての有馬家居城址に篭城し抵抗を続けたものの、総勢12万を超える討伐軍の圧倒的な兵力の前に武器・食糧が尽き、翌年2月27日から始まった総攻撃により落城。


天草四郎は城中で自害した、と伝えられます。


私は学校で 〝島原の乱=キリシタン弾圧に抵抗した宗教戦争〟というニュアンスで教わりましたが、上記の通りこの反乱はむしろ圧政に苦しんだ農民一揆と言った方が正確でしょう。

しかし時の幕府は、松倉勝家の申し立て通りこれをキリシタンの反乱と位置づけ、領内のキリシタンを悉く処罰。


またこの反乱を利用する形で後にポルトガルとの交易を禁止し、より鎖国を先鋭化していきました。

そして一方の圧政者・松倉勝家も過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いた責任を問われて改易処分となり、後に斬首。

江戸時代に名誉を重んじた切腹を許されず、首だけをはねられた大名は、彼ただ一人だったそうな。

殺された領民にとって、これが唯一の救いだったのかも・・・。


【余 談】


島原の乱の後キリスト教徒らを強制的に改宗させるため、幕府が全国各地の寺院を 〝菩提寺〟とし、周辺住民を仏教の 〝壇信徒〟にとなることを強制。


彼らが旅行や転居で移動する際には証文を出させるなどと定めたのが、1664(寛文4)年に発令され現代に至るまで続いている 『寺請(檀家)制度』 なのです。


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