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官 営

2年半前に世界遺産に登録されてからは、私が帰省の際に走る上信越自動車道のI.Cにはそれまでなかった案内板も立てられました。 

群馬県の新名所として注目されるようになった、その

 富岡製糸場

が操業を開始したのが、今から145年前の今日でした。


    


江戸時代末期に開国して以来、日本は諸外国との交易を開始しましたが、当時最大の輸出品は、生糸。

しかし需要が急に高まったため生産が追い付かず、粗製乱造が祟って評価が落ちたため、政府は官営の器械製糸工場建設を計画。


① 洋式かつ最新技術の製糸技術の導入
② 外国人を指導者に招聘
③ 全国から工女を募集し、技術を修得した彼女らを指導者として出身地に戻す。

を基本施策とし、フランス人のポール・ブリュナを指導役として雇用し、いくつかの候補地の中から富岡に工場建設を決定。

    

       フランス技術陣の一行 ブリュナは後列右から2人目

1871(明治4)から建設を開始し、翌年7月には早くも主要建造物が完成し、10月4日の操業開始に漕ぎ着けたのです。

同製糸場は、長さ140mの繰糸所に300釜の繰糸器が並ぶという、当時の欧米工場の2倍近い世界最大の規模を誇っていました。


    


当初は赤字経営でしたが、1976(明治9)年に人件費の高い外国人が契約満了となって100%日本人の運営になってから黒字転換。

その後1893(明治26)年に三井家に払い下げられ、1902(明治35)年には原合名会社に譲渡。

1938(昭和13)年には株式会社富岡製糸所として独立したものの、その翌年に日本最大の製糸会社・片倉製糸紡績(現・片倉工業)株式会社に合併され、今から30年前の1987(昭和62)年まで操業を続けました。

そして偉いのは、この片倉工業。

操業停止後も年間1億円の費用をかけてこの文化財を維持したのですから。

そのおかげで世界遺産登録になり、更にその半年後に繰糸所・西置繭所・東置繭所の3棟が国宝に指定されたと言って、過言ではないでしょう。


 

 


さて製糸場と聞くと、多くの方が〝あゝ野麦峠〟や〝女工哀史〟など、若い工女たちの過酷な労働をイメージすると思います。

確かに彼女らは粗末な食事で1日12~14時間も働かされ、休日は月に2日という酷い労働実態だったようですが、それはあくまで後に操業を始めた民間製糸工場での話。

こと富岡製糸場に限っては例外で、1日8時間労働・週1日休だったようです。

技術習得ために全国から集められたのは旧士族の娘をはじめ優秀な女性で、将来指導者として期待された彼女らは皆高い教養を備えており、労働実態もキッチリ。

工女は8段階のランクに分けられ、最高の一等工女には高収入ばかりか服装も特別待遇・・・おそらく皆競うように頑張っていたはず。

そのような環境の中で、1884(明治17)年度まで製糸技術習得のためこの工場で働いた女工は、延べ3,481名に上りました。


そのな彼女らの仕事ぶりを、実際に1873年4月から翌年7月にかけて伝習工女として働き、後に地元の西城村製糸場の指導者として活躍した長野県出身の士族で松代区長だった横田数馬の娘・英(ひで)という女性が、軍人と結婚した後50歳になってから当時を思い出して書き記した

 『富岡日記』 (ちくま文庫・刊)

       


をお読みいただくと、よくお分かりいただけると思います。

17歳で未知の世界に飛び込んだ英さんの率直な筆遣いで、工場・仕事の様子や世相が良く分かる日記(というより回想録)には時々驚かされたり、日常生活が目に浮かび思わず微笑んでしまいます。


       

                 和田 英(ひで)

また 「繰婦は兵隊に勝る」 という初代工場長の言葉を胸に秘め、創業翌年には一等工女に手による生糸がウィーン万博で〝二等進歩賞碑〟を受賞するなど、我が国の工業近代化を支えた彼女らの心意気も感じていただけるはず。


私たちは命を賭して戦った兵士だけでなく、お国のため一心不乱に働いた女工たちの気概をも後世に伝えなければなりませんネ。扇子


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