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政略結婚

戦国時代、嫁いだ武将の運命に翻弄された女性は何人もいましたが、この方も間違いなくその一人と言えるでしょう。

今日は、あの徳川家康の正室であった


   つき やま どの
 築 山 殿 (御前)

の命日にあたります。


天下人の正妻になった女性ですが、実は出自に関してはあまり詳しく分かっていません。

家康よりも1年早い1542(天文11)年に今川義元の妹の娘・・・つまり姪として生まれたといわれていますが、実際にはもっと早く生まれていたという説も。


1557(弘治3)年に伯父・義元の養女となった彼女は、当時今川家の人質となっていた徳川元信(後の家康)と共に16歳の時に祝言を挙げ夫婦に。

翌年に長男・松平元康を、更に翌年には長女・亀姫をもうけました。


しかし彼らの運命を大きく変える出来事が、その翌年1590(永禄3)年に起こります。

それは、有名な 『桶狭間の戦い』。

織田信長が今川軍を奇襲で破り義元の首を取ったことを受け、家康は信長と同盟を結ぶ決定をします。

これにより、築山殿の父・関口親永と妻は今川家の怒りを買い、自害。

家康からすれば徳川家の生き残りをかけた止むを得ない決断だったとはいえ、築山殿からすれば夫の裏切りによって両親が死んだわけですから、面白いわけがありません。


         

もともと家康の母と折り合いが悪かった彼女は家康との同居を長らく許されず。

(※彼女が築山殿と呼ばれるようになったのは、夫・家康の居城・岡崎城に入ることを許されず、岡崎城の東にあった築山御殿で暮らしたから。)

また息子・信康が信長の長女・徳姫と結婚したものの、中々世継ぎの男子が生まれなかったため、武田家の家臣の娘らを息子の側室に迎えさせます。

これを快く思わなかった徳姫が、父・信長に 「義母・築山殿が夫・信康に自分の悪口を吹き込んだり、武田家と密通して織田家を裏切ろうとしている」 などと12か条に渡る訴状を送付。

要は娘が父親にあることないことチクッたわけですが、これに怒った信長が家康に母と長男を殺害するよう指示。

逆らえない家康は、家臣に命じて1579(天正7)年8月29日に築山殿を殺害。 


長男・信康は翌月15日に切腹して果てました。

(※長男の切腹については、家康と父子の対立が原因とする説有り。)


養父に言われるままに結婚し、姑とも息子の嫁とも折り合いが悪く、挙句に夫に殺された築山殿・・・その恨みの深さからか、地元には様々な怨霊伝説もあるそうな。

また彼女が嫉妬深い悪女・悪妻とする記述が複数残されていますが、それらはいずれも江戸時代に入ってから。

「歴史は勝者が作る」 と言われますが、これらは権現・家康公を神聖化・正当化するための作り話である可能性は、十分あります。

もしかしたら、あの世で家康は築山殿に土下座して平謝りし続けているかも・・・。うー


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