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今 昔

今日・3月30日が『マフィの日』であることは、過去記事でご紹介しました。


マフィアと言えば、(↑)にも書いた映画 『ゴッドファーザー』 シリーズを思い出す方が多いはず。


    

今日は、たまたまYouTubeサーフィンしていて見つけた、同作に出演した俳優さんの当時と現在を比較(?)した動画をご紹介したいと思います。(↓)


 

半世紀近く前の映画ですので、既に鬼籍に入られた俳優さんもいらっしゃるのは仕方のない事ですが、アル・パチーノのように今でも現役で活躍している俳優さんもいるのが、さすがというか驚きというか・・・。

ついでに、わが青春時代で最も思い出に残るアクション映画 『トップ・ガン』 に関しても、同様の動画を見つけました。(↓)


 

驚くべきは、トム・クルーズ。

30年以上前と殆ど変わらぬ肉体を維持しているんですから・・・相当な節制と努力を重ねているんでしょうネ。

お相手役だったケニー・マクギリスは・・・ノー・コメント。😅

そして作品ではないですが、かつて活躍したアクション・スターの今昔を集めた動画もありました。(↓)


50 Action Stars then and now ★ 2021Thank For Watching. Please Like, Comment and Subscribe For Get New Videos Update Everydayリンクyoutu.be

如何でしょうか?

人によって歳の重ね方はそれぞれですょネ。

肉体の衰えは誰にでもやってきます。

でも、トム・クルーズとまでは行かずとも、少しでも努力してそのスピードを鈍られたい・・・そして何よりも心の若さは失いたくない!

そう思わせる動画だと私は感じましたが、皆さんは如何でしたか?

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改 心

今日は、日本人なら皆知っている大手食品メーカーの創立者である

 鈴木 三郎助

の命日・没後90周年にあたります。

その会社名は後程ご紹介することにして・・・。

       

三郎助は、明治維新を直前に控えた1868(慶応3)年に現在の神奈川県三浦郡葉山町で、穀物・酒類販売店『滝屋』を開業した初代・三郎助の三人兄弟の長男として生まれました。

そして父親が35歳で腸チフスにより他界したため、僅か9歳で家督を相続することに。

尋常小学校を卒業し12歳の時に米穀商で住み込みの見習いをした後、18歳で自宅に戻り2代目三郎助を襲名し、家業を継承。

しかし米相場に入れ込んで失敗し、家屋敷や山林の大半を失い、借金生活にハマったため、母・ナカが自宅の奥二間を避暑客に間貸しすることに。

そして偶然そこを訪れた大日本製薬の技師・村田春齢から勧められ、母と妹が自宅近くの浜辺に漂着する海藻・かじめからヨードを製造する事業を始めます。

これが成功し、借金取りから逃れるため家を飛び出していた三郎助も、必死に働く母と妹の姿を目にして改心し手伝うことに・・・これが彼の実業家としてのスタートとなりました。


日露戦争による需要で莫大な利益を上げ日本最大手のヨード製造業者として力をつけた彼は、1907年に同業者をまとめて日本化学工業を創立、社長に大倉財閥の総帥・大倉喜八郎(↓)を招き、自らは専務に。


その翌年、東京帝大の池田菊苗博士がグルタミン酸を主成分とする調味料の製造法を発見し、特許を取得。

たまたま池田博士と知り合いだった三郎助が、葉山の自社工場でこれを製造することを決意、1909(明治42)年から販売を始めたのが、『味の素』でした。 (↓)



1917年に設立した株式会社鈴木商店が1946年に味の素株式会社と改称し、現在に至っているわけです。

その後三郎助は、商品の製造に電力の安定供給が欠かせないことから、東信電気株式会社を設立し、建造した発電所を東京電燈に売却するなどして莫大な利益を上げてもいます。

米相場の失敗、同業者とのかじめ買占め合戦、味の素の特許期限延長問題等々、様々な難局をその都度独特の論理・戦略で乗り切った三郎助が、食道がんにより65歳でこの世を去ったのは、1931(昭和6)年3月29日のことでした。

うまみ調味料だけでなく、食用油や冷凍食品など多くの製品を製造販売している味の素の製品・・・全く利用していないご家庭は、まずないでしょう。


    

今日同社の製品を口にする時は、二代目・三郎助に感謝しつつ冥福を祈ってください。


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展覧会の絵

今日・3月28日は、バラキエフ、キュイ、ボロディン、リムスキー=コルサコフらと並んで〝ロシア五人組〟として並び称される、私の好きな作曲家


 モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー

         Modest Petrovich Mussorgsky


の命日・没後140周年にあたります。

       


ムソルグスキーは1839年、ロシア・ブスコフ州の地主階級の家に生まれました。

6歳から母の手ほどきでビアノを始め、10歳でサンクトペテルブルクのエリート養成機関・ペトロバヴロフスク学校に入学。

本人は武官を目指し13歳で士官候補生になりましたが、音楽との縁は断ち難く、
その年には父親の出資でピアノ曲 『騎手のポルカ』 を出版。

その後五人組の一人・バラキエフに師事してベートーヴェンなどのドイツ音楽を学び、数々の作曲を行いました。

と言っても実際には作曲家としてではなく、文官としての収入で生計を立てていましたが・・・。

しかし1865年に母親が死亡したことにショックを受けた彼はアルコール依存症に陥り、1880年には公務員の地位を追われてしまいます。

彼の才能を惜しんだ友人らがカンパを集めるなど支援しましたが、翌1881年に入ってすぐ彼は4度もの心臓発作に見舞われ、同年3月28日に42歳でこの世を去りました。

歌劇などの作品もありますが、日本でよく演奏されたり耳にする曲と言えば、おそらく皆さんも音楽の授業で聴かされたであろう 『禿山の一夜』、それと私が大好きな 『展覧会の絵』 でしょう。

我が家にもカラヤン/ベルリン・フィルのCDがあります。(↓)       

       

 ※演奏は、こちらでお聴きいただけます。




ご存知の方も多いと思いますが、これはラヴェルが編曲・オーケストレーションしたもの。

 ※ラヴェルに関する過去記事は、こちら。(↓)




この曲は本来、ムソルグスキーが1874年に友人だったヴィクトル・ハルトマンの遺作展で鑑賞した10枚の絵からインスピレーションを得て作曲した、ピアノ組曲でした。

世間では圧倒的にラヴェルのオーケストラ版が演奏されたりBGM等で利用されていますが、私自身感動したのは中学生時代・・・敬愛する20世紀最高のピアニスト、ヴラディミール・ホロヴィッツの演奏を聴いた時でした。

今我が家には、その演奏(1947年版)とカーネギーホールでのライヴ録音(1948&1951年版)、それから彼の没後にリリースされたプライベート録音盤、計4枚のCDがあります。

    

 ※カーネギーホールのライヴ録音全集に関する過去記事は、こちら。(↓)




私は左の1947年版の演奏を初めて聴いた時、ピアノ1台でオーケストラ演奏に引けを取らないというか、それ以上の迫力に度肝を抜かれ、楽譜を買って練習してホロヴィッツの演奏をステレオでかけながら一緒に弾いて悦に入ってたものです。

特に冒頭の〝プロムナード〟は今でも時々弾いてます。

    

それでは最後に、私とホロヴィッツを強く結び付けてくれたムソルグスキーの冥福を、ホロヴィッツの名演を聴きつつ祈りたいと存じます。



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【特別増刊】 武 人

今日は、かつて文部省唱歌にまでなったにもかかわらず、戦後教育では全く教科書に記載されなくなった大日本帝国海軍軍人、


 広瀬 武夫 中佐


の命日にあたります。


       

1868(慶応4)年に現在の大分県竹田市に武家の次男として生まれた武夫少年は、母と7歳の時に死別・・・祖母に厳しくサムライ教育を施されました。


9歳の時に西南戦争で生家は消失し、かつて坂本龍馬と盟友であった父親が裁判官として単身赴任していた飛騨高山に転居。

同地の小学校を卒業後そこで代用教員となりましたが、退職後海軍兵学校に入校し講道館で柔道を学び4段の腕前に。


        

                                   16歳の広瀬青年


兵学校卒業後は海軍少尉に任官され、海門・比叡・筑波・扶桑 に乗船して太平洋での遠洋航海を体験、その間清水港では豪傑ぶりで鳴らした清水次郎長との交友エピソードも残しています。


日清戦争に従軍後、1985(明治28)年には海軍大尉に昇進。


必ずやロシアと戦う時期が来ると考えた彼は、敵国を熟知する必要性を痛感し独学でロシア語を学び始めます。


その努力を評価され2年後にロシア留学生に抜擢されると、ロシア語を学ぶ傍ら軍事施設を見学するなどして同国の情報を収集。


1899(明治32)年には駐留武官となってドイツ・フランス・イギリスを視察。


3年後の帰国時わざわざイルツークまで鉄道に乗って輸送能力を調べ、更にそこからは酷寒のシベリアを馬ゾリで横断し実情を探索。


ちょうどその頃、日本ではあの八甲田山の陸軍遭難事故があったのですから、それよりも過酷な条件の中16日で約2,000kmを走破したことは、実に驚くべき離れ業です。


そして彼の予想通り、やがて日露戦争が勃発。


戦艦 ・朝日の水雷長として出撃した広瀬大尉は、1904(明治37)年3月27日・・・ロシア艦隊の停泊する旅順港の入口に船を自沈させて動きを封じる決死の作戦実行部隊に志願。


第2回目の閉塞作戦は4隻の船を沈める計画であり、その中の一隻・福井丸の指揮官となって出撃。


そして一旦船を離れたものの、行方不明となった杉野孫七上等兵曹捜索のため帰船。


3度も船内を捜索したものの見つからず、仕方なくボートで離船した際に敵砲弾の直撃を受け戦死・・・まだ35歳という若さでした。


生涯独身で、部下への体面から女性とデートしても一切手を出さなかったという超硬派。


次郎長との付き合いや横綱・常陸山と義兄弟の契りを交わしたことからも、気骨ある人柄が偲ばれます。


その生真面目で職務に忠実な性格、そして我が身の危険を顧みず部下を探し回ったということで、彼は2階級特進で中佐となり日本軍初の〝軍神〟として崇め奉られました。


彼の壮絶な戦死はヨーロッパにも軍人の鑑として伝えられ、イギリス・ドイツでは絵葉書にもなり海軍士官教育の模範になったといいます。


また亡くなった後にロシア海軍軍人の娘・アリアズナ嬢との文通が明らかになりましたが・・・彼女は愛する異国人の悲報を聞きその場で卒倒、しかも以後生涯にわたって胸につけた喪章を外さなかったとか。


         


敵国の白人女性をそこまで惚れ込ませた広瀬中佐の人間的魅力は、その言動や逸話の数々から容易に想像できますが、その彼の生涯については、この本によって詳細を知ることが出来ます。(


  『 広瀬武夫  旅順に散った「海のサムライ」   
                     (櫻田 啓・著 PHP研究所・刊)


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


私は常々不思議というか、不満があるのですが・・・なぜ現代の学校教育では、ケネディ大統領やチャーチル首相などの外国人や信長・秀吉・家康など中世の有名人・天下人を扱っても、広瀬中佐のように国の行く末を案じ部下を救うために自らの命を賭けた素晴らしい日本人を取り上げないのでしょう?


ただ軍人だから、と言う理由で除外するのはおかしいと思うのです。


伝説に近い有名人だけでなく、人の道を貫き私たちと同じ世紀を生き抜いた人物とその生き様をこそ、未来を担う子供たちに教えるべきではないでしょうか? 


以前拙ブログでご紹介した、400名以上の溺れかかった敵兵を救助した工藤俊作中佐など、学校で教えない誇るべき先達の逸話を、私たちは子々孫々に語り継がねばなりません。(↓)


いい加減自虐教育から逸脱しなければ、子供たちが自分の国に誇りを持てなくなってしまいます。


最後に、お祖母様が広瀬少年に叩き込んだ 〝八か条〟 をご紹介致しましょう。


 ◆ 他人の悪口を言ってはなりません
 ◆ 嘘をついてはなりません
 ◆ 弱い者いじめをしてはなりません
 ◆ 人を軽蔑してはなりません
 ◆ 愚痴をこぼしてはなりません

 ◆ 人をねたんではなりません

 ◆ 約束は守らねばなりません

 ◆ 口にしたことは実行しなければなりません


・・・嗚呼、耳が痛い。ダメだぁ顔


同郷の作曲家・滝廉太郎にとっても憧れだったという武人・広瀬中佐のご冥福を、尊敬の念と共に衷心よりお祈り申し上げます。


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応対辞令

今日は、我が愛読誌・月刊『致知』4月号より、JFEホールディングス名誉顧問・數土(すど) 文夫氏による[巻頭の言葉]を、一部編集にてご紹介します。

         ◆     ◆     ◆     ◆

先知先賢の説く君子の1つに、『応対辞令』 というものがあります。

応対辞令とは、文明社会における多様な人間関係にどう対処していくか、その対処法であり、人間学そのものてもいえます。

古典の随所で論じられ、人々の心に刻まれてきた言葉ですが、昨今の国家リーダーの発言、国会での論戦、一部メディアの論調、SNSのコメントには殆どそうした意識が窺えず、私は大変危うさを感じています。

日本の国会では、野党が一所懸命に政権を問い詰めるものの、一向に支持が上がりません。

応対辞令についての認識に乏しいことも大きな要因ではないでしょうか。

二千年以上前から伝わる支那の著名な古典のひとつに『戦国策』があります。

秦・魏・趙・斉・韓・楚・燕の七ヶ国がその覇権と存亡を懸けて競い合った、戦国時代の熾烈な対人折衝を活写している歴史書です。

同書には、各国の王・宰相・武将はもちろん、一介の遊説の徒・説客をも交えた権謀術数が対面形式で詳細に描写されており、彼らが常人には想像し得ない奇想天外な発想、巧みな論理構成・比喩を駆使して交渉を行う様子に引き込まれます。

       
        
 『戦中策』 (近藤光男・訳 講談社学術文庫・刊)

有名な〝漁夫の利〟の故事も、その一例です。

趙国が燕国を攻めようとした時、燕の昭王はこれを阻止するため、重用する説客・蘇代を趙の恵文王の説得に当たらせました。

蘇代は恵文王に「シギとハマグリが争っているところへ漁夫がやってきて、やすやすと両方とも捕らえてしまった」という寓話を用いて、今趙と燕が争えば強国・秦が漁夫となって両国を平らげてしまうだろう、と恵文王の侵攻を思い止まらせたのです。

当時の説客の卓越した見識と胆力が窺えますが、こうした逸話を収めた 『戦国策』 こそは、相手の置かれた立場・心情を理解した人間学の核心を成す応対辞令の事例集なのです。

『戦国策』 で共通しているのは、説得せんとする相手に対して、真っ向から反対したり非難中傷したりする場面が殆どないことです。

相手の立場を理解し常に敬意を表しつつ、相手も納得し得る道理・事例を示し、「ご賢察を」 と利害得失を覚(さと)らせる。

このことが、賢くあらねばと自意識十分な相手の心に鋭く迫り、説得を成功に導くのです。

今は情報の溢れる時代です。 

このため、自分はいっぱしの物識りになったという錯覚に陥りやすく、安易な言動に走りがちになりますが、これは危険であり有害にもなります。

また人は自分を過大評価し、自分を見失ってしまいがちです。

社会的地位が高くなるほどその傾向は強くなり、やがて悲惨な結末を迎えます。

歴史を繙(ひもと)けば、織田信長、そして大東亜戦争に望んだ日本軍部と日本国などは、その端的な事例といえるでしょう。

これに対して戦国時代の説客たちは、相手の置かれている状況を鋭く正確に分析し、また自らの実力、他者からどう見られているかまでも検討し尽くして説得に当たりました。

かの老子は説いています。

「人を知る者は智なり 自ら知る者は明なり」

(人を知ることは智者に過ぎない。 

  自分自身を知ることこそ明とすべき。)


他者について知ることは重要ですが、自らについて知ることは更に重要であり、難しいことでもあります。

老子とほぼ同時代のギリシャの哲学者・ソクラテスは、「知る」 とは「知らないことを知ること」 と喝破しています。

老子やソクラテスが説き、そして 『戦国策』 に描かれる見識と胆力を備えた謙虚さこそ、応対辞令の基本です。

人間学の核心とも言える応対辞令を学ぶことが、この困難な時代に道を拓く鍵になると私は考えています。


         ◆     ◆     ◆     ◆

本当の馬鹿とは、自分が馬鹿であることに気付かない者のこと・・・自戒したいものです。


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マンモス

現在のようなデフレ不況とは全く真逆・・・東京オリンピックを開催して戦後復興を成し遂げ高度経済成長を続ける昭和40年代の我が国において、東京への人口集中と共に問題となったのが住宅の不足でした。


その深刻な住宅難と共に都心部の地価は急上昇。

庶民にとって東京に一戸建てを手にするのが夢のまた夢となる中、
東京都西南部の多摩丘陵に位置する八王子・町田・多摩及び稲城の4市にわたる総面積2,853ha、東西14km、南北2~3kmの地域で開発されたのが、


 多摩ニュータウン

    


この計画人口約34万人という世界最大の団地に入居が開始されたのが、今からちょうど50年前の今日・1971(昭和46)年3月26日のことでした。


    

               1972年頃の多摩ニュータウン


(※もうひとつ〝夢の住宅地〟といわれた高島平団地に入居が始まったのは、翌1972年。 ↓)



1965年に計画された同団地は翌年に認可されて建設が開始され、多摩市諏訪・永山地区から入居が始まり、以後徐々に開発・入居が続きます。


安く良質な住宅を大量に供給する」という時代で、箱形の中層住宅(5階建て)が横並びに何棟も建設され、ポイントには高層住宅(14階建て)も建設されました。


また1974年には京王帝都電鉄(現・京王電鉄)や小田急電鉄が新規乗り入れして都心への通勤手段が整備され、人口も急増。


大阪の千里ニュータウンなどと共に都市計画のモデルに。


私自身は仕事で何回もこの多摩ニュータウン近辺に行ったことがありますが、結構アップダウンのある丘陵地帯で道が曲がりくねっており、目的地を中々探せなくて苦労した記憶があります。


そんな私が多摩ニュータウンで思い出すのは、このアニメ映画。


 『平成狸合戦ぽんぽこ』


    


1994年に公開されてヒットしたこのスタジオジブリ製作の映画は、開発が進む多摩ニュータウンを舞台に、多摩丘陵に住むタヌキたちが長老や助っ人たちの力を借り、化学(ばけがく)を駆使して人間に抵抗する様子を描いたもの。


可愛いタヌキたちが活躍するアニメとはいえ、子供には理解できないような大人向けの作品で、最後はちょっと笑えませんでしたが・・・。


さて、タヌキたちの住処を奪って(?)作られた多摩NTも開発から半世紀経過した今、そこで育った子供達は独立して家を離れ、残った親たちの年齢は80歳以上。

1989年には僅か5%だった同地の高齢化率は、現在約25%に上昇。


今では巨大老人ホームと化した感があり、エレベーターのない旧型団地では上層階に住む高齢者にとって辛い住環境になっています。


大学の誘致などで若年層の流入を進めるなどしてはいますが、建て替えを含めた団地や街のリニューアルは避けて通れない課題。


前述の高島平団地を含め、おそらく住民の高齢化・過疎化・孤独死は日本全国どこの団地でも抱える問題のはず。


かつては夢のマイホームといわれたマンモス団地が今後新たなタウン開発のモデルとして再生できるかどうか、正念場を迎えているといえましょう。

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一発逆転

いよいよ明日、プロ野球が開幕・・・本格的な球春到来です。

今年はどのチームが優勝するのか、ファンの間では喧々諤々の予想合戦が繰り広げられていることでしょう。


さて、〝筋書きのないドラマ〟といわれる野球で最もエキサイティングな場面は最終回の逆転劇・・・更に言えばサヨナラ・ゲーム。

その中でも、これ以上ないという値千金の一発といえば


 代打逆転サヨナラ満塁ホームラン


でしょう。


この最も劇的なホームランが日本プロ野球で初めて飛び出したのが、今から65年前の今日・1956(昭和31)年3月25日・・・後楽園球場で行われた巨人-中日戦でのことでした。


この歴史的な一打を放ったのは、巨人の樋笠一夫選手(1920-2007)。


        

同選手の経歴は少々変わっていて、旧制高松中学で全国中等学校優勝野球大会でベスト8まで進んだものの、卒業後は職業軍人に。

戦後は広島鉄道局などのノンプロで活躍していたところを広島カープの目に留まり、1950年に30歳で入団。


いきなり打点・本塁打でチーム二冠となったものの、僅か1年で退団。

その彼を巨人が熱心に口説き落として獲得したのですが、当時の巨人は青田昇・与那嶺要など外野陣の層が厚く、広島の主力打者も代打に甘んじていました。

その彼がこの試合で代打に立ったのは、9回裏。


0-3で負けていたものの、1死満塁で一発逆転の場面。

相手チームの杉下茂投手の3球目・・・ストレートを狙い澄まして振った樋笠選手のバットは見事にボールをジャストミート!

打球は左中間スタンドに一直線・・・ここに史上初の快挙が達成されました。


ホームインした樋笠選手は、まるで優勝監督のようにナインから胴上げされたそうな。

       

8年間の現役生活で打率.229、ホームラン54本という平凡な記録しか残していない同選手ですが、この一発で見事球史にその名を残しました。


さて、今までこの劇的なホームランは樋笠選手のものを含め、日本プロ野球では8本飛び出しています。

日本国内で初めてプロ(職業)野球の試合が行われたのは、1936(昭和11)年2月9日。(↓)



以来85年・・・現在ではCS・日本シリーズを含め年間890試合程行われていますから、少なく見積もっても累計試合総数は約7万試合。


樋笠選手以降に達成した選手を年代順に並べてみると、


② 1956年6月24日 藤村富美男(阪神) 

    (藤村監督自ら「代打はワシ」と告げて打席に・・・。)

③ 1971年5月20日  広野 功(巨人)

④ 1984年6月11日  柳原隆弘(近鉄)

⑤ 1988年6月18日  藤田浩雅(阪急)

⑦ 2001年9月28日  藤井康雄(阪急)

⑧ 2011年10月22日 長野久義(巨人)


・・・あれっ、⑥は?

はい、決して忘れたわけではありません。

実は2001年9月26日に飛び出した史上6本目は、更に劇的。

現在まで日本はおろかメジャーを含めても史上唯一、いや今後もおそらく出ないであろう〝代打逆転満塁サヨナラ優勝決定ホームラン〟なのです。

打ったのは近鉄の北川博敏選手。


前年阪神からトレードされてきた同選手の、まさに乾坤一擲・会心の一打・・・その映像を、どうぞご覧ください。(※9分過ぎ) 


北川選手の名は、この一打で近鉄ファン・プロ野球ファンの記憶に永遠に留められることでしょうが、この僅か4日後に打った⑦の藤井選手の一発も、実はやはり史上唯一となる2死・(お釣り無しの)3点差での達成だったのです。

しかし
北川選手の一発があまりに劇的だったため、完全に霞んでしまいました。

これもいわゆるひとつの〝運〟ですネ。

さぁ今シーズン、果たして9本目は出るでしょうか?野球ボール


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激 震

〝地震大国〟といわれる日本では、これまで何度も大きな地震に見舞われてきましたが、我が故郷・信州も例外ではありませんでした。

その最も大きな被害を出した


善光寺地震

が起きたのが、今から174年前の今日・1847(弘化4)年3月24日のこと。


同日夜10時頃、善光寺のある現・長野市内を震源とするM7.4の強い地震が発生。


震源地付近は震度7の激震に見舞われ、余震は翌日にかけて大小約80回、その後約1年間も続いたといわれます。

この地震により善光寺は本堂の内陣造作などが大破し、門や経堂が小破。

大勧進では万善堂・護摩堂・聖天堂などが大破し、善光寺領では3,069戸あった民家の内2,385戸が倒壊。

松代藩士の居宅や民家も多くが全壊・半壊等の被害を受けました。

そして最初の激震後まもなく善光寺周辺の大門町・横町ら数ヶ所で火災が発生。


延焼を食い止められず鎮火まで3日を要し、門前町の殆どが焼失しました。

       


皆さんもご存知の通り、善光寺では7年に1度、秘仏である御本尊の御身代わり前立本尊を公開する〝御開帳〟が行われますが、この大地震が起きた時はまさにその御開帳の最中だったのです。

門前町を中心として全国から7~8千人が宿泊していたそうで、火災発生時には土地勘のない参拝客がパニック状態となり、その多くが火に巻かれて焼死したといわれます。

またこの地震では、「犠牲者は
土葬にされ、火葬にされ、水葬にされ三度弔われた」と言い伝えられるように、各地で起きた地滑りや山崩れによって生き埋めにされたり、またそれによって犀川が何箇所も堰き止められたことで洪水が発生、水死した住民も多数。

死者は善光寺町2,486人、松代藩2,717人、飯山藩1,515人、松本藩67人、須坂藩17人、陣屋中野602人、 上田藩1,177人、 高田藩5人で 計8,586人。 

また住宅全壊2万883戸、 住宅半壊1万1364戸、 山崩れ4万2528ヶ所という、大きな被害を出しました。


この大地震に対し、当時の松代藩主で松平定信(の側室)の子・真田幸貫は自ら足を運んで被災地を視察し、幕府から借りた1万両(無利息)で田畑を失った農民たちを治水事業に起用、また善光寺の修復も進めるなど善政を施したといわれます。

ただ藩
の財政は復興費用が重くのしかかって殆ど破綻状態となり、それは幕末まで解消しなかったそうですが・・・。


専門家によれば、この長野市で同様の大地震が起きる周期は1,000年に1度とのこと。

しかし私は、この説には懐疑的。

なぜなら、この大地震から118年後の1965(昭和40)年から3年間、同地域では 『松代群発地震』 が起きたから。

ちょうど私が小学生の頃でしたが、庭の燈篭がまるでダンスを踊るようにグラグラと目の前で揺れた光景は今でも鮮明に憶えていますし、通っていた木造校舎が電信柱の廃材で両側がつっかえ棒のように補強されていたことも忘れられません。

自然災害は決して規則正しく、また予想通りには起きません。

東日本大震災から10年経過した今、再度防災意識を高めるべきでしょう。


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リ ズ

世界三大美女のひとり、クレオパトラ。


もちろん彼女の姿を見た人間は現世には存在しませんが、私の中での彼女のイメージはこの女優の姿で確定しています。


     エリザベス・テイラー

  Dame Elizabeth Rosemond Taylor


今日は〝リズ(Liz )〟という愛称で親しまれ、20世紀最高の美人女優とも言われた彼女の命日・没後10周年にあたります。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-Dame Elizabeth Taylor


エリザベスは1932年、イギリス・ロンドン在住だったアメリカ人の両親(父は美術商、母は元舞台女優)の間に生まれました。


彼女が7歳の時に、戦火を避けるためアメリカ・カリフォルニアに一家で移住しましたが、娘を女優にと願う母はユニバーサル社に売り込み、10歳で子役デビューを果たします。


しかしその映画は全くヒットせずエリザベスは解雇されてしまいますが、MGM社のブロジューサーの目に留まった彼女は 『名犬ラッシー』 第1作のヒロインに抜擢されたことで有名になり、同社と7年契約を結びスター女優の階段を登り始めます。


1944年の 『ジェーン・エア』・『ドーヴァーの白い崖』 では、子供とは思えない美貌と演技力を披露。 同年の 『緑園の天使』 では男装の令嬢という難しい役柄を見事に演じました。


15歳の時に出演した 『奥様武勇伝』 では早くもウェディング・ドレス姿を披露。


翌年にMGM所属スターが総出演した 『若草物語』 で三女のエイミーを好演。


そして彼女が18歳の時の 『花嫁の父』 では結婚式を控えて不安に揺れる女性を熱演。


・・・実に早熟な女性だったともいえます。


私自身はこれらの古い映画を鑑賞したことはありませんが、やはり印象深い作品はJ・ディーンと共演した 『ジャイアンツ』(1956)と、冒頭の 『クレオパトラ』(1963)。


特に 『クレオパトラ』 では、その美貌と貫禄で並み居る有名男優陣が翳むほど。


 ※クレオパトラに関する過去記事は、こちら。(↓)



1960・66年と2度のアカデミー主演女優賞、ゴールデン・グローブ賞では主演女優賞を含め4回の受賞を果たし、押しも押されもしない大女優の地位を獲得。


しかしスクリーン上での華麗な姿と違い、私生活は奔放というかドロドロというか・・・。


18歳でホテル王の息子コンラッド・ヒルトン・ジュニアと結婚しましたが僅か9ヶ月で離婚。 

その後も映画プロデューサーと再婚するも彼が飛行機事故で亡くなると、彼女を慰めてくれたデビー・レイノルズと不倫の末に略奪婚。


その彼とも離婚した後、またしても妻帯者だった 『クレオパトラ』 での共演俳優リチャード・バートンと恋に落ちて結婚。 


しかも彼とは一度離婚した翌年に再婚するというオマケつき。


最後には入院先で知り合った元建設作業員と結婚・離婚・・・通算8回もの結婚と7回の離婚を繰り返しました。

       


晩年は親友ロック・ハドソンの死をきっかけにエイズ撲滅に力を注ぎ、1987年には全米エイズ研究基金の議長を務めるなど積極的にチャリティー活動に取り組みました。

そして親友だったM・ジャクソンの密葬にも参列した彼女がうっ血性心不全で79歳の人生に幕を閉じたのは、2011年3月23日のこと。


華麗なスクリーン上での活躍に反して、結婚・離婚を繰り返した彼女・・・本当は寂しがり屋で愛情に飢えていた女性だったのかも。


亡くなった2011年末に彼女の遺品がオークションにかけられ、80点で約90億円もの値がついたとか。

個人所有品としては過去最高の売り上げを記録したのは、さすが世紀の大女優・・・しかしそれらの豪華な宝飾品をもってしても、彼女の心の隙間を埋めることはできなかったのでしょうか?


あらためて、私にとっての〝永遠のクレオパトラ〟、リズのご冥福をお祈り致します。笑3

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都市計画

「日本を代表する建築家は、誰?」 と問われたら、多くの方は、


  丹下 健三  


の名を挙げることでしょう。

今日は、海外でも活躍し、また国内でも数々の有名建築を手がけた名建築家の命日・十七回忌にあたります。


       


丹下氏は、1913(大正2)年に大阪府堺市で生まれました。 


銀行員だった父親の転勤により支那の漢口・上海などに移り住んだ後、旧制広島高校(現・広島大学)時代に図書室でドイツの建築家ル・コルビュジェの記事を読んだことから建築家を志し、1935年東京帝大工学部建築科に入学します。


3年後に卒業すると、コルビュジェの弟子・前川國男氏の建築事務所に入所。

そして1941年に東京大学大学院に進学すると、在学中に〝大東亜建設記念営造計画〟 コンペで1位当選を果たしてことで、一躍名を知られるように。


1946年に大学院修了後、同大学建築科助教授に就任し、いわゆる〝丹下研究室〟を主宰。


そして終戦間際に父母を相次いで亡くすという過酷な状況下において、丹下氏は原爆が投下された思い出の地・広島の復興のため現地入り。 


都市計画業務に従事し、広島平和記念公園コンペで見事1位を獲得しました。


原爆ドームをそのまま残して慰霊碑と直線で結ぶ配置は、他の追随を許さぬ独創的なものだったそうで、その後の広島市街地整備の骨格を成したといわれています。            


その後、大阪万博の基幹設備などの最先端建築から日光東照宮・客殿などの歴史的建造物まで、数多くの建築や都市設計に携わりましたが・・・私が見た建築の中で最も印象的だったのは、国立代々木体育館でした。

       


東京オリンピックの水泳・バスケットボール会場として使用された同体育館は、柱を使わない吊り天井造の何とも言えぬ美しい曲線美を備え・・・私にはコンクリート造の建物というよりも、巨大な芸術作品のように見えました。


東京五輪のアメリカ水泳選手団長がその美しさに感激し、「自分の骨をこの会場の飛び込み台の根元に埋めて欲しい」 と口走った、という逸話も頷けます。

その他、東京では都庁舎やフジテレビ本社など、丹下氏の作品は数多く見かけることができます。

    

                 フジテレビ本社


 ※東京都庁に関する過去記事は、こちら。(↓)


世界的な名声を得ながら自身の回顧展などを催すことはなく、常に斬新な工法・デザインを追い求めた丹下氏・・・一方では黒川紀章氏ら多くの後進をも育成した、まさに建築界の重鎮でした。


1980年には文化勲章も受賞し、その前後に海外で様々な勲章授与や表彰を受けた丹下氏が91歳で亡くなられたのは、2005(平成17)年3月22日。

クリスチャンであった氏の葬儀は、自らが設計した東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行われました。


       


東京以外にお住いの方でも、近くに丹下氏の手がけた建築物があるかもしれませんので、ちょっと調べてみてください。

あらためて〝世界の丹下〟のご冥福をお祈り致します。
笑3

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