
今日・3月30日が『マフィの日』であることは、過去記事でご紹介しました。
マフィアと言えば、(↑)にも書いた映画 『ゴッドファーザー』 シリーズを思い出す方が多いはず。
今日は、たまたまYouTubeサーフィンしていて見つけた、同作に出演した俳優さんの当時と現在を比較(?)した動画をご紹介したいと思います。(↓)
 
半世紀近く前の映画ですので、既に鬼籍に入られた俳優さんもいらっしゃるのは仕方のない事ですが、アル・パチーノのように今でも現役で活躍している俳優さんもいるのが、さすがというか驚きというか・・・。
ついでに、わが青春時代で最も思い出に残るアクション映画 『トップ・ガン』 に関しても、同様の動画を見つけました。(↓)
 
驚くべきは、トム・クルーズ。
30年以上前と殆ど変わらぬ肉体を維持しているんですから・・・相当な節制と努力を重ねているんでしょうネ。
お相手役だったケニー・マクギリスは・・・ノー・コメント。😅
そして作品ではないですが、かつて活躍したアクション・スターの今昔を集めた動画もありました。(↓)
如何でしょうか?
人によって歳の重ね方はそれぞれですょネ。
肉体の衰えは誰にでもやってきます。
でも、トム・クルーズとまでは行かずとも、少しでも努力してそのスピードを鈍られたい・・・そして何よりも心の若さは失いたくない!
そう思わせる動画だと私は感じましたが、皆さんは如何でしたか?
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今日は、日本人なら皆知っている大手食品メーカーの創立者である
鈴木 三郎助
の命日・没後90周年にあたります。
その会社名は後程ご紹介することにして・・・。
三郎助は、明治維新を直前に控えた1868(慶応3)年に現在の神奈川県三浦郡葉山町で、穀物・酒類販売店『滝屋』を開業した初代・三郎助の三人兄弟の長男として生まれました。
そして父親が35歳で腸チフスにより他界したため、僅か9歳で家督を相続することに。
尋常小学校を卒業し12歳の時に米穀商で住み込みの見習いをした後、18歳で自宅に戻り2代目三郎助を襲名し、家業を継承。
しかし米相場に入れ込んで失敗し、家屋敷や山林の大半を失い、借金生活にハマったため、母・ナカが自宅の奥二間を避暑客に間貸しすることに。
そして偶然そこを訪れた大日本製薬の技師・村田春齢から勧められ、母と妹が自宅近くの浜辺に漂着する海藻・かじめからヨードを製造する事業を始めます。
これが成功し、借金取りから逃れるため家を飛び出していた三郎助も、必死に働く母と妹の姿を目にして改心し手伝うことに・・・これが彼の実業家としてのスタートとなりました。
日露戦争による需要で莫大な利益を上げ日本最大手のヨード製造業者として力をつけた彼は、1907年に同業者をまとめて日本化学工業を創立、社長に大倉財閥の総帥・大倉喜八郎(↓)を招き、自らは専務に。
その翌年、東京帝大の池田菊苗博士がグルタミン酸を主成分とする調味料の製造法を発見し、特許を取得。
たまたま池田博士と知り合いだった三郎助が、葉山の自社工場でこれを製造することを決意、1909(明治42)年から販売を始めたのが、『味の素』でした。 (↓)
1917年に設立した株式会社鈴木商店が1946年に味の素株式会社と改称し、現在に至っているわけです。
その後三郎助は、商品の製造に電力の安定供給が欠かせないことから、東信電気株式会社を設立し、建造した発電所を東京電燈に売却するなどして莫大な利益を上げてもいます。
米相場の失敗、同業者とのかじめ買占め合戦、味の素の特許期限延長問題等々、様々な難局をその都度独特の論理・戦略で乗り切った三郎助が、食道がんにより65歳でこの世を去ったのは、1931(昭和6)年3月29日のことでした。
うまみ調味料だけでなく、食用油や冷凍食品など多くの製品を製造販売している味の素の製品・・・全く利用していないご家庭は、まずないでしょう。
今日・3月28日は、バラキエフ、キュイ、ボロディン、リムスキー=コルサコフらと並んで〝ロシア五人組〟として並び称される、私の好きな作曲家
モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー
Modest Petrovich Mussorgsky
ムソルグスキーは1839年、ロシア・ブスコフ州の地主階級の家に生まれました。
6歳から母の手ほどきでビアノを始め、10歳でサンクトペテルブルクのエリート養成機関・ペトロバヴロフスク学校に入学。
本人は武官を目指し13歳で士官候補生になりましたが、音楽との縁は断ち難く、その年には父親の出資でピアノ曲 『騎手のポルカ』 を出版。
その後五人組の一人・バラキエフに師事してベートーヴェンなどのドイツ音楽を学び、数々の作曲を行いました。
と言っても実際には作曲家としてではなく、文官としての収入で生計を立てていましたが・・・。
しかし1865年に母親が死亡したことにショックを受けた彼はアルコール依存症に陥り、1880年には公務員の地位を追われてしまいます。
彼の才能を惜しんだ友人らがカンパを集めるなど支援しましたが、翌1881年に入ってすぐ彼は4度もの心臓発作に見舞われ、同年3月28日に42歳でこの世を去りました。
歌劇などの作品もありますが、日本でよく演奏されたり耳にする曲と言えば、おそらく皆さんも音楽の授業で聴かされたであろう 『禿山の一夜』、それと私が大好きな 『展覧会の絵』 でしょう。
我が家にもカラヤン/ベルリン・フィルのCDがあります。(↓)
※演奏は、こちらでお聴きいただけます。
ご存知の方も多いと思いますが、これはラヴェルが編曲・オーケストレーションしたもの。
※ラヴェルに関する過去記事は、こちら。(↓)
この曲は本来、ムソルグスキーが1874年に友人だったヴィクトル・ハルトマンの遺作展で鑑賞した10枚の絵からインスピレーションを得て作曲した、ピアノ組曲でした。
世間では圧倒的にラヴェルのオーケストラ版が演奏されたりBGM等で利用されていますが、私自身感動したのは中学生時代・・・敬愛する20世紀最高のピアニスト、ヴラディミール・ホロヴィッツの演奏を聴いた時でした。
今我が家には、その演奏(1947年版)とカーネギーホールでのライヴ録音(1948&1951年版)、それから彼の没後にリリースされたプライベート録音盤、計4枚のCDがあります。

※カーネギーホールのライヴ録音全集に関する過去記事は、こちら。(↓)
私は左の1947年版の演奏を初めて聴いた時、ピアノ1台でオーケストラ演奏に引けを取らないというか、それ以上の迫力に度肝を抜かれ、楽譜を買って練習してホロヴィッツの演奏をステレオでかけながら一緒に弾いて悦に入ってたものです。
特に冒頭の〝プロムナード〟は今でも時々弾いてます。
それでは最後に、私とホロヴィッツを強く結び付けてくれたムソルグスキーの冥福を、ホロヴィッツの名演を聴きつつ祈りたいと存じます。