今日は、皆さんもよくご存じ・・・ダ・ヴィンチ、ラファエロと並んで〝ルネッサンスの3大巨匠〟と称され、彫刻家 ・ 画家 ・ 建築家 、また詩人としても活躍した
ミケランジェロ・ブオナローティ
Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni
の命日にあたります。
ミカエル(Michael )と天使(Angelo )を併せた名をつけられた彼は、1475年にフィレンツェ共和国(現在のイタリア・トスカーナ州)に生まれました。
6歳の時に母親を亡くす不幸に見舞われましたが、父親が大理石の採石場を経営しており幼い頃から石工と共に暮らしていたため、彼は早くから鑿(のみ)と金槌の使い方を会得できたそうな。
そして早くから絵画・彫刻に興味を示していた彼は、13歳の時ドメニコ・ギルランダイオに弟子入り。
フィレンツェを支配するロレンツォ・デ・メディチに認められて引き取られ、プラトン・アカデミーで多くの芸術家・有識者と出会い、大いに触発されたといいます。
当時のフィレンツェは政情が不安定だったようですが、彼の才能はその時々の権力者に認められ、『ダビデ像』、『ピエタ』、『天地創造』、『アダムの創造』 等々、数々の絵画な彫刻で名作を残すことができたようです。
とは言え、残念ながら建築主任を務めた 『サン・ピエトロ大聖堂』 の完成を目にすることは出来ませんでしたが・・・。
多くの名作をこの世に残し、1564年2月18日に88歳でこの世を去りました。
ところでこのミケランジェロ・・・名前に〝天使〟と入っている割りには相当な気難し屋で、おまけに短気だったとか。😅
晩年の彼と交際のあった画家ダニエレ・リッチャレッリの描いた冒頭の肖像画からも、そんな性格が伝わってくる気がします。
日常生活でも孤独を愛し引きこもり気味だったようで、それ故に生前から伝記が出版された程の大芸術家でありながら人が殆ど寄りつかず、弟子も残していません。
喧嘩っ早く、相手に殴られて鼻を曲げられたこともあったそうな。
そしてもうひとつ特筆すべきは、彼が異常なまでにレオナルド・ダ・ヴィンチを意識(敵視)していたということ。
※ダ・ヴィンチに関する過去記事は、こちら。(↓)
彼はダ・ヴィンチの絵画について、「あのくらいのものなら、私の下男でももっとうまく描いただろう」と述べた、とも伝えられているくらいですから・・・。
〝万能の天才〟と賞賛されたダ・ヴィンチと、庶民的かつ頑固者のミケランジェロ・・・まぁ、確かにソリが合うとは思えませんが。
その敵愾心というか強烈な対抗意識が、彼をダ・ヴィンチの死後50年近くも生き延びさせ、多くの名作を生んだ原動力だったのかもしれません。
〝ライバルがいない人生は、島影さえ見えない大海のただなかにポツンと浮かぶ舟のようなものだ。
進んでいるのか、後退しているのかさえわからぬ頼りのない人生。
それはおそらく味気のない人生だと思う。〟
この作家・藤本義一さんの言葉が、彼にピッタリ当て嵌まる気が。
貴方には、そんな終生のライバルはいますか?
1970年代の日本では、三菱重工ビル爆破(↓)など過激派によるテロ事件が頻発したことは、昭和世代の方ならご記憶のはずず。
そのハシリというか、端緒となる
真岡銃砲店襲撃事件
が起きたのは、今からちょうど50年前の今日でした。
事件を起こしたのは、日本共産党(革命左派)神奈川県委員会 [※メディアでは京浜安保闘争とも表記] のメンバー。
1969年12月に逮捕された同委員会議長・川島豪が、獄外最高指導者の永田洋子らに自らの奪還を指示したことが発端でした。
川島豪 永田洋子
永田らは当初、外国領事館等の要人を誘拐し川島との交換を画策しましたが、断念。
次に川島が公判出廷のため拘置所から地裁に護送されるところを襲撃する計画を立て、その際に必要な銃火器の入手を画策。
1970年12月に警官の拳銃を奪うべく東京・板橋区の上赤塚交番を3人のメンバーが襲撃しましたが、警官に発砲され逆に1人死亡し2人が重傷を負い逮捕されてしまいます。
この失敗により警官襲撃を諦めた彼らは、次に狩猟中のハンターから銃を奪うことも考えたものの、最終的に民間の銃砲店をターゲットにすることを決定。
民間人を襲撃することに疑問の声も出たようですが、
「銃砲店は警察権力と一体化しており、その末端機関と見なすべき」
と正当化・・・過激派の自分勝手な論理には呆れるばかりです。
そして1971(昭和46)年2月17日午前2時半頃、栃木県真岡市の銃砲店に実行犯6人が電報配達を装い、勝手口が開いた途端に乱入。
夫婦と子供2人を縛った上で猟銃10丁(散弾銃9・ライフル1)と空気銃1丁、実弾約2,300発を強奪しました。
事件直後に大規模な捜査網が敷かれ、車を乗り捨ててゴミ箱に隠れていた2人が程なく逮捕され、犯行メンバーや永田洋子ら獄外指導者が指名手配されました。
これにより永田ら犯行メンバーは都市部での活動が困難になり、山岳地帯にアジトを移動。
また永田は捜査網からの逃避の中で、強奪した銃を当初の目的だった最高指導者の奪還から、武力闘争の利用へと方針を変更。
強奪した猟銃の一部は赤軍派に金銭との交換で〝相互協力〟という形で譲渡され、同派によるМ作戦(金融機関強盗)の一環として同年7月の松江相銀米子支店強奪事件で使用されました。
またこの時の猟銃は革命左派と赤軍派が合流した連合赤軍による 『あさま山荘事件』 の際、立て籠もり犯が使用しています。
※『あさま山荘事件』に関する過去記事は、こちら。(↓)
事件直後に逮捕された2名を除く4名の実行犯は、1971年8月に1名、同年11月に1名、1972年2月に1名と永田洋子が逮捕され、残る1名は山岳ベース事件で殺害されていたことが後に判明しました。
この襲撃事件により、銃砲店店主が全治2週間の負傷を追い、妻と6歳・5歳の子供は重いPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患ったといいます。
今でこそ過激派のテロ活動は影を潜めていますが、依然構成員は約2万人もいるそうな。
決して安心できる状況ではないのです。
・・・という歌が以前流行りましたが、今日はその話ではありません。
ソニー創立者の1人、井深大氏が昔経験した実話です。
※井深氏に関する過去記事は、こちら。(↓)
◆ ◆ ◆ ◆
ソニーの社長時代、最新鋭の設備を備えた厚木工場が完成し、世界中から大勢の見学者が来られました。
しかし一番の問題だったのが、便所の落書きです。
会社の恥だからと工場長に止めさせるよう指示を出し、彼も徹底して通知した。
それでも一向になくならない。
そのうちに〝落書きをするな〟という落書きまで出て、私もしょうがないかなと諦めていた。
するとしばらくして工場長から電話があり、「落書きが無くなりました」と言うんです。
どうしたんだ?と尋ねると、パートで来てもらっている便所掃除のおばさんが、蒲鉾の板2,3枚にある言葉を書いて張り付けたことが原因だったというのです。
さて皆さんが掃除のおばさんだったら、どんな言葉を書いて落書きを止めさせるでしょうか?
彼女は、こう書き記したそうです。
「落書きをしないでください。 ここは私の神聖なる職場です。」
この言葉で、ピタッと落書きがなくなったのです。
この落書きの件について、私も工場長もリーダーシップを取れなかった。 パートのおばさんに負けました。
その時に、リーダーシップとは上から下への指導力・統率力だと考えていたのが誤りだと分かったんです。
以来私はリーダーシップを〝影響力〟と言うようにしました。
◆ ◆ ◆ ◆
リーダーシップとは、上から下への統率力だけではなく、上司・部下・同僚etc・・・その方向は上下左右なんですネ。
上司を動かせない人は、部下や周囲を動かすことはできない、ということ。
厚木工場のトイレでは、パートのおばさんこそが神様・・・いや、リーダーだったのです。
※一流たちの金言』(致知出版社・刊)より抜粋・編集にて
私のような昭和世代のクラシック音楽ファンなら、この音楽家の名を知らなければモグリと言われても仕方ないでしょう。
今日は、そのクラシック・・・特にバロック音楽演奏の第一人者、バッハの権威とも言うべき宗教音楽家、
カール・リヒター
Karl Richter
の命日・没後40周年にあたります。
リヒターは1926年、牧師の子として現在のドイツ・ザクセン州ブラウエンに生まれました。
11歳の時にドレスデン聖十字架教会付属学校に入学して同聖歌隊のメンバーとなり、そこでバッハなどの合唱曲に親しみます。
1946年にライプチヒ音楽院に入学すると、3年後に教会音楽の国家試験に合格して聖トーマス教会のオルガニストに。
その翌年にライプチヒ・バッハ・コンクールのオルガン部門で首席を獲得すると、ミュンヘンの聖マルコ教会のオルガニストに就任し、同地に移住。
ミュンヘン国立音楽大学のオルガンとルター派教会音楽の講師も務めました。
1951年からハインリヒ・シュッツ合唱団の指揮を任されると、同合唱団を鍛えてミュンヘン・バッハ合唱団と改称。
更に1953年にはソリストを募集してミュンヘン・バッハ管弦楽団を結成。
翌年シュッツの 『音楽による葬送』 でレコード・デビューを果たすと、以降積極的にレコード録音を行うように。
そしてミュンヘン国立音楽大学のオルガン科教授に就任すると、自ら育てたミュンヘン・バッハ管弦楽団と合唱団を率いてアメリカへ演奏旅行。
1964年にミュンヘン市から演奏芸術奨励賞を受けると、1969年にはミュンヘン・バッハ管弦楽団と同合唱団を率いて来日。
1971年に心臓発作を起こし、その後次第に視力低下に悩まされましたが、手術で回復。
そして1979年単身で再来日し、オルガンやチェンバロのリサイタルを開き、ファンを喜ばせました。
ところがその2年後の1981年2月15日・・・滞在していたミュンヘンのホテルで再び心臓麻痺を起こし、54歳の若さで突然この世を去ってしまったのです。
生前、仕事に没頭するリヒターに友人がその理由を問うたところ、「私には時間がないのだ」と答えたそうですから、彼は自分が短命であることを予感していたのかも。
CDにして100枚以上の録音を残してくれたおかげで、私たちは今でも彼の演奏を堪能することができます。
その殆どはバッハ作品ですが、私自身40歳過ぎから急にバッハの音楽にハマり、彼のCDを何枚も買い求めました。
謹厳実直で寡黙だったという彼の生真面目な演奏は、まさにバッハの音楽にピッタリでしたから。
中でも代表的なものといえば、『マタイ受難曲』 と 『ヨハネ受難曲』。
特に左のマタイは、私が生まれた1958年の録音ながら、未だにこれを超える録音が無いと言われるほどの名演。
私も何度かクリスマス・イブの夜、静かにコレを聴いたものです。
そしてオススメは、彼自身がライフワークとしてその演奏・録音に取り組み、
「バッハの魅力はこれに尽きる。言葉によって精神を表しているその世界は比類ない。私の考える本当のバッハはこれだ。」
と繰り返し語ったという、〝カンタータ〟
このCDボックスは1万円弱ながら、26枚組とかなりお得。
バッハに興味のある方には、是非その権威が奏でる〝真髄〟をお楽しみいただきたく・・・。
今宵はリヒターの演奏を聴きつつ彼の冥福を祈りたいと思います・・・が、どれも長時間の演奏ですからねェ、一体何を聴けばいいのやら。
それでは最後に、彼の演奏による有名なオルガン曲 『トッカータとフーガ』 をお聴きください。
2月14日は、言わずと知れた〝バレンタイン・デー〟。
しかし今年は日曜日・・・勤務先で義理チョコを貰えずガッカリしている男性も少なくないかも。
女性は出費が抑えられてラッキー、でも製菓会社は売上げが落ちて真っ青?
もっとも、本命チョコを受け渡しするカップルには曜日なんて関係なし・・・ハッピーな1日になるといいですネ。
さて、そんな日の朝に、拙ブログでは少々涼しい(?)お話を。
今日は、平安時代に関東で活躍した豪族、
平 将 門
1976年のNHK大河ドラマ 『風と雲と虹と』 で加藤剛さんが颯爽と主役を演じ、一躍有名になりました。
まぁ実際の将門はこんな二枚目じゃなかったとは思いますけど・・・。
それはともかく、将門の出生に関しては不明ですが、10歳代の頃に京へ上り藤原忠平に仕えたものの、希望した検非違使になれず。
東下した将門は他の平一族と衝突を繰り返しながら関東一円を支配するまでに。
その勢力を利用しようと画策した朝廷と遂に衝突 (平将門の乱)、自らを 〝新皇〟 と名乗り支配地域の独立(?)を図るも、朝廷の討伐軍との戦いの最中、940(天慶3)年2月14日に流れ矢に当たり絶命した・・・と伝えられています。
朝敵として討たれた非業の死と相まって彼にまつわる様々な逸話が残されていますが、最も有名なのは〝首塚伝説〟でしょう。
討ち取られた彼の首は平安京に送られ都大路で晒されたそうですが、3日目に突如夜空に舞い上がって故郷に向って飛んで行き、数ヶ所に落ちた・・・と伝えられています。
現在でも全国に何ヶ所かの首塚が存在するそうですが、その中で最も有名なのが東京・大手町にある 〝将門塚〟。
将門は1309(延慶2)年に神として神田明神に合祀され、江戸幕府により江戸城の鬼門に当たる現在地に遍座されたといいます。
関東大震災時に塚が倒壊し、大蔵省が跡地に仮庁舎を建設。
しかしその直後、まだ50歳代だった大蔵大臣をはじめ同省職員が2年間で14人も亡くなる事態となり、祟りを恐れた大蔵省は仮庁舎を取り壊して1927(昭和2)年に同地に将門鎮魂碑を建立しました。
更に第二次大戦後、GHQが区画整理で撤去を目論んだ際にも事故が相次いだため計画を断念。
現在は近隣企業で組織した 『史蹟将門塚保存会』 が管理しているとのこと。
隣接するビルのオフィス内では、決してお尻を将門塚に向けて座ってはならない・・・などと言い伝えられ、現在では半ば都市伝説化しています。
私自身も社会人になりたての頃取引先が大手町にあり、真夏の暑い日にたまたま徒歩で訪問した際、ビルの谷間に囲まれて鬱蒼とした樹木が生い茂るこの一角を通り過ぎた時、一瞬ヒンヤリとした空気に触れた気がしたのです。
後でそこが将門塚であったことを知りゾクっとした私は、それ以降その道を極力通らないように・・・。
最近この首塚に隣接するオフィスビルが立て替えられましたが、首塚は昔と変わらぬ佇まいを見せています。
都内有数の霊感スポットとして有名なこの将門塚・・・以前、怪奇特集の番組ロケでここを訪れた爆笑問題の太田さんが石碑にケリを入れてしまい、以後数年間仕事が全くなかったという話が。
実際のところは、怪奇番組の収録なのに全く怖がらず、やりたい放題の太田さんにディレクターが激怒しロケ映像はボツ、仕事から干したというのが真相のようですけど。
しかし相方の田中さんが、後にキ○タマが腫れたり離婚したり。
また太田さん自身も2年前にテレビの生放送中に転倒して側頭部を強打し大騒ぎに・・・やはり、祟りはあるのかも?
「一国は一人を以って興り 一人を以って亡(ほろ)ぶ」
宋の優れた学者・蘇老泉の言葉である。
一つの国はどういう将がいるかによって発展もするし滅びもする、というのである。
大は国家から小は家庭まで、例外はない。
「其の人の存すれば即ちその政(まつりごと)挙がり、其の日との亡すれば即ちその政息(や)む。」
『中庸』 も同じ事を説く。 将の役割は重大である。
将と言えばこの人を想起する。 住友生命中興の祖といわれる、故・新井正明氏(元社長・会長)である。
ノモンハン事件で右足を失った身ながら、自転車の荷台に乗せてもらって陣頭指揮に東奔西走、社員の心を一つに結び、業界11位だった同社を第3位に躍進させた人である。
どこにいても自然に人に推され、その組織体の長に就いた人であった。
その新井氏が常に座右に置いたのが、『論語』 であった。
中でも全身を貫く教えと実践に励んだのが、次の一語である。
「その身正しければ令せずとも行わる。
その身正しからざれば令すといえども従わず。」
氏は言ったものである。
「自分が正しいことを一所懸命やっていれば命令しなくても人もその通りに行う、と言うことですが、本当のところ、こちらが言わなければなかなかやってくれません。
しかし、その身正しからざれば令すといえども従わず、というのは真理です。」
ある時、氏が洩らされたことがある。
「今も義足の付け根が痛む。 だが、それを表情に出せば会長は機嫌が悪いと社員が思うから、努めて出さないようにしている。」
「春風を以て人に接し秋霜を以て自ら粛(つつし)む」
(人に接するには春風のような気持ち良い態度で臨み、自分に対しては秋の霜が実を引き締めるように厳しく慎む)
佐藤一斎の言葉をそのままに実践し、常に精進を怠らず人格を練り上げていく姿がそこにはある。
これこそ将の条件であろう。
新井氏だけでなく、多くの優れたリーダーの姿勢から将の条件をまとめると、次のように言えるのではないだろうか。
一、将は勝つことを以て本旨とせよ、ということである。
負けることもあると考える将は、その立場から去らなければならない。
二、将は常に自らを修め、自らの姿勢を正さねばならない。
三、先の二つの条件に深く関連するが、その組織に属する人たち全員の意欲と能力を発揮せる人望を持たなければならない。
塩野七生さんは、二千年前の古代ローマの将の研究をライフワークとしているが、その塩野さんは将の第一条件に〝知力〟を挙げる。
なるほどと思う。
戦略戦術を立てる能力も、判断力・決断力も、いや実行力もまたその根底にあるのは知力である。
将は人の心の身ならず、天地の心を知る知力の人でなければならない。
将の道は任重く、そして遠い。
※『小さな人生論4』(致知出版社・刊)より一部編集にて
皆さんの中にも、お世話になった方がいるかも・・・その抗生物質、
ペニシリン
penicillin
の臨床実験が世界で初めて成功したのが、今からちょうど80年前の今日でした。
この世界初の抗生物質を1928年に発見したのは、イギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミング博士(1881~1955)。
Sir Alexander Fleming
博士が実験室にあった廃棄前の培地を整理しようと何気なく観察していたところ、黄色ブドウ球菌が一面に生えた中で、黴(カビ)の周囲だけが透明で最近の生育が阻止されているものを見つけました。
これにヒントを得た博士は、青黴の濾過液に抗菌物質が含まれていることを突き止め、これを青黴の属名・Penicillium に因んでペニシリンと名付け、論文を発表。
この偶然の発見には、実験室がいつも雑然としていたことか幸いしたようですが、彼はこの他にリゾチームという抗菌物質も偶然発見しています。
運が良い科学者だったと言えましょうが、もちろん運だけでなく人一倍優れた観察眼や発想があったのは間違いないでしょう。
しかしその彼も、ペニシリンの精製・実用化までには至らず。
この画期的な抗生物質の実用化に貢献したのは、英オックスフォード大学で研究をしていたオーストラリア人のH・W・フローリーとドイツ出身のE・B・チェインの2人。
Howard Walter Florey Ernst Boris Chain
2人は1940年にペニシリンがペニシリンG・ペニシリンNなどの混合物であることを突き止め、翌1941年2月12日に同大学付属病院で人体臨床実験に初めて成功したのです。
その後ペニシリンの大量培養法が開発され、同時期に勃発した第二次世界大戦において利用されたことで、多くの兵士たちの命を救いました。
人類にとって大きな福音となったペニシリンの発見・開発が高く評価され、フレミング・フローリー・チェインの3名は1945年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています。
一方日本では、大東亜戦争中の1943年にドイツの医学雑誌から情報を得た陸軍軍医学校で開発が始まり〝碧素(へきそ)〟と命名され数人の患者に投与がなされましたが、残念ながら大量生産に至らぬまま終戦。
1946年から占領軍が招聘したアメリカ人研究者の指導の下、日本の製薬会社が生産を開始し翌年から全国の病院を通じて広まったとのこと。
現在は点滴や経口薬など様々なペニシリン系の抗生薬が開発・利用され肺炎・中耳炎や梅毒に至るまで様々な病気治癒に役立てられていますが・・・当然のことながら、この薬にも副作用があります。
確率は0.01~0.001%と非常に低いのですが、〝アナフィラキシー・ショック〟を引き起こすケースが報告されており、1956年には東大教授が歯の治療中に注射による〝ペニシリン・ショック〟で死亡し社会問題になったこともあったとか。
万能薬であっても、100%安全なものはなし。
やはり薬は用法・用量を守り、医師の指示に従って服用しなければいけませんネ。
我が故郷・信州出身の力士で現在幕内にいるのは小結の御嶽海のみ・・・残念ながら過去にも強い力士が殆ど出ておりませんが、唯一と言っていい例外が。 それは、
雷電爲右エ門
雷電(本名:関 太郎吉)は、1767(明和4)年に信濃国小県郡(現・東御市)に生まれました。
幼少時から体格に恵まれていた彼は、14、5歳の時既に6尺(180cm)を超えていたと言われ、精米所で働いてした彼を巡業でやってきた浦風林右エ門が目をつけ、江戸に連れ帰ります。
じっくり稽古をつけられてから1790年・23歳の時、本場所にいきなり関脇付け出し(!)でデビュー。
以来44歳で引退するまでの通算成績が254勝10敗2分、勝率は何と96.2%!
幕内優勝32回を誇る昭和の名横綱・大鵬関の幕内通算勝率が83.8%、憎らしいほど強いと言われた横綱・北の湖関でも76.5%ですから、驚異的な数字です。
しかも得意技の「鉄砲(つっぱり)」・「張り手」・「閂(かんぬき)」を禁じられた上で・・・といわれていますから、その強さは人間を越えて神様クラスだったんでしょうね。
横綱免許は受けなかったものの、富岡八幡宮の横綱力士碑に〝無双力士〟と顕彰されている彼は、身長約197cm・体重約170kg と言い伝えられており、現在の大相撲でも大型力士の部類。
当時の男性平均身長は160cm前後だったそうですから、きっと現代人がジャイアント馬場かアンドレ・ザ・ジャイアントを見上げるような感覚だったんでしょうネ。
※アンドレ・ザ・ジャイアントに関する過去記事は、こちら。
相撲博物館に所蔵している掛け軸に雷電の手形が残されていますが、その大きさはコピー用紙B5程もあるとか。
引退後は松江藩の相撲頭取を務めた後、58歳だった1825(文政8)年2月11日に妻の故郷・下総国臼井(現・千葉県佐倉市)でその生涯を閉じました。
強さもさることながら、私が郷土の誇りとして彼を尊敬する理由がもうひとつ。
それは彼が単に相撲が強かっただけではなかったこと。
子供の頃から地元の庄屋に読み書き算盤を習い、地元では秀才四人組の一人として数えられ、また 『諸国相撲控帳(雷電日記)』 や 『萬御用控帳』 を後世に残すなど、知性・教養を兼ね備えていた、まさに文武両道の力士だったのです。
しかし実力と教養を備えた雷電が、なぜ横綱になれなかったのか?
これには諸説ありますが、明確な理由は未だはっきりしていません。 でも、そこがまたミステリアスで魅力的ですょネ。
当時の好敵手・初代柏戸との対戦(※通算成績は雷電の5勝1敗2分け3預かり)は、庶民に「何を質に入れても見物に行く」 とまで言わしめた名勝負だったそうです。
今後の大相撲に、果たしてこんな名勝負・ライバル力士が実現・登場するのでしょうか?
今日・2月11日は、
建国記念の日
です。 国旗を掲揚しましょう!
さて、これが〝国民の祝日〟として制定されたのは、今から55年前の1966(昭和41)年のこと。
でもこの祝日が、他の祝日とは制定経緯も性格も少々異なることをご存知でしょうか?
ニュース等でアナウンサーが 「今日は建国記念日です」 と事もなげに言うのを過去に何度か耳にしましたが、それは不正確。
とかく世間でも『建国記念日』 と言われがちですが、正しくは 『建国記念〝の〟日』 であることに、その意味が隠されているのです。
「建国をしのび、国を愛する心を養う」 という趣旨により1967年から適用されたこの祝日は、他の祝日が祝日法において日付を定められているのに対し、〝政令で定める日〟 と規定されています。
元々2月11日は、嘗ての祝祭日である 『紀元節』 でした。
これは日本書紀に記された初代・神武天皇の即位が旧暦の紀元前660年1月1日であり、それを新暦に直すと2月11日になることから制定されたもの。
しかしこれがGHQの指導により、1948年から廃止。
その後与党・自民党から 『建国記念日』 として復活させる法案が提出されますが、社会党ら野党は「神武天皇即位日は、科学的根拠が薄い」 等々の理由で反対。
その後法案の提出・廃案を9回も繰り返した末、間に〝の〟を入れ 「建国されたという事象そのものを記念する日」 として妥協が成立。
『紀元節』 から 『建国記念の日』 と名称を変え祝日として復活した、いうわけです。
この祝日の制定については現在においても賛否両論がありますが、私はその日付の選択基準はともかくとして、国家には建国記念日が不可欠であると考えます。
現に殆どの国でも建国記念日を制定していますし。
(名称は独立記念日・解放記念日等、様々ですが・・・。)
その記念日を制定し国民全員で祝うことが、国家・民族に対する誇りを持つ第一歩であり歴史を振り返る契機なのですから、それは当然だと思うのです。
ただ我が国の場合、他国のように独立宣言をした日などと明確なものでなく、神話に基づくところが独特。
(※神話に基づく記念日を制定しているのは、他に韓国のみ。)
でも私は、それで一向に構わないと思います。
何故なら、それは見方を変えれば我が国が他に類を見ない長い歴史を持つ独立国家であるというひとつの証しになるから。
神武天皇即位の年を元年として換算すれば、今年・2021年は 『皇紀2681年』。
ひとつの皇室がこれだけ長期にわたって存続してきた国家は、日本をおいて他になし。
(※よく〝中国四千年の歴史〟といいますが、その間何度も支配する皇帝や民族が変わっていますから、日本とは比較になりません。)
おそらく(日教組に属する)教師は、学校でこの歴史や経緯を教えていないでしょう。
単に 「休日でラッキー」 と思うだけではなく、親御さんはお子さんたちに祝日の制定経緯と同時に我が国が稀に見る長期的安定国家・民族であることを教えてください。
「この国に生まれて、そして日本人で良かった!」
そう子供に思わせることは、躾のひとつであり親の義務ですから。
宮家の御婚儀といえば目出度いお話ですが、そうとは言えない天皇家と宮内庁・政府を巻き込んだ大騒動、
宮中某重大事件
が決着したのは、今からちょうど100年前の今日でした。
事の発端は、良子女王の兄・朝融王に学習院の身体検査の結果色弱が発見されたことから、元老・西園寺公望が当時注目されていた優生学の観点から万世一系の皇室の遺伝に障害が生じる可能性を山縣に相談したことにあったとか。
他にも要因があったとも言われますが、良子女王の母が薩摩藩出身であることから、世間には長州出身の山縣が皇室に薩摩の血が入るのを嫌ったという憶測が流れました。
当初は久邇宮家が辞退止む無しとの動きを見せましたが、皇太子に帝王学を教えると同時に良子女王の家庭教師をも務めた東宮御学問所御用掛・杉浦重剛がこれを知って激怒。
「人道上、取るに足らぬ些少の欠点をもって御内定を取り消すことは、満天下に悪模範を示すものである」
として御用掛の辞表を提出すると、各界要人が婚約解消反対の運動を展開。
杉浦重剛
これにより、当初婚約解消の動きは宮内省が厳重な箝口令を敷いて極秘としていたものの、徐々に表面化。
翌年1月に読売新聞が報じたことを皮切りに、各新聞が 『宮中某重大事件』 として書き立てると世間は大騒ぎに。
そして杉浦の動きに呼応した頭山満・内田良平・北一輝ら大物の右翼国粋主義者が婚約解消は長州閥・山縣の策謀だとして、2月11日の紀元節に合わせ決起大会の開催を計画。
※頭山満に関する過去記事は、こちら。(↓)
この混乱が宮家の権威に悪影響を及ぼすことを危惧した宮相・中村雄次郎が紀元節前日の2月10日に、「良子女王殿下東宮妃御内定の事に関し世上種種の噂あるやに聞くも右御決定は何等変更なし」と婚約解消はないと発表。
翌日の新聞にこれが掲載され、ようやく騒動は収まりました。
もちろん、婚約解消がなくなった背景に裕仁親王の強い意向があったことは言うまでもありません。
しかし皇統の維持を願って動いたはずがすっかりヒール役となってしまった山縣有朋は、枢密院議長職など全ての官職の辞表を提出し勅許のないまま神奈川県小田原の別宅に謹慎・・・失意のうちに、
翌年死去。
また一貫して山縣との協調姿勢を取り、この事件でも婚約解消に反対しなかった当時の首相・原敬は、国粋主義者から〝君側の奸〟と見做され、9ヶ月後の暗殺事件に繋がったともいわれています。
※原敬に関する過去記事は、こちら。(↓)
そして裕仁親王と良子女王は、関東大震災によって延期されたものの1924(大正13)年1月26日に目出度くご成婚。
お2人の間に生まれた皇子女に、色弱はありませんでした。
当該事件について詳しく知りたい方には、こちらのご一読をお勧めします。
『宮中某重大事件』 (大野 芳・著 学研М文庫・刊)