FC2ブログ
16文

「日本を代表するプロレスラーは誰か?」 と問われれば、多くのファンはこの方の名を挙げることでしょう。


 ジャイアント馬場


私も少年時代は大ファンでしたが・・・今日は彼の命日、早いもので二十三回忌にあたります。


       


1938年に新潟県三条市に生まれた彼(本名:馬場正平)は、三条実業高校野球部在籍時にその巨体を買われてスカウトされ、同校を中退して投手として読売巨人軍入り・・・新潟県出身者初のプロ野球選手となります。


後年長嶋茂雄選手が鳴り物入りで入団した際、最初にキャッチボールの相手をしたのが馬場選手だったそうですが、一軍成績0勝1敗で自由契約に。

       


更に他球団のキャンプ参加中、風呂場で転倒して負傷し選手生命を断たれてしまいます。


その直後の1960年4月、力道山率いる日本プロレスに入団。


(当時はまだプロレスに対する認知度が低く、馬場選手は母親にプロレス入りすることを内緒にしていたそうな。)


力道山に気に入られた彼は秘蔵っ子として厚遇され、早くも半年後にデビュー。 

 ※力道山に関する過去記事は、こちら。(↓)


その後幾度となくアメリカ武者修行に出かけ、当地では悪役レスラー(!)としてかなりの人気があったとか。


師匠・力道山の死後エースとして活躍した馬場選手は、1972年に日本テレビと組んで全日本プロレスを旗揚げ、多くの外国人選手を招聘して人気を博しました。


ザ・デストロイヤー、〝鉄の爪〟フリッツ・フォン・エリック、ボボ・ブラジル、ドリー・テリーのファンク兄弟、スタン・ハンセンやアブドラ・ザ・ブッチャー・・・今でもその名前をフルネームで言えるくらい、毎週のようにテレビ中継を見ていたものです。


 ※ボボ・ブラジルに関する過去記事は、こちら。(↓)



馬場選手の必殺技、脳天唐竹割りやココナッツクラッシュ、河津がけ等々、休み時間になると次々同級生にかけて遊んでいました (※決してイジメではありませんョ、相手と同意の上ですからあせあせ が、中でも印象的だったのは、〝16文キック〟。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-ジャイアント馬場


209cm・140㎏の巨体を支える大きな足を使った〝16文キック〟は破壊力十分!

 ※馬場選手の実際のサイズは33.5cmで、1文とは昔の一文銭の直径約24mmですから、実際には14文でした。

ではなぜ16文になったかというと、馬場選手の足のサイズがアメリカで16号だったのを、当時の新聞記者が日本のサイズ(文)と勘違いして記事にしたため。


もっとも晩年は、馬場選手の上げた足に対戦相手からぶつかりに行っているようで、見ている私は何とも言えぬ悲壮感というか、哀愁を感じたものですが。


クイズ番組にも出演して、トボケた回答でお茶の間の笑いを取ったこともある馬場選手ですが、現役の選手として1998年12月までリングに上がり続け、通算試合数は5,796試合にも及びました。


その最後の試合から2ヶ月後の1999(平成11)年1月31日、大腸癌の転移による肝不全で61歳の生涯に幕を下ろしたのです。


配下の日本人選手には非常に厳しい躾をしたそうで、彼らの待遇には不十分な点もあったようですが、その温厚な人柄と義理堅さで海外のプロモーターからは絶大な信頼があったとか。

馬場選手の存在が、日本のマット界を世界レベルに引き上げたことは間違いないでしょう。


かつて一度だけ、都内ホテルのコーヒーラウンジでナマの馬場さんを見かけたことがありましたが、その肩幅の広さと葉巻を持つ手と足のずば抜けた大きさ (私の28cmの靴が小さく見えた!) は、未だに忘れることができません。


〝東洋の巨人〟ジャイアント馬場さんのご冥福を、ボボ・ブラジルとの懐かしい熱戦を観つつ、改めてお祈り致しますす。笑3 



 


               人気ブログランキング

スポンサーサイト



名 車

今日は、自動車好きでなくてもその名を知っているであろう、評論家達から〝20世紀最高の自動車設計者〟に選出されたエンジニア、

 フェルディナント・ポルシェ
      Ferdinand Porsche

の命日・没後70周年にあたります。

       

フェルディナンドは1875年、ブリキ細工職人だった父アントン・ポルシェの次男(3番目の子)として
オーストリア=ハンガリー帝国のマッフェルスドルフ(現・チェコ共和国内)で生まれました。

跡を継ぐはずだった長男が修行中の事故で早世したため、フェルディナンドは若い頃から父親の手伝いをすることに。

しかし幼少時から電気に興味を持っていた彼は、1日12時間もの労働の合間を縫って屋根裏部屋で父親に内緒で実験をしていました。

それを知った父親は激怒しましたが、フェルディナンドが自力で電源設備を製作し自宅に電灯を灯したことでその才能を認め、ウィーンへの遊学を許可。(家業は四男が継ぐことに。)

1984年に首都ウィーンに出た彼は、
電気機器会社ベラ・エッガーで働く傍ら、ウィーン工科大学の聴講生として熱心に勉強。

実習生でありながらその力量を評価され4年後には検査室長に抜擢されましたが、その間の1897年にはモーターに関する特許を取得。

23歳の時には電気自動車の開発を目論む元・馬車メーカーのヤーコブ・ローナーに引き抜かれ、そこで自動車開発を手掛けることに。

そして車輪のハブにモーターを搭載した電気自動車〝ローナーポルシェ〟を考案して1900年のパリ万博に出展。

しかし会社規模が小さい事に不満を感じた彼は、1906年にアウストロ・ダイムラー社に技術部長として移籍、ここで初めて白紙からスポーツ・カー28/30HPマヤを設計。

1909年には彼自身が同車のハンドルを握りプリンツ・ハインリヒ・トライアルで優勝し、2・3位も獲得して表彰台を独占。

翌年も1~3位を独占したことで、彼はレーサーとしてもエンジニアとしても名声を得ることに。

その連覇した年には航空機用エンジンをも設計・製造を行い、1918年にはプロペラ回転の隙間を縫って銃弾を発射する設計もした彼は、その業績からアウストロ・ダイムラー社の総支配人となり、オーストリア皇帝よりフランツ・ヨーゼフ十字勲章と軍功労十字勲章を授与されました。

1923年に会社と衝突して辞職するとダイムラー・モトーレンに技術部長兼取締役として迎えられ、3年後にダイムラーがベンツと合併しダイムラー・ベンツとなった後は〝メルセデス・ベンツ〟ブランドで高性能乗用車やレーシングカーを多数手がけます。

しかしここでもスポーツカーの開発などを巡って経営陣と対立した彼は、1928年に辞職。

1931年、シュツットガルトにポルシェ事務所の設立に至りましたが、彼にとって大きかったのは、その直後からヒトラーが台頭したことでした。

1933年、そのヒトラーから国民車(独語でフォルクスワーゲン)の設計を依頼され、国家的な支援を得て開発に成功。


    

 ※同車に関する過去記事は、こちら。(↓)




ヒトラーの信任を受けてレーシングカー〝Pヴァーゲン〟をも開発し、メルセデス・ベンツと並んで欧州のレースを席巻した彼は、1938年にはノーベル賞に対抗してナチス・ドイツが制定したドイツ芸術科学国家賞を受賞。

そのポルシェは、ヒトラーに対して総統閣下などの敬称を用いず「ヒトラーさん」と呼んでいたそうですが、彼の才能を高く評価していたヒトラーは気にしなかったそうな。

    


第二次世界大戦中、ヒトラーの意向によりフォルクスワーゲンをベースとした軍用車両やティーガー戦車どの設計に携わったがために、ドイツ敗戦後の1945年6月に戦争犯罪人としてアメリカによってヘッセン州に連行され、戦犯容疑者収容所入り。

幸いにも政治とは無関係だったとして数週間後には釈放されましたが、その後フランス政府の要請により渡仏した際には政情の急変より捕えられ、1年7ヶ月も刑務所生活を送るなど晩年は苦労が絶えませんでした。

そのせいで健康を害したポルシェは、1951年1月30日に75歳でこの世を去ったのです。

街で華麗なフォルムのポルシェを見かけたら、良くも悪くもヒトラーの影響を受けた創業者の数奇な人生に思いを馳せてください。


                人気ブログランキング

胆 力

今日は、日本憲政史上初の女性代議士(の1人)となったことで知られた


   てんこうこう
園田 天光光 さん


の命日・七回忌にあたります。


        


園田さんは1919年に実業家だった父の長女として東京で生まれました。

天光光という珍しい名前は本名で、息子が欲しかった父親が「
明治維新の志士のように社会を変える人間になって欲しい」と名付け、「天は太陽、光は闇夜に人を導く星」という意味が込められているとか。

※園田さんは一時期〝光〟を1文字省略して〝天光〟と名乗った時期があったそうですが、その名の意味を知ってからは、元の〝天光光〟と書くようになったそうです。
しっかり父親の願いを受け止めたんですネ


青山学院から東京女子大学英語専攻部を経て1940年に早稲田大学法学部に学生300人の内僅か3名の女性として入学した園田さんでしたが、戦況の悪化に伴い1942年に繰り上げ卒業。

1944年から海軍省報道部嘱託として全国の海軍
工廠を巡回。

その最中、茨城・土浦で空襲に遭った際には事前に指定されていた防空壕が満杯で入れず隣の壕に入ったところ、入るはずだった壕の方に爆弾が直撃・・・九死に一生を得るという体験をしています。

終戦直後は実家が空襲で焼かれたため川崎市に疎開し、農作業を手伝って作物を分けてもらい上を凌いでいた園田さんは、ラジオの投書で 「上野では餓死者で累々と横たわっている」 と聞き、父共々現地へ。

その惨状を目の当たりにした彼女は、帰宅途中の新宿で


「餓死しないように自分で自分を守らなければいけない。


私たちはあの戦争を生き延びたんです。
ここで餓死しては相すまんと思いませんか?」


と訴えました。 

すると彼女の周りにはアッという間に黒山の人だかりが。


翌日以降も繰り返し演説を行い、聴衆は千人以上も集まったことが後の政治活動へと繋がり、彼女は女性の参政権が認められた1946年4月の総選挙に 『餓死防衛同盟』 から立候補。


見事39人の初の女性代議士の1人として当選を果たしました。

       

           初当選を果たした頃の園田さん(中央)


 ※その総選挙に関する過去記事は、こちら。(↓)


その後社会党・労働者農民党と渡り歩きながら3選を果たしましたが、1949年に妻子ある青年代議士・園田直(すなお)氏と恋仲に。

世間では〝白亜の恋〟と話題になり、彼女は当初その関係を否定していたものの妊娠が発覚。

彼女は父親の反対を押し切って園田氏と駆け落ち同然に同棲、そして結婚し出産。

それは日本憲政史上初の現職代議士の妊娠・出産でもありました。

しかし当然のことながらその行動は厳しく批判され、彼女は1952年の総選挙に松谷姓で立候補するも落選。

以降も落選を重ね、最終的には妻として熊本が地元の園田直氏を支えることに。

そのおかげか、ご主人はその後厚相や外相を務めるなど政界で活躍。

       

            国連で演説する園田外相

そのご主人が1984年に他界すると、その後継を巡って前妻の子・園田博之氏と対立し、お互いに立候補。

骨肉の争いとこれまた世間の注目を集めましたが、結果は博之氏が大勝。

その後は社会貢献活動や民間外交に積極的に関わりましたが、2000年に橋本聖子参院議員の妊娠を契機といして国会議員の産休制度創設が議論された際には、現職議員としてただ一人出産を経験した女性として自民党の懇談会に参加し、推進の立場で発言。

辞職の声も上がっていた橋本議員を擁護し、国会規則改正に一役買ったことも。

そんな波乱万丈の人生を歩んだ園田さんに興味のある方には、こちらの自著のご一読をお勧めします。


 『女は胆力』 (平凡社新書)


        


90歳を過ぎても自民党各種婦人団体連会長・NPO法人育桜会理事長・NPO法人世界芸術文化振興協会理事など多くの団体役員に名を連ねて活躍した彼女の元気の秘訣が読み取れることでしょう。

久しぶりに同書を読み返しつつ、2015(平成27)年1月29日に96歳で大往生を遂げた女傑のご冥福を、改めて祈りたいと思います。


                人気ブログランキング 

公 道

皆さんは、高速道路で最高時速何kmで走ったことがありますか?

そう聞かれても、正直に答える人は殆どいないでしょうネ。
だって、スピード違反を自白するようなものですから。

勿論私も公言はしません・・・が、一般的な市販車であればリミッターがついてますから、180km以上は出したくても出せません。

ではここで、クイズです。

【公道における四輪自動車の世界最高速度記録は、時速何km?】

正解は・・・432.7km/h

サーキットと違い、橋などの公共物がある公道でF1マシンよりも速く走るって凄いですが、驚くべきはこの記録が達成されたのが今から83年前だったこと。

この大記録を叩き出したのは、


オットー・ヴィルヘルム・ルドルフ・カラツィオラ

   Otto Wilhelm Rudolf Caracciola

 

という、ドイツのレーシング・ドライバー。


       


 1901年生まれの彼は、草レースに出場後22歳の時にメルセデスチームに加入。


同社のセールスマン兼ドライバーとして何度も優勝を重ね、1930・31年にはヨーロッパ・ヒルクライムチャンピオンに。

1933年にはブレーキ故障による大事故に遭い、足を複雑骨折し右足が5cmも短くなる大けがを負いながらも奇跡的に復帰。

1935・37・38年のヨーロッパ・ドライバーズチャンピオンに輝いた、名ドライバーでした。

その絶頂期であった1938年1月28日、メルセデスベンツ社が製作したW125レコードワーゲンのハンドルを握った彼が、アウトバーンで見事この世界記録を打ち立てたのです。


        

        Mercedes-Benz W125 Rekordwagen

 その時の映像が残っていますので、ご覧ください。(↓)




第二次世界大戦直前の時期だけに、技術開発が盛んだったとはいえ、現代でも破られていないこのスピードは、まさに驚異的。

ちなみに現在の自動車による世界最高速度記録は、1997年に砂漠でイギリスのスラストSSCが記録した1,227.99km/h。

音速を超えるマッハの世界ですが、これで驚いてはいけません。

既にピストルの弾丸より速い1,600km/hを出せるロケットエンジン搭載の自動車が開発されているとか。

しかし、こんなモンスターマシンに乗れるドライバーって、いるんでしょうかネ?

貴方は公道を400km/hで走るのと、砂漠を1,600km/hで走るのと、どちらか怖いですか?

・・・って、両方に決まってますか。
あせあせ


 


               人気ブログランキング

再 起

今日は、イタリアを代表する・・・というより世界的に有名なオペラ作曲家


 ジュセッペ・ヴェルディ 

       Giuseppe Verdi


の命日・没後130周年にあたります。


       


ヴェルディは1816年にイタリア北部のレ・ロンコレ村で生まれました。


父親は宿屋や飲食店などを経営していましたが、当時としては珍しく読み書きができる人物だったようで、ヴェルディも子供の頃から利発だったとか。


8歳の頃、手伝いに通っていた教会でオルガンに興味を持ち、両親にせがんでスピネットという小型鍵盤楽器を買ってもらうと、その演奏に没頭。


そして僅か10歳にして、教会のオルガン奏者に。


彼の才能を高く買ったバレッツィという商人の支援により、彼は本格的に音楽を勉強すべくミラノに行きましたが、年齢制限に引っかかり名門ミラノ音楽院への入学は叶わず。

しかしこの挫折が、後に彼がオペラ作曲に執念を燃やすきっかけにもなりました。


バレッツィの要請により、ミラノから一旦彼の地元ブッセーニに戻ったヴェルディは、20歳の時にバレッツィの娘マルゲリータと結婚し、2人の子を授かりました。


幸せな家庭を築いたと思った矢先に彼を待っていたのは、あまりに辛い試練でした。


生後1年7ヶ月の長女を亡くすと、その翌年には長男を、そして更に翌年には妻を髄膜炎で・・・なんと僅か3年の間に家族全てを失ってしまったのです。

       
                 
妻・マルゲリータ


悲嘆に暮れる彼が当時作曲していたのは、皮肉にも喜劇オペラ。


当然身の入る筈もなく、公演は散々な酷評・・・ヴェルディはすっかり自信を無くし、引きこもりに。


しかしそんな彼を救ったのも、オペラでした。         


スカラ座の支配人メレッリから渡され家に持ち帰った台本の一節、「行け我が思いよ、黄金の翼に乗って 」 が目に入った彼は、再び創作意欲を燃やすように。


そして妻の死から2年後の1842年にスカラ座で初演された 『ナブッコ』 は第一幕が終わった時点で大喝采を浴びる程の成功を収め、彼の名声はこの一夜にして国内に鳴り響きました。


その後も 『リゴレット』・『椿姫』・『仮面武道会』・『アイーダ』 などを作曲、さらに晩年になってもドイツで楽劇を広めたワーグナーに対抗して 『オテロ』・『ファルスタッフ』 を完成させ、イタリア・オペラを最高水準にまで高めたのです。


現存するだけで28作品ものオペラを残したヴェルディは再婚も果たすと一時期国会議員も務め、音楽家としては珍しく最晩年までその名声と地位を保ち、恵まれない後進の音楽家のために私財を投入して〝憩いの家〟を建設。


1901年1月28日、脳内出血により88歳で大往生を遂げたヴェルディの葬儀には、何と25万人ものイタリア国民が参列。


追悼演奏を指揮したのは、あのトスカニーニでした。

 ※トスカニーニに関する過去記事は、こちら。(↓)



ヴェルディは現在も〝(イタリア)国民の父〟と慕われているそうですが、それを裏付けるエピソードをひとつ。


彼の肖像画は1962年から20年間1,000リラ紙幣に使われていたそうですが、イタリア人たちはその札を数える時、「1ヴェルディ、2ヴェルディ・・・」と数えたのだとか。驚き顔


日本で 「一諭吉、二諭吉・・・」 なんて数える人はまずいませんから、その人気の凄さが分かりますネ。


絶望的な不幸から見事立ち直ったイタリア歌劇王の冥福を、20世紀最高のソプラノ歌手と言われたマリア・カラスの歌声を聴きつつお祈り致します。笑3

(※有名な〝乾杯の歌〟は9分45秒から)



              人気ブログランキング

移 民

日本でも人気観光地である、オーストラリア。

今日は同国の建国記念日、


 オーストラリア・デー

なのだそうです。

由来は、233年前の今日・1788年1月26日に、イギリスの
アーサー・フィリップ海軍大佐率いる艦隊11隻が、囚人1,000人余りを乗せてシドニー湾内のシドニー・コーに到着した日に因むとか。


    


当然この日は同国の祝日であり、各地でパレードなどが盛んに行われ、また普段は通常あまり見ることのできない政府関係の建物や展示物を一般公開するそうですから、観光で訪れるにはよい機会かもしれません。

しかし、これはあくまで侵略した側の立場で制定したもの。

それまでオーストラリアには少なくとも5万年以上前からアボリジニーと呼ばれる原住民が住んでいましたから、彼らにとっては〝侵略の日〟となります。


       

同じ事がアメリカでも起きていることは、以前ご紹介しました。(↓)



故に近年オーストラリア政府は、原住民に対し社会福祉的に特別待遇を受ける権利を与えるように。

また2008年には当時のケビン・ラッド首相が、過去に起きた悲惨な事件・歴史について正式に謝罪。

それ以降、原住民との関係は良好になった・・・とは言え、まだ一部に反感を抱いたり不信感を露わにする人も。

それだけ侵略の根は深いということなのでしょう。

ただ〝移民の国〟と言われるだけあって、現在オーストラリアには多くの民族が住んでいます。

全人口の内、海外で生まれた人の割合は30%・・・およそ3人に1人が移民という計算。


少なくとも53の民族が住んでいて、ベストテンはイギリス・ニュージーランド・支那・インド・フィリピン・ベトナム・イタリア・南アフリカ・マレーシア・ドイツ、の順。


しかし彼らは、すぐに国籍を取れる訳ではありません。

帰化するには、次のような条件を満たす必要があります。


◆永住権(市民権とは違い選挙権がありません)を取ってから1年以上で、その間少なくとも9ヶ月以上居住していること。


◆上記の条件で、4年間オーストラリアに住んでいること


◆移民局が実施するテストに合格すること  


このような条件をクリアして、晴れて市民権を獲得できるそうな。

そして市民権証書授与式への出席も要求されるのですが・・・その最も大きな授与式が、このオーストラリア・デーに行われるそうな。

ですから彼ら移民にとって、この日は非常に晴れやかかつ思い入れが深い日になるはず。

日本でも、帰化に関してはこういう条件を付けて愛国心や忠誠心を植え付けるべきでしょうネ。


              人気ブログランキング

我 儘

先日、行きつけの中華レストランで食事していた時のこと。

30歳位の若いご夫婦と、幼稚園児くらいのヤンチャそうな男の子の3人家族が店に入ってきました。

たまたま私のすぐ後ろの席に座ったので、会話が聞きたくなくとも耳に入ってきたのですが・・・オシボリで手を拭きながら、お父さんが息子に話しかけました。

「あぁ、お腹空いたね~。 メニュー見ようか? 

どれどれ・・・おっ、美味しそうだョ。

○○ちゃん、何がいいかな?」

・・・と、しばしパラパラとメニューをめくる音がした後、○○ちゃんはたったひと言。

「食べたい物・・・ない!」  

あまりにも明快なお言葉! 

まぁ、ここまではどこのご家庭でもよくあることでしょう。

ところが、このお父さん。 

息子の言葉を受けてどうしたかというと・・・


「食べたい物ないんだって。 どうする?」

と奥さんに振ったんです。 すると奥さんが、これまたひと言。

「じゃ、出ましょ。」

「そ、そう? じゃ、出ようか・・・」

と言うと、3人はガラガラっと椅子を引いて席を立ち、マスターに

「あの~、この子が気に入ったメニューないって言うんで・・・。」

と言い残し、ソソクサと出て行ってしまいました。


       


私が唖然としたのは、彼らは出された水を飲み、オシボリまで使ったのに、ガキ・・・おっと失礼、お子様がひと言 「イヤ」 と言っただけで、済まなそうな様子も見せず平然と店を出たこと。

「なんだ、あれ? マスター、しょ~もない親子だね~、ありゃ。」

と私が言うと、マスターの返事は、

「いやァ、最近ああいう親子連れ、結構多いんですョ。」

自分が子供の頃は、出された食べ物が気に入らなくて駄々こねた時なんか、オヤジに

「そんなに食べたくなけりゃ、食べるな!

みんなが食べ終わるまで、黙ってそこに座っていろ!」

とカミナリ落とされて、涙目でモツモツ食べたものですが・・・。

あんな調子で育てられたら、○○ちゃんがモンスターチルドレンになること間違いなし? 

もしかして無理に食べさせたり、あるいは私のオヤジみたいなことしたら、今は虐待だと通報されちゃうのかナ?


そんな世の中、間違っている・・・と、昭和オヤジは思うんですが、皆さんはどう思いますか? 


                人気ブログランキング

我 儘

昨夜、行きつけの中華レストランで食事していた時のこと。


30歳位の若いご夫婦と、幼稚園児くらいのヤンチャそうな男の子の3人家族が店に入ってきました。


たまたま私のすぐ後ろの席に座ったので、会話が聞きたくなくとも耳に入ってきたのですが・・・オシボリで手を拭きながら、お父さんが息子に話しかけました。


「あぁ、お腹空いたね~。 メニュー見ようか? 

どれどれ・・・おっ、美味しそうだョ。

○○ちゃん、何がいいかな?」


・・・と、しばしパラパラとメニューをめくる音がした後、○○ちゃんはたったひと言。


「食べたい物・・・ない!」  


あまりにも明快なお言葉! 


まぁ、ここまではどこのご家庭でもよくあることでしょう。


ところが、このお父さん。 
息子の言葉を受けてどうしたかというと・・・


「食べたい物ないんだって。 どうする?」


と奥さんに振ったんです。 すると奥さんが、これまたひと言。


「じゃ、出ましょ。」


「そ、そう? じゃ、出ようか・・・」


と言うと、3人はガラガラっと椅子を引いて席を立ち、マスターに


「あの~、この子が気に入ったメニューないって言うんで・・・。」


と言い残し、ソソクサと出て行ってしまいました。


       


私が唖然としたのは、彼らは出された水を飲み、オシボリまで使ったのに、ガキ・・・おっと失礼、お子様がひと言 「イヤ」 と言っただけで、済まなそうな様子も見せず平然と店を出たこと。


「なんだ、あれ? マスター、しょ~もない親子だね~、ありゃ。」


と私が言うと、マスターの返事は、


「いやァ、最近ああいう親子連れ、結構多いんですョ。」


自分が子供の頃は、出された食べ物が気に入らなくて駄々こねた時なんか、オヤジに


「そんなに食べたくなけりゃ、食べるな!

みんなが食べ終わるまで、黙ってそこに座っていろ!」

とカミナリ落とされて、涙目でモツモツ食べたものですが・・・。


○○ちゃん、あんな調子で育てられたら一体どんなお殿様になっちゃうんでしょうネ?


もしかして、あのままムリに食べさせたり、あるいは私のオヤジみたいなことしたら、今は虐待だと通報されちゃうのかな~?


そんな世の中、間違っている・・・と、昭和オヤジは思うんですが、皆さんはどう思いますか? 


                人気ブログランキング

G S

今日のブログ・タイトル、ガソリンスタンドの略じゃありません。

私のような昭和世代には懐かしい、昭和40年代前半に日本の歌謡界を支えたグループ・サウンズのこと。

中でもザ・スパイターズと人気を二分した


 ザ・タイガース

が解散コンサートを行ったのが、今からちょうど50年前の今日のことでした。


同グループの原型は、京都市立北野中学校の同級生だった瞳みのる・岸部修三(一徳)・森本太郎と、夜間高校で瞳の2学年下だった加藤かつみの4名が1965年1月に大阪で開催されたベンチャーズのコンサートに行って触発され、同年10月に結成した『サリーとプレイボーイズ』。

その後4人はボーカルの必要性を感じ、四条河原町のダンスホールでボーヤ兼ボーカルとして出演していた沢田研二さんを勧誘。

1966年元旦に彼が正式にメンバーに加わり、グループ名を
『ファニーズ』に改称。

歌を主体としたボーカル・インストロメンタル・バンドとなりました。


ファニーズは翌月から大阪・難波のジャズ喫茶『ナンバ一番』のステージで演奏する契約を結ぶと、本格的な音楽活動のため大阪市西成区のアパートで合宿生活を開始。

その後人気が出て出演回数も増加すると、5月には「全関西エレキバンド・コンテスト」で優勝。

翌月には『ナンバ一番』の人気投票で1位となり、東京への勧誘が複数持ちかけられました。

そしてプルージーンの内田裕也さんを通じて渡辺プロと契約を結ぶと、メンバーは1966年11月に上京。

渡辺プロの制作部長から依頼を受けた番組ディレクターのすぎやまこういちさんが、

「大阪から来たわけ? じゃあ・・・」

ということで、グループ名はザ・タイガースに。


             後列左から岸部(サリー)、森本(タロー)    
         
前列左から瞳(ピー)、沢田(ジュリー)、加橋(トッポ)


翌年2月にシングル 『僕のマリー』 を発売してデビューすると、翌月から人気が爆発。

5月にリリースされた2枚目のシングル『シーサイド・バウンド』が40万枚を超える大ヒット。

シャボン玉ホリデーの出演等でティーンエージャーにもファン層が広がりました。


1968年1月発売の4枚目シングル『君だけに愛を』のヒット続き、3月発売の『銀河のロマンス/花の首飾り』はオリコン・シングルチャートで7週連続1位、公称130万枚のメガヒット。

同月19日に『花の首飾り』の新曲発表会を開催しましたが、これは日本武道館における日本人バンド初のコンサートとなりました。

以後映画製作や後楽園球場でのコンサートを開催するなど、ザ・タイガースはグループ・サウンズの頂点に。

しかし多くのバンドがそうであるように、やがてグループ内には亀裂が・・・。


元々ビートルズやロックを原点とした音楽志向を持っていたメンバーは、アイドル路線を前面に押し出す渡辺プロに不満を募らせていました。

特に芸術家肌だった加藤さんは強く反発、1968年春頃には脱退話が浮上。

そして翌年3月、加藤さんはレッスン中にスタジオを出て戻らず・・・彼の穴埋めに一徳さんの弟・岸部シローさんが加わり、第二期タイガースとして再出発。


しかし加藤さん脱退に関する渡辺プロの動きに今度は瞳さんが不信感を募らせ、更に同年夏頃からGS人気が急降下したことから、メンバーは個人的な活動にシフト。

結果、瞳さんの脱退意向もあって1970年12月にバンドの解散が発表され、翌1971(昭和46)年1月24日に、思い出の日本武道館での解散コンサート開催となりました。

その後ジュリーこと沢田さんはソロ歌手として、また岸部兄弟は俳優などでそれぞれ活躍しましたが、瞳さんは京都に戻った後高校教師となり、芸能界から去ると共にメンバーとは交流を長らく断つことに。

1982年の同窓会コンサートにも顔を出さなかったものの、2013年の復活コンサートには参加し、オールド・ファンの喝采を浴びました。


それでは最後に、中高年代の方には50年前の解散コンサートをお聴きいただき、古き良き時代を思い出していただきたく・・・。




                人気ブログランキング

アダージョ

今日は、日本ではあまり馴染みはないですがアメリカでは有名な作曲家、


 サミュエル・バーバー
     Samuel Barber

の命日・没後40周年にあたります。

       

バーバーは1910年にペンシルベニア州ウェストミンスターで外科医の父とアマチュアピアニストの母の間に生まれました。

名オペラ歌手ルイーズ・ホーマーを叔母に持つ彼には、生まれつき音楽家としての素質があったのでしょう。

フィラデルフィアのカーティス音楽学校で作曲やピアノ・声楽を学び、また名指揮者フリッツ・ライナーに指揮法を学んだ彼は、最優等の成績で卒業後、イタリアに留学。

 ※フリッツ・ライナーに関する過去記事は、こちら。(↓)



ピアニストとしての腕前のかなりのものだったそうで、ラフマニノフが使用していたビアノを所有し、作曲を始める前にはバッハの平均律クラヴィーア曲集を弾くのが日課だったとか。

彼が1949年に作曲したピアノ・ソナタは、私が最も敬愛する20世紀最高のピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツによって初演されています。


    

              ホロヴィッツ(左)とバーバー


その他2つの交響曲やヴァイオリン・チェロ・ビアノの各協奏曲や歌劇などがありますが、その中で最も有名なのが、『弦楽のためのアダージョ』。

これはイタリア留学中に作曲した弦楽四重奏第1番ロ短調の第2楽章を、後に弦楽合奏用に編曲したもの。

1938年にアルトゥーロ・トスカニーニ/NBC交響楽団によって初演されたこの曲は、切ないストリングスの響きと
激しく突き上げる慟哭のようなクライマックスで知られます。


同曲がアメリカ人の間に知られるようになったのは、J・F・ケネディの葬儀の際に流されたから。

※日本でも昭和天皇崩御の際、N響の演奏で流されました。


以来、アメリカでは葬儀や慰霊祭などで定番として使われるように。

それではその有名な曲を、サイモン・ラトル指揮/ベルリン・フィルの演奏でお聴きください。



如何でしょう、どこかで聴き覚えがある方が多いと思います。

特に映画ファンの方なら、『ブラトゥーン』・『エレファントマン』や『アメリ』などのBGMで使われていたことを思い出すかも。

今宵は1981年1月23日にニューヨークでリンパ腺癌により自宅で亡くなった彼の冥福を、このアダージョを聴きつつ祈りたい・・・と思ったんですが、実は彼自身

「この曲は葬式用に作ったんじゃない!」

と不満を漏らしていたそうですから、止めときますか。


              人気ブログランキング