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先日、毎年末恒例の

 N響 第九演奏会

に行ってきました・・・が、今年は武漢肺炎のおかげで今までにない異例ずくめのコンサートとなりました。

    

まず例年ならチケットの予約は10月初旬から始まるのですが、その頃ネット検索しても一向に告知がなし。 事務局に電話すると、

「感染が収まらないので、今年は開催できるかどうかまだ不明。決定は10月末か11月に入ってから。」

とのこと。 こちらとしてはもう還暦過ぎてあと何回聴けるか分からないだけに、やきもき・・・。

幸いにも11月に入って開催が決定し、ネットで予約することが出来ました・・・が、画面を見ると、予約できる座席が全て1つずつ交互に飛び飛び。

簡単に言えば、チェス盤の如し。

    


感染予防のためですから致し方ありませんが、何とか女王様と2人分の席は押さえられました。

そしてコンサート当日、渋谷のNHKホールに向かうと、街の様子が昨年とは一変。

1年前はホール前の並木が青色LEDでデコレーションされ見物客でごった返しており、如何にも年末らしい賑やかな雰囲気でした。

    

それが今年は電飾もなく通りは真っ暗・・・人通りも殆どなく、女性1人で歩くのはちょっと怖いくらい。


    

何となく暗い気持ちで開場前にホールに到着すると、数人の観客がソーシャルディスタンスで間隔を開けて並んでました。

会場に入って席に座ると、館内放送では

「席の間隔は必ず空けてください。」 
「コンサート後〝ブラボー〟のお声がけはご遠慮ください。」

等々、事細かな注意が何度もなされ、コンサートが始まりました。

心なしか楽団員の数が少なく感じましたが、驚いたのは第2楽章が終わって合唱団が入場してきた時。

なんと彼らもチェス盤のように交互に間隔を空けて着席・・・しかも全員がマスク着用。

初めて見る異様な光景に、思わず1席空けて隣に座っている女王様に小声で

「まさか、マスクしたまま歌わないょナ?」

と話しかけたら、

「んなワケないでしょ。」

とビシャリ。 そして第4楽章に入ると彼らはマスクを外して歌い始めたのですが、如何せん人数が従来のほぼ半数ですから、声量が少なく迫力にイマイチ欠けたのは残念でした。

それでも、「そんなの関係ねぇ~」 でお馴染みの小島よしおがタキシードを着て指揮台に立った如く、スリムで若きスペイン人指揮者パブロ・エラス・カサド(43歳)がオーバーリアクションで、時々ポケットからハンカチを取り出し汗を拭きつつ躍動。

速いテンポで小気味いい演奏には好感が持てました。


    

そして演奏終了後、観客の皆さんは館内放送の指示通り盛大な拍手のみ・・・ところが、カーテンコールでステージに出てきた独唱歌手や指揮者が笑顔で観客席を指差したり手を振るのでその方向を見ると、観客席には〝ブラボー〟と書いた旗を振る人が。

何とも粋な計らいに、少しだけ心が和みました。

この〝SDコンサート〟の模様は、本日午後8時よりNHK・Eテレにて放送されます。

合唱団があるタイミングで一斉にマスクを外す壮観(?)な模様をご覧いただきつつ、演奏をお楽しみください。

私ももう一度、鑑賞するつもりです。
来年は通常モードのコンサートになることを願いつつ・・・。


それでは皆さん、良いお年をお迎えください! 扇子


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迷 宮

それは年末の日本中を震撼させた、あまりに凄惨な事件でした。


2000(平成12)年12月30日午後11時頃から翌31日未明にかけて家族4人が自宅で惨殺された

 世田谷一家殺人事件
(※正式名称・上祖師谷三丁目一家4人強盗殺人事件)

は未だ犯人の逮捕はおろか特定すら出来ぬまま、今日で丸20年目となります。


2階浴室の窓から侵入したとみられる犯人は、同階の子供部屋で就寝中の長男(当時6歳)を絞殺後、1階にいて異変に気付き2階に上がってきた父親(同44歳)を刺殺。


その後3階の屋根裏部屋で寝ていた母親(同41歳)と長女(同8歳)をも刺殺したとみられていますが、犯行を終えた後も被害社宅に11時間も居残り、書斎のPCを操作して劇団四季のチケット取得を試みたり冷蔵庫の中身を飲食したあげく被害者のスウェットに着替えて逃走するという、残忍かつ異様な犯行でした。


31日午前11時前に隣に住む母親の実母が発見して事件が発覚しましたが、駆けつけた警察の現場検証やその後の捜査により犯人の指紋・血痕・足型や多数の遺留品が確認されたにもかかわらず、犯行動機や具体的な犯人像が絞り込めないという点でも、特異な事件といえます。

    

             左・義母宅  右・被害者宅


犯人に関して分かっている主な特徴としては、


 ◇ 血液型はA型で右利き

 ◇ 喫煙・飲酒・薬物はしていない。

 ◇ DNA鑑定により、父系がアジア系、母系に欧州(地中海)系の

    祖先が含まれており、日本人には少ない型を持つ人物。


などがあげられています。


室内には物色した痕跡もあるものの、現金以外に金目の物を持ち去った形跡は殆どなく、また一方では2000年度の年賀状がなくなっているなど、実に不思議な痕跡を残した犯人。


犯行当初、警察は怨恨説を取りましたが、後に金目当ての犯行と断定。 

また履いていた靴の特徴から韓国人説も出ましたが、後に日本人に絞るなど捜査方針が二転三転。

もし捜査の撹乱を狙って意図的に現場を荒らしたとしたら、相当に狡猾な人物でしょう。


現在は有力情報に最高額である2,000万円もの懸賞金がかけられていますが、依然捜査に進展はない模様。

       


不幸中の幸いなのは、2010年4月に刑事訴訟法が改正され、殺人罪等の重大事件に関して公訴時効が廃止となり、当該事件も捜査が続けられいつでも犯人を逮捕・起訴できるようになったこと。


4人もの命を奪いながら、どこかで息を潜めている犯人・・・逮捕して動機等の真相が明白にならない限り、お正月直前に息子や娘、そしてかわいい孫たちを失った老祖父母の無念が晴れません。


TVドラマ 『コールドケース』 ではありませんが、一日も早くこの〝迷宮入り事件〟が解決するよう、被害者家族のご冥福と共に祈りたいと思います。

       


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迫 害

アメリカでの白人による先住民(インティアン)迫害については、以前拙ブログでも何度か取り上げました。

 ※そのひとつ、〝サンドクリークの虐殺〟に関する過去記事は、こ

     ちら。(↓)



この事件以降、インディアンたちは故郷を追われ、国内に点在する居留地での生活を余儀なくされていました。

そんな中、彼らの間で流行したのが〝ゴーストダンス(Goast Dance )〟。

この幽霊の踊りを行うことで、インディアンは再び自由な生活を取り戻すことができ、これを信じる者に与えられるゴースト・シャツを着用すれば、白人の銃弾を受けても平気だ、という話が広まりました。

しかしインディアンを恐れる白人たちは、これを彼らの反乱の予兆と捉え、1890年11月半ば合衆国政府に 「インディアン(ス―族)が踊り狂っているから、今すぐ我々を保護して欲しい」 と打電。

それに呼応した政府は、第七騎兵隊ら数千人の兵士をパインリッジ保留地に送りこむと、スー族の精神的支柱だったシッティング・ブルにダンスを煽っているという濡れ衣を着せて、12月14日に暗殺。


これに狼狽えたスー族は、ピッグ・フット酋長率いるミネコンジュー族の元に逃れます。

そして今からちょうど130年前の今日・1890年12月29日、白人に対し抵抗をせず白旗を掲げたインディアンに対し、第七騎兵隊の指揮官ジェームズ・フォーサイス大佐が武装解除を命令。

       

              James William Forsyth


しかし、その際に奇兵隊員とインディアンの間で小競り合いが起き、1人の隊員が銃の暴発により死亡。


これをキッカケにして、騎兵隊はインディアンに向け速射砲など銃を乱射する

  
ウンデット・ニーの虐殺
   Wounded Knee Massacre

が勃発。


    

           サウスダコタ州ウカデット・ニーの位置


病気で殆ど動けなかったビッグ・フット酋長を始め300人以上(合衆国政府は150~200人と発表)のインディアンを殺害・虐殺したのです。

犠牲者の多くは、武器を持たぬ老人や女性・子供でした。

そして騎兵隊側の死者は29人、負傷者は39人だったそうですが、その殆どは味方の銃弾によるもの・・・いかに凄まじい銃撃だったかが伺えます。


    

インディアンの遺体はそのまま3日間放置され、翌年の元旦・1月1日に派遣されたアルバイトの埋葬隊によって、穴の中に無造作に放り込まれました。

遺体一体あたり2ドルの手間賃で・・・。


       


この虐殺は、前述のサンドクリークの一件と並び、アメリカにおけるインディアン迫害の代表的事件ですが、白人側はこれを〝ウンデット・ニーの戦い〟と呼び、第七騎兵隊に名誉勲章まで授与しています。

殆ど無抵抗の先住民を皆殺しにした民族浄化を、国が表彰・・・まるでウィグルやチベットに対する支那の如しですが、こんな歴史があればアメリカの人種差別・いがみ合いなど簡単には無くならないでしょうネ。


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デーブ

今日は、皆さんに面白いYouTubeチャンネルをご紹介します。

それは、元西武・巨人で活躍し、楽天ゴールデンイーグルスの監督も務めた大久保博元さんが今年6月から開設している


 デーブ大久保チャンネル

    


複数チームを渡り歩いた大久保さんの幅広い人脈で、多くの元一流選手がゲストで登場して繰り広げるトークは、私のような昭和世代の野球ファンにはたまらない、また地上波テレビでは絶対観られない裏話が満載。

たとえば、清原和博さんとか・・・。



また、エモやんこと江本孟紀さん。(↓をクリック)


 

そして、絶好調男の中畑清さん (↓)


 

長嶋一茂さんの意外な素顔も垣間見ることが出来ます。(↓)




その他にも沢山面白い対談や古き良きというか驚くべき昔のエピソードが楽しめますし、野球人の人間関係がよく分かります。

是非チャンネル登録してご覧になってみてください。

これからの年末年始、マンネリ化したつまらない地上波テレビに飽き飽きしている方には絶対にオススメですし、はっきり言って試合観戦より面白い!?

また他の元プロ野球選手もチャンネルを開設していますので、探してみるのも一興ですョ。


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狙 撃

昨日に引き続き、共産主義者が関わる事件のお話です。

関東大震災から2ヶ月後、今から97年前の今日・・・皇太子・摂政宮裕仁親王すなわち後の昭和天皇が狙撃されるという


虎ノ門事件

が起きました。

事件現場は、その名の通り現在の東京都港区虎ノ門・・・文部科学省前の交差点。(↓)


 


犯人は難波大助という、1899(明治32)年に現在の山口県光市に生まれた共産主義者。

        


父親・難波作之進は衆議院議員を務める名家の出で、本人も当初は皇室中心主義者だったそうですが、徐々に左傾化。

鴻城中学を中退し、予備校に通うため上京した彼は、1922年に早稲田第一高等学校に入学するも、1年で中退。

日雇い労働をして生活する中で、労働運動や社会主義運動に触れ、共産主義の暴力革命に傾倒していきました。

更に関東大震災直後に起きた 『甘粕事件』 (↓)などに衝撃を受け、皇室崇拝の念を打破するため、皇室に対するテロを思い立ち、当時大正天皇の摂政として実務を執り行っていた裕仁親王襲撃を画策。


       特 務 | ナベちゃんの徒然草 (ameblo.jp)


山口に帰郷し父親の勧めで始めた狩猟を通じて仕込型のステッキ散弾銃を入手すると、新聞社にテロ決行と自らが共産主義者である旨の趣意書を、そして友人には類が及ばぬよう絶交状を送付。

そして1923(大正12)年12月27日、裕仁親王が第48通常国会の開院式出席のため自動車に乗って皇居から貴族院に向かう途中の午前10時40分頃に虎ノ門交差点に差し掛かったところ、群衆の中に紛れていた彼が警戒線を突破して接近し、ステッキ仕込式散弾銃を発砲。

幸い裕仁親王には当たりませんでしたが、同乗していた東宮侍従長・入江為守は負傷しましたから、未遂とは言え非常に危うい状況でした。

しかし車はそのまま進んで貴族院に到着・・・その時点で初めて侍従長は出血に気づいたといいます。

事件直後「空砲だと思った」と側近に語られたという裕仁親王は、その後公務を滞りなく終えテニスもこなされたとか。

一方犯人は逃走を図ろうとしたものの、私服刑事に飛びつかれた上に群衆から袋叩きに。

逮捕された彼は大逆罪で起訴され、翌年11月13日に死刑判決。
翌々日に死刑が執行されました。


※当初政府は、死刑判決が下されても、摂政の計らいによる恩赦で罪一等を減じ無期懲役とすることが最善と考え、彼に反省陳述をさせるべく動きました。


しかし彼は公判に於いて自分の行為を正当化し反省を口にはせず 「日本共産党万歳!」 などと言う始末で、自ら恩赦の道を閉ざしてしまいました。

    

            取り調べのため連行される難波大助

犯行は未遂に終わり犯人も逮捕されましたが、この事件の影響はその後の日本史に大きな影響を及ぼしています。

まずこの事件により、大震災の復興に尽力していた山本権兵衛内閣は責任を取って事件当日の夕方に全員が辞表を提出。

(翌1月7日に総辞職が認められました)

 ※山本権兵衛に関する過去記事は、こちら。(↓)



また当日の警護責任を取って、警視総監・湯浅倉平と警視庁警務部長・正力松太郎が懲戒免官。

更に犯人の出身地だった山口県知事が2割減俸2ヶ月、途中犯人が立ち寄ったとされる京都府の知事も譴責処分。

犯人の郷里の全ての村々は正月行事を取りやめ謹慎、彼が卒業した小学校の校長と担任が責任を取って辞職したといいますから、現在では考えられない連帯責任の嵐でした。

そして父親は、犯人が息子だったことを知るや直ちに辞表を提出し、自宅の門を青竹で結んで蟄居。

断食の末、翌年5月に餓死して果てました。

他の家族も同様に蟄居したそうですが、唯一の救いは三菱本社に勤務していた実兄の吉田義人が辞表を提出したものの、岩崎小弥太社長が 「その必要なし」 と受け取らず。

以後彼は岩崎社長に忠誠を尽くし、その後新三菱重工業の社長になったことでしょうか・・・。

もしこの事件なかりせば、山本内閣はその後も続き、正力松太郎は読売新聞の社長にはならなかったかも。

そして父・難波作之進が死ななければ、同じ地盤だった松岡洋右や岸信介・佐藤栄作が中央政界に進出するのが遅れたはず。

サラエボ事件ではないですが、一発の銃弾か歴史を変えたと言えそうです。

それが
犯人の意図した結果と大きく違っていたとしても・・・。うー


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撲 殺

拙ブログでは、これまで日本共産党が引き起こした様々な事件について記事にしてきました。

 ※その一例が、こちら。(↓)



そして今回は、同じく共産党員が今から70年近く前の今日引き起こした

 練馬事件

1951(昭和26)年12月26日午後10時過ぎ、東京都の練馬旭町駐在所に若い学生風の男がやってきて、

「小田原製紙工場横の道路に行き倒れらしい男が倒れている。」

と通報。 

     

            小田原製紙工場の位置

          

応対した印藤勝郎巡査(当時32歳)は、拳銃を携帯して男と共に駐在所近くの現場へ。

しかし3時間経っても帰ってこないため、不審に思った巡査の妻が田柄駐在所に通報、

冷たい雨が降る中、巡査2人と共に探したものの見つからず。


そして夜が明けた午前7時過ぎ、小田原製紙工場近くで駐在所から約300m離れた麦畑で、鼻と口から出血した印藤巡査の遺体を発見しました。


         

                   印藤勝郎巡査


頭や顔に十数ヶ所の殴られた傷があり、致命傷は鈍器で殴られたようなと思われる後頭部の裂傷と思われ、持ち出した拳銃は所持していませんでした。

警視庁は即日特別捜査本部を設け、捜査を開始。

事件前、小田原製紙工場では賃上げと労働協約の締結をめぐって争議が起きており、会社側と労組側が対立していました。

また争議に反対する穏健派の第二労働組合が結成され、2つの労組が分裂して対立し抗争なども起こっていたとか。


印藤巡査は、1949年に旭町駐在所が新設された時から巡査として赴任しており、公安的な任務も帯びていたと思われ、実際情報収集のためたびたび工場に出入りして労組員同士の暴行傷害事件などを調査しており、17歳の若者を暴行事件の被疑者として逮捕したことも。

それ故に組合員から恨みを買っていたようで、「印藤ポリ公、我々の力を覚えておけ」 などといいう張り紙を旭町一体に貼られたことも。

その状況下で、第一労働組合はソ連帰りの委員長以下63人の組合員で構成され、そのうちの青年行動隊10人が先鋭的で、かつアリバイなどがはっきりしませんでした。

警察は彼ら組合員による報復と睨み、翌年1月に脅迫ビラを貼った18~23歳の5名を逮捕。

その内の1人の自供から更に5人、計10名を検挙し、主犯格で消息を絶っていた共産党北部地区軍事委員長のYを指名手配。

そして同年5月に起きた板橋署岩ノ坂交番襲撃事件の関係者として逮捕された男が、このYに酷似していることから指紋を照合、その結果同一人物であることが判明。

犯行は複数犯が呼び出し役・実行役などの役割分担をして10日前から周到に計画されていたことも分かりました。

裁判は最高裁まで争われましたが、被疑者10名全員の有罪が1958年に確定・・・とは言え、主犯格のYでさえ懲役5年という警官殺しの割には軽い判決でした。



しかもYは出所後自らの潔白を主張する書籍も出版していますから、何をか言わんや。

共産党は、秩序を乱す社会のガン細胞・・・切除・根絶が急務です。


 

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鯛焼き

10年程前でしたか、〝白い鯛焼き〟 がブームになったのは。


昭和世代の私にとっても、子供時代に何匹(?)食べたかわからないくらいお世話になったおやつでしたが、鯛焼きで真っ先に浮かぶのは、


 およげ! たいやきくん


この空前の大ヒットを記録した童謡のシングルレコードが発売されたのが、今から45年前の今日・1975(昭和45)年12月25日でした。


もともとこの歌は、同年10月からフジテレビが放送していた 『ひらけ!ポンキッキ』 の中で生田敬太郎さんが歌い始めたもの。


その生田さんが交通事故に遭うなどの諸事情により、子門真人さんに交替してシングルレコードが発売したところ、これが大ヒット。


発売2週間あまりで出荷が150万枚! 

オリコン史上初のシングルチャート初登場第1位、その後11週連続トップの座をキープし、現在までの総売上枚数は450万枚以上で歴代1位。


第2位は〝おんなのみち〟(宮史郎とぴんからトリオ)の326万枚ですから、ダントツの数字です。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-およげたいやきくん


これだけ売れたら、さぞ子門さんは印税で儲かっただろうに・・・と誰もが思うでしょうが、実はそうではなかったそうで。


B面に〝いっぽんでもにんじん〟を吹き込んだなぎら健壱さん同様、このシングルの印税に関して定額・買い取り契約をしていたため、子門さんはたったの5万円(なぎらさんは3万円)しかもらっていないとのこと。


まさか童謡がこんなに売れるとは思わなかったのでしょうが、随分もったいないことをしたものです。


おかげで儲かったのはシングル発売元のキャニオン・レコードら会社側。


同社がこの大ヒットの後に建てた新社屋は、〝たいやきビル〟 と呼ばれたそうな。あせあせ


それにしても、何故この童謡が大人も巻き込んで大ヒットしたのでしょう?


一説には、「脱サラして会社を飛び出したいサラリーマンの気持ちを代弁しているから」 ともいわれていますが、皆さんは歌詞(※一部漢字に変換)をご覧になってどう思いますか?


  毎日 毎日 僕らは 鉄板の
  上で 焼かれて イヤになっちゃうよ


  ある朝 僕は 店のおじさんと 

  喧嘩して 海に 逃げこんだのさ


  初めて 泳いだ 海の底 
  とっても 気持ちが いいもんだ

  おなかの アンコが 重いけど 
  海は 広いぜ 心がはずむ

  桃色サンゴが 手をふって 
  僕の 泳ぎを 眺めていたよ音譜


う~ん・・・私には単純で分かりやすい歌詞とメロディー、そしてスローテンポだったことで記憶に残りやすいから、だと思えるのですが。


現にこの曲、半世紀近く経った今でも私はソラで歌えますもの。


クリスマスの今夜・・・昨日売れ残ったケーキではなく、鯛焼きを買って頬ばりつつこの曲を口ずさんでみましょうか。笑2.


 

ところで皆さんは鯛焼き、頭から食べますか? それとも尻尾から?


私は腹からガブっといってましたが・・・。

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浄 夜

今日は、クリスマス・イブ。


今夜は家族や仲間とパーティーを開く人、恋人と2人きりで過ごす人、そして(私のように)何も予定がなくて大人しく家に居る人・・・様々でしょうね。


今日から2日間、我が国には〝にわかキリスト教徒〟(?)が急増するでしょうが、武漢肺炎のために外出を控えなければならない今だからこそ、心に沁み入る本をワイングラス片手に読むのも一興ではないでしょうか?

そんな静かな夜を過ごしたい紳士・淑女にお勧めしたいのが、


  『十二番目の天使』 (求龍堂・刊)


       


著者は、『地上最強の商人』 などでお馴染みのオグ・マンディーノ。


主人公は、不幸な事故で妻子を失い絶望のどん底に落ちた男性。


心配した友人の計らいで地元の少年野球チームの監督を引き受けることになった彼は、チームに入ってきた一人のヘタクソな少年と出会います。


少年の一生懸命さに、いつしか絶望から一筋の光を見出す主人公。


果たして少年は試合で活躍することができるのか?


そして彼らを待つ運命とは・・・?


この物語を読み終えた時、きっと今夜は貴方にとって本当の〝浄夜〟となることでしょう。

この本の原書 “The Twelfth Angel ” も通販で入手できます。


やさしい英語ですので、原作から読みたい方にはオススメです。

       

私も今宵、クリスマス・ソングをメドレーで聴きながら、久しぶりにこれを読み返して〝聖なる涙〟に咽ぶつもりです。


それでは、皆さんにとって素晴らしい1日となりますよう・・・。


      


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文 官

12月23日といえば上皇陛下の誕生日であり、2018(平成30)年までは天皇誕生日の祝日でした。

また上皇がまだ皇太子であられた1948(昭和23)年の同日には、それにあてつけるかのように極東軍事裁判で有罪判決を受けた7名のA級戦犯に巣鴨プリズンで死刑が執行された日でもあります。


※巣鴨プリズンに関する過去記事は、こちら。(↓)



今日は、その7名の中で唯一の文官・元外交官であった

 広田 弘毅 第32代内閣総理大臣

にスポットを当てようと思います。

       

広田氏は1878(明治11)年に現在の福岡県福岡市で石材店を営む父親の子として生まれました。

予科を経て福岡県立修猷館(現・修猷館高等学校)に進学した彼は、家計に負担をかけぬよう陸軍士官学校への進学を目指していましたが、在学中に起きた三国干渉にショックを受け、外交官志望に。


 ※三国干渉に関する過去記事は、こちら。(↓)




修猷館から第一高等学校・東京帝国大学法学部に進学すると、一度は落ちたものの1906年の高等文官試験外交科に首席で合格。(同期には吉田茂ら)


翌年に清国公使館付外交官補として北京に赴き、外交官としてのキャリアをスタート。

その後はアメリカ在勤、情報部課長・次長を経て、1923年には欧米局長に。

更に1926年にオランダ公使、1930年から駐ソビエト連邦特命全権大使を務めると、1933年には斎藤内閣の外務大臣を拝命。

1934年に発足した岡田内閣でも留任した彼は、終始軍部の増長を抑えようと努力し各国との協調外交に腐心しました。

そして1936年にニ・二六事件が勃発して岡田内閣が総辞職すると、元老らの推挙により総理大臣に。

しかし翌年1月に国会で起きた〝腹切り問答〟を端緒として、広田内閣は総辞職。

 ※腹切り問答に関する過去記事は、こちら。(↓)
  




一旦公職からは離れたものの、貴族院の勅撰議員となった翌月の1937年6月に発足した近衛内閣で再び外相に。

その直後に起きた盧溝橋事件から、日本は日華事変・大東亜戦争へと泥沼に嵌ることになるのですが、残念ながら広田氏一個人の力では如何ともし難く・・・1938年5月、内閣改造時に外相を辞任。


その後内閣参議となった彼は、近衛首相が松岡洋右を外相に任命しようとした際 「彼では危ない」 とし、松岡が外相として日独伊三国条約を締結したことに、「英米を敵に回すことになる」 と強く反対したとか。

にも拘わらず、彼は終戦後の極東軍事裁判でA級戦犯として訴追されてしまいます。

その理由は、「軍国主義者ではないものの、陸軍の圧力に屈して侵略を容認した、日本が膨張を遂げていく上での積極的な追随者」 だったというもの。

しかし広田氏は、「
過ちだと判定される事柄については、私は責任を取る」 とし、自分が証言をすることで天皇や他の人々に類が及ぶことを恐れ、自己弁護をせず終始無言を貫きました。


       

       



結果、出された判決は死刑。

キーナン主席検事でさえ 「バカげた判決だ」 と激怒したそうですが、広田氏はそれを甘んじて受け、

「何も言うことはない。 自然に生きて、自然に死ぬ。」

と言い残して絞首台の露と消え、極東軍事裁判開廷前に服毒自殺した愛妻の元へと旅立ったのです。


他国の政府要人の証言から外交官としては非常に優秀だったことが伺える広田氏ですが、政治家としては軍部を抑え切れなかったことで批判を受けています。

が、ではあの当時軍部を誰が抑えられたのか? 私はそんな人材などいなかったと思いますし、むしろ自己弁護に走らず黙して刑を受けた男気に敬服します。

そんな文官の生涯に興味のある方には、こちらのご一読を・・・。


 『落日燃ゆ』 (城山三郎・著 新潮社・刊)


       


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対 決

今から66年前の今日・1954(昭和29)年12月20日、蔵前国技館に於いて初の

 日本プロレス選手権試合

が行われました。

対決したのは、力道山と木村政彦両選手。

実はこの2人、その10ヶ月前にはタッグを組んで同じ蔵前国技館で初の国際プロレス試合をシャープ兄弟と対戦した仲間でした。


 ※力道山に関する過去記事は、こちら。(↓)



シャープ兄弟との対戦は、今では信じられないことにNHKが生中継。

当時は一般家庭には殆どテレビはなく、皆近所でテレビを置いている家や電気店、あるいは有楽町日劇前や新橋駅前広場に設置された街頭テレビに群がり、当然視聴率は100%。

戦後復興の最中、人々は巨漢のアメリカ人レスラーに空手チョップを浴びせる元・関脇力士だった力道山の雄姿に声援を送り、敗戦の鬱憤を晴らしたといいます。


またその後福岡・大阪・名古屋など10ヶ所で14試合組まれ、全国にプロレスブームが巻き起こりました。

ではなぜ、そのプロレス人気の立役者だった2人が対決することになったのか?

ここで、力道山の対戦相手・木村政彦選手(1917-1993)について。

多くの方は力道山の名は知っていても、彼のことは殆どの方は知らないと思います。


しかし実は、全日本選手権13連覇など15年間負け知らずで 「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われ、史上最強と謳われた柔道家であり、極真空手の創始者・大山倍達館長が兄と慕う人物でした。

       


私の年代ではロス五輪金メダリストの山下泰裕選手が最強でしたが、2人を知る柔道家は異口同音に 「木村の方が遥かに強い」 と証言していますから、モンスター級の選手であったことが分かります。


木村選手は師匠・牛島辰熊氏が立ち上げた国際柔道協会といういわゆるプロ柔道に参画し連勝を重ねたものの、やがて観客が減り興行が成り立たなくなったため脱退してハワイへ渡航。

そこでプロレスラーに転身した木村選手は、ブラジルに渡りグレイシー柔術の創始者エリオ・グレイシーと対戦し、日本人として唯一人勝利を収めます。

その彼を力道山が誘ってタッグを組んだのですが・・・真剣勝負を標榜する木村選手は、常に自分が引き立て役に回されたこともあり、ショープロレスを行う力道山に不満を募らせ、程なく2人は決裂。

どちらが本当に強いのか? その決着をつけるべく、プロレス史上において〝昭和の巌流島〟と称される直接対決となったわけです。

それでは、その試合の模様をご覧ください。



ご覧の通り、試合はあっけなく力道山の勝利。

その後力道山人気は更に上がった反面、木村選手の存在は薄れてしまいました。

「真剣勝負なら絶対に負けない」 と豪語していた彼が、なぜ一方的にやられてしまったのか?


そこには当て身禁止など木村サイドに不利なルーリングだったこと、また通説では試合前に両者引き分けにする筋書きがあったにも関わらず、力道山がそれを無視して一方的に攻撃を仕掛けたからだとも言われています。


現に彼はこの後短刀を懐に入れ力道山をつけ狙ったとされていますが、力道山は数年後暴漢に刺され落命してしまいました。


その木村選手にスポットを当てた著書が、2011年に出版されています。


『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』
                       (増田俊也・著  新潮社・刊)


       

何やら物騒なタイトルですが、新潮社から刊行された700ページにも及ぶこの大著は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した秀作。

プロレス発祥の経緯はもちろん柔道(柔術)は本来立ち技より寝技が中心だったこと、また現在柔道界を支配している講道館が戦前までは数ある流派のひとつに過ぎなかった等々の歴史、また力道山や大山倍達氏らの実像などが綿密に書かれている、格闘技ファン必読の一冊です。


またそれ程までに強かった木村選手がなぜ柔道界で冷遇され、またなぜ彼はプロ柔道からプロレスラーへと転身したのか?

実はそこには、彼の妻に対する愛情が深く関わっているのですが・・・後はこの本をお読みいただきたく。


 

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