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パ パ

今日は、ソ連・ゴルバチョフ書記長と対談し冷戦終結を宣言したことで歴史に名を遺す、第41代アメリカ大統領の

 ジョージ・H・W・ブッシュ 

 George Herbert Walker Bush


後に第43代大統領になる息子と区別するため〝パパ・ブッシュ〟と呼ばれた彼の命日、日本流にいえば三回忌にあたります。


      


彼は1924年にマサチューセッツ州ミルトンで生まれました。

女系の先祖が英王室に連なる家系で、父はコネチカット州の共和党上院議員を務める政治家一家に育ちました。

高校卒業後海軍入りし空母サン・ジャシントに乗り込むと、第二次世界大戦では最年少の艦上攻撃機パイロットとして活躍。

       


日本軍との交戦では2度撃墜されましたが、同乗員が戦死し自らも洋上で4時間も漂流しながらも助かるという、強運の持ち主。


海軍中尉まで昇進し退役した彼は、戦地から戻って数週間後の1945年1月に、後に健夫人として高い評価と人気を博したバーバラ夫人と結婚、後に6人の子をもうけました。

       


その後イエール大学に進学し経済学の学士号を得て卒業すると、ドレッサー・インダストリーズの子会社に入社しましたが、これが彼のその後の運命を決することに。

というのは、同社々長がCIA創始者アレン・ダレスと非常に緊密な関係だったから。

ブッシュ自身も積極的にCIAの活動に協力したことは、後に彼がCIA長官に就任したことからも十分伺えます。

そして政界進出を目指したのは、1964年から。
この年、テキサス州の上院議員選に出馬したものの落選。


しかし1966年に同州の下院議員に選出されると、1970年代にはニクソンやフォード大統領の下で共和党全国委員会委員長、アメリカ国連大使、中国特命全権公使などの要職を歴任。

1976年1月から1年間、前述のCIA長官も務めました。


そして1970年から8年間、副大統領としてレーガン大統領を補佐すると、1988年の大統領選で見事勝利を収めたのです。

1989年にゴルバチョフ書記長との冷戦終結宣言を出す一方で、1991年には湾岸戦争に突入。

またいかにも共和党らしく、かつて全権公使を務めた中国には天安門事件以降も議会と対立してまで最恵国待遇を維持。

その一方で日本に対しては保護主義政策を徹底し、〝ジャパンバッシング〟なる言葉も飛び出す程、対日強硬派でもありました。

(そのせいか中高年世代にとってブッシュ大統領と言えば、来日した際の宮中晩餐会の席で体調不良により嘔吐したことだけが記憶に残っている方が多いかも。)

そして湾岸戦争勝利翌年に行われたにも拘わらず、1992年の大統領選ではフォード、カーターに続き現職大統領として戦後3人目の敗北を喫しました。

しかし在任時にスキャンダルに見舞われなかったことから、彼の名はCIAや空港など、多くの施設にその名が冠せられています。

とは言え、彼自身はテキサス州知事から中央政界を目指す息子を前面に押し出す形で表舞台からは潔く身を引きましたが・・・。

それでも、7年前にはこんなほほえましいエビソードも残していますけどネ。



そんなパパ・ブッシュが闘病生活の末に84歳でこの世を去ったのは、2018年11月30日・・・愛妻バーバラが亡くなってから7ヶ月後のことでした。

       

果たしてブッシュ一族から、3人目の大統領は誕生するのやら?


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続・プリンシプル

昨日拙ブログで取り上げた白洲次郎氏。

彼のような国際感覚溢れる人物は、いかにして醸成されたのか?


そのヒントのひとつが、彼に関する著作に描かれていました。


           ◆     ◆     ◆     ◆


留学先・ケンブリッジ大学での白洲氏は、有名な経済学者ケインズも教鞭を取るなど、まさに優秀な教授陣に囲まれ、様々な知識を吸収していった。


(“電子”の発見で有名な)J・J・トムソンという優れた物理学者のクラスで試験を受けた時のこと。


授業を徹底的に復習していた彼は、試験結果に自信を持っていた。


ところが返ってきた点数を見てガッカリした。 
案に相違して低かったのだ。


不満げな顔のまま答案を仔細に眺めてハッとした。 そこには、


“君の答案には、君自身の考えがひとつもない”


と書かれていたのだ。


     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-白洲次郎

      『白洲次郎 占領を背負った男』(北康利・著 講談社・刊)


頭のてっぺんから足先までビリビリッと電気が流れたような気がした。


(これこそ、オレが中学時代疑問に思っていたことの答えじゃないか!)


痛快な喜びがこみ上げてきた。


テストの成績が悪かったことなどどこへやら、誰彼かまわず握手して回りたい気持ちだった。


(よし、やってやろうじゃないかっ!)


次の試験では自分の意見を存分に書いて高得点をもらった。


英国で学ぶことの幸せをかみ締めることのできた瞬間だった。


当時のケンブリッジでは試験の得点だけでなく、何回食堂でチューター (指導主任) と食事を共にしたかも卒業の条件となっていた。


食事の時間を通じてマナーを身につけさせようとしたのだ。


また教授たちは講義を始める前、必ず生徒に向かって “gentrlemen ” と呼びかけたという。


次郎はこの言葉を聞くたび、自分たちは自由であると同時に紳士しての規律を求められているのだ、ということを噛み締めた。


           ◆     ◆     ◆     ◆


若い時の教育がいかにその後の人生に影響を及ぼすかを、如実に示していますょネ。


少年時代は手のつけられないガキ大将だった白洲氏が、なぜ〝プリンシプルなる紳士〟へと成長できたのか? その理由が伺えます。


日本では〝3+2=□〟という問題を解かせますが、欧米は〝□+□=5〟で複数の回答を引き出す教育法だ、とも耳にします。 


受験重視・はめ込み型の日本式教育では、彼のようなダイナミックな人材が生まれにくいのは明らか・・・このままで本当に良いのでしょうか?うー


〝人生〟という難題には、いくつもの答えが必要とされるのに・・・。


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プリンシプル

以前ちょっとしたこの方のブームが起きましたので、名前をご存じの方も多いはず。


 白洲 次郎 氏


今日は、敗戦直後の日本を吉田茂首相の懐刀となって支えた、この人物の命日・没後35周年にあたります。


       


1902(明治35)年、実業家・白洲文平氏の次男として現在の兵庫県芦屋市に生まれた彼は、子供の頃からスポーツ万能でやんちゃ者。 

旧制第一神戸中学時代から高級外車を乗り回し、タカラジェンヌと恋仲になるなど派手な生活をしていたとか。


中学卒業後イギリス・ケンブリッジ大学に留学するも、綿貿易で大富豪となった父の会社が昭和金融恐慌の波を受けて倒産したため、やむなく帰国。


その後1929年に英字新聞社 『ジャパン・アドバタイザー』 に就職し記者となりますが、幾度にも及ぶ海外出張の中で、当時駐イギリス全権大使だった吉田茂氏と知遇を得たことが、その後の彼の運命を大きく変えることに。


1945年、吉田外務大臣の要請で終戦連絡中央事務局の参与に就任。


闊達な英語を駆使してGHQと渡り合い、彼らをして 「従順ならざる唯一の日本人」 と言わしめました。


日本国憲法起草にも関わった後、初代貿易庁長官に就任し、経済産業省の設立などに腕をふるった白洲氏。


1950年にサンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行した際、吉田首相の演説原稿が英語で書かれていたことに激怒。怒


「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。 その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」


そう言って随行員に手分けして和紙に毛筆で書き直させた、という逸話が残されています。


       白洲次郎


そんな白洲氏を語る上で必ず出てくる言葉に〝プリンシプル〟があります。


辞書には〝原理・原則・主義・信条・行動指針〟等と訳されていますが、彼自身は 「これをどう訳してよいか分からない」 と言っていたそうな。


私なりには〝筋を通す〟 という意味合いだと解釈していますが、残念ながら現在の日本には筋を通せる政治家が殆どいないように感じます。


公職を退いた後、東北電力の会長に就任するなど数々の民間会社の経営に携わりましたが、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長を務めていた時には、当時の田中角栄総理大臣から 「ブレーしたい」 と申し出があっても、「うちはメンバー以外はプレーできない」 とあっさり断ったとか。


洗練された英国流のセンスやマナーを身につけた紳士だった一方で、筋の通らぬことには断じて首を縦にふらぬ頑固オヤジの如き硬骨漢であった白洲氏が、胃潰瘍と内臓疾患により83歳で世を去ったのは今から35年前・1985(昭和60)年11月28日のことでした。

対外的に物言えぬ弱腰外交しかできない現在の日本にこそ存在して欲しい傑物だったと申せましょう。

数日前の会見で、支那の外相が我が国の領土である尖閣諸島の主権が我にありなどと暴言を吐いた際、茂木外相は何ら反論せずニヤケ面するばかり・・・もし白洲氏だったら即座に否定したはず。


これからの政界に第2のMr.principleが登場することを切に願いつつ、謹んでご冥福をお祈り致します。笑3


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禁 制

以前、女性政治家が「土俵に上がりたい」と言明し日本相撲協会がそれを断ったり、また巡業の土俵で挨拶中に倒れた市長を介抱するため咄嗟に女医さんが土俵に上がった際もその是非が話題になりました。

それもこれも、土俵は女人禁制・・・という伝統に則った話なのですが、日本書紀によれば歴史上相撲を初めて取ったのは女性なのだそうな。

今から1550年余り前の469(雄略天皇13)年に、「絶対にミスをしない」と豪語していた木工名人・猪名部真根の手元を狂わせようと、雄略天皇が女官(采女[うねめ])をフンドシ姿にして相撲を取らせたのだそうな。


※ちなみに相撲協会が相撲の起源としているのは、これより200年近く後の642(皇極天皇元)年に朝廷が開催した 『健児 (こんでい=兵士) 相撲』。

まぁこれが事実かどうかはともかく、女性同士が対戦する


 女相撲

は、記録に残る限り江戸時代中期から行われていたようです。

ただ人気が下降すると、男性の盲人力士や羊(!)と対戦させたり、
姥が里・色気取・玉の越(玉の輿のシャレ)・乳が張なんて四股名をつけていたそうですから、少々キワモノ的であり、また当時は少なくとも上半身は裸で取っていたとか。

明治時代に入っても女相撲は続きましたが、1872(明治5)年に男女相撲見物が差し止めになり一旦は下火に。

しかし明治中期にはしぶとく復活、山形を中心に複数の女相撲興行団が14~25歳の若い女性力士30人程を抱えて全国を巡業。

中には海外進出を果たした団体もあるそうですから、逞しい!


この当時は全裸ではなく、肉襦袢を身に着け猿股を穿いて土俵に上がったとのこと。

また真剣勝負をするというよりも
余興の舞踊や力業曲芸を主としており、演目はお目見えかっぽれ・相撲甚句、果ては腹の上での餅つき等々だったそうですから、相撲というより雑技団的な内容。

当時のポスターを見ると、それがよく分かります。(↓)


       

この頃の四股名は、蒸気船・電灯・電信など、当時の流行を反映した色気抜きのものが多かったようですが、それでも今からちょうど130年前の今日・1890(明治23)年11月27日、警視庁が

「体格非常にして男の力士を欺くが如きにはあらざるべし」

として、女相撲興行の差し止め命令を出したのです。

さすがにこれでアウトか・・・と思いきや、またしても女相撲興行はその後もしぶとく復活。

大正時代から、昭和30年代にかけて女相撲興行団は存在していたそうな。

この女相撲に関しては、


 『菊とギロチン』

という映画が2018年に公開されていますので、興味のある方は、ご覧いただきたく。

       

そして女相撲の歴史と伝統(?)は、やがて女子プロレスに受け継がれていきました。

その女相撲・・・いや女子相撲は、日本女子相撲連盟が組織され、今や歴としたスポーツ競技として行われています。

もうそろそろ〝土俵は女人禁制〟という伝統は、変えるべきかも?


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買 収

私のような中高年世代にとって、それはバブル期を象徴する出来事でした。

ひとつは、三菱商事がロックフェラーセンターを買収した事。(↓)




そしてもうひとつは、この買収劇の翌年即ち今からちょうど30年前の今日・1990(平成2)年11月26日に松下電器が世界的な総合エンターテイメント企業である

 ミュージック・コーポレーション・オブ・アメリカ
         Music Corporation of America

略して〝MCA 〟を買収したことでした。

同社は1924年創業。 元々はタレント事務所・・・日本でいうなら、ホリプロやナベプロといったところでしょうか。

それが1948年にテレビ事業に参入すると、以後レコード会社や映画の版権やスタジオ、更には複数のレコード会社を次々と買収し、巨大化。

そのMCAを松下電器が61億ドル(当時のレートで約7,870億円)で買収したのです。


これだけの巨額投資を松下電器・谷井社長が決断したのは、MCA傘下のユニバーサル映画などが持つ膨大な映像ライブラリーを活用し、松下グループにソフトとハードの融合した新たな事業展開の可能性を見出し、来るネットワーク時代に備えるためだったとか。

   
   
握手するMCAワッサーマン会長(左から3人目)と谷井社長


実際MCAはスティーブン・スピルバーグやオリバー・ストーンなど大物監督と専属契約を結んでおり、松下電器がMCAを保有していた1993年に配給した映画18本のうち、スピルバーグ監督が代表を務める製作会社 『アンブリン』 がつくった3本の映画の配給収入は約604億円。


同年のMCAの映画興行収入814億円の内、実に70%を稼ぎ出しました。

その内の2本が、『ジュラシック・パーク』 と 『シンドラーのリスト』・・・皆さんの中にも、この両作品をご覧になった方も多いはず。

かく言う私も、その一人ですが・・・。

またテレビ番組部門でも 『刑事コロンボ』 や 『私立探偵マグナム』 など人気ドラマシリーズを制作しており、更に音楽分野では、R&Bの老舗モータウン・レコードを保有していた他、ポップスからヘヴィメタルまで、幅広い音楽ファンを持つゲフィン・レコードを吸収合併するなど、映像ソフトと音楽コンテンツの宝庫でしたから、『ソフトとハードの融合』を実現させるには、もってこいの企業だったのです。

しかし何と松下電器は、この〝ドル箱〟を僅か5年後にカナダの酒造メーカー・シーグラム社に卸値で叩き売ってしまいます。

前途洋々だった買収先を、なぜ安値で手放したのか?

そこには谷井社長とその後任・森下社長との確執があったというのですが・・・詳細を知りたい方には、こちらのご一読をお勧めします。

 『ドキュメント パナソニック人事抗争史 』

                  岩瀬達哉・著 講談社+α文庫・刊)

       


私自身もかつて大会社に勤務していたので、経験上人事は上に行けば行くほど人の好き嫌いや感情で決まることを知っていますが、これを読むとその空しさにあらためて溜息が出ます。

いかな大会社でも、トップの選定を間違えると屋台骨がぐらつくことを、同書は如実に物語っています。


それにしても、よくこの本を松下電器がスンナリ出させたものだと感心しますが・・・。

因みに現在人気を博しているユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)は、松下電器がMCAを売却したシーグラム社のもとで建設されました。

ハリウッド・オーランドに次いで3番目のテーマパークとなったUSJは、日本国内だけでなく海外からの来場者も絶えず、同社収益の大きな柱となっています。

もし松下電器が手掛けていれば・・・と思うと、残念でなりません。


まさに、企業は人なり!?


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憂 国

愛国保守の私としては、今日この出来事に触れないわけには行きません。

今からちょうど50年前、大阪万博が開催された1970(昭和45)年の11月25日・・・東京・市谷で衝撃的な出来事がありました。 

それは人気作家であった


 三島 由紀夫 

が起こした、いわゆる〝三島事件〟。

その日三島氏は市谷自衛隊駐屯地を仲間4名と訪れ、益田総監を人質にとり篭城。


コビーではなく全て手書きした檄文を撒いた上、バルコニーで自衛隊決起のアジ演説を行った後、割腹自殺を遂げたのです。


まだ45歳という若さでの憤死でした。

腹に残された傷は深さ5cm・長さ14cmで真一文字に切られており、それは余程の覚悟がない限り常人には到底為し得ない刀捌きだったといいます。


当時私は小学校6年生でしたが、当日夕方のニュースがこの事件一色だったことを、おぼろげながら記憶しています。


    


1925(大正14)年、東京に生まれた三島〔本名・平岡公威(きみたけ)〕氏は、幼少時代を祖母の元で過ごしました。 


彼女が歌舞伎・能・小説を好んだことが、三島氏の小説家としての素養を培ったようです。


学習院高等科を主席で卒業後、東京帝大法学部入学。 


大東亜戦争末期に召集されるも、幸運にも戦地行きを免れて終戦を迎え、1947年に大学卒業後、文壇に登場。


以降数々の名作・話題作を発表し世界的にも高い評価を受けましたが、一方で自衛隊に体験入隊するなどしながら、民兵組織による国土防衛を模索していたようです。

三島氏は自衛隊に関して、このような発言をしていました。

〝私は、私の考えが軍国主義でもなければ、ファシズムでもないと信じています。


私が望んでいるのは、国軍を国軍たる正しい地位に置くことだけです。


国軍と国民のあいだの正しいバランスを設定することなんですよ。


政府が為すべき最も重要なことは、単なる安保体制の堅持、安保条約の自然延長などではない。


集団保障体制下におけるアメリカの防衛力と、日本の自衛権の独立的な価値を、はっきり分けてPRすることである。


たとえば安保条約下においても、どういう時には集団保障体制の中に入る、どういう時には自衛隊が日本を、民族と国民を自力で守り抜くかという限界をはっきりさせることです。〟


まさに、5年前に成立した安保関連法を巡って議論になった集団的自衛権に関して示唆しているのです。

そして自衛隊の覚醒を願いつつ4年間待ったという三島氏が、遂に〝その日〟を迎えることに。


私は自衛隊の決起を促そうとした三島氏のこの日の行動自体には必ずしも賛同しません・・・がしかし、彼が抱いていたであろう〝憂国の想い〟には大いに感ずるところがあります。

現場に居合わせた当時の若い自衛官たちは彼の演説をヤジったそうですが、もし今彼が同じ演説をぶったら現在の自衛官はどんな反応をするのでしょうか?


亡くなる3ヶ月余り前、サンケイ新聞の特集・『私の中の25年』 に掲載された 『果たし得ていない約束』 という寄稿文の最後を、三島氏はこう締めくくっています。


〝私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。


このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。


日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。


それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。〟


・・・残念ながら、三島氏が半世紀前に遺した〝予言〟はほぼ的中しているように私には思えます。


私たちは、〝無機質でからっぽになってしまった日本〟を、三島氏の憂国の想いに応えるべく今後どうすればいいのでしょうか?

三島氏の最後の演説を聴きつつ、考えてみましょう。


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元 老

歴史の授業でもチラッと教えられ、その珍しい名前から皆さんもご記憶がある人物だと思います。

今日は日本近代史における〝最後の元老〟であった


 さいおんじ  きんもち
  西園寺 公望  

の命日・没後80周年にあたります。


       


西園寺公は1849(嘉永2)年、清華家(最上位の摂家に次ぎ、大臣家より上の序列に位置する公家)のひとつである徳大寺家の当主にして右大臣だった徳大寺公純の次男として、京都で生まれました。

2歳の時に同族の清華家・西園寺師季の養子になった直後に師季が死去したため、西園寺家の家督を相続することに。

学習院に学び11歳から御所に出仕して祐宮(後の明治天皇)の近習となり、同僚の岩倉具視と親しくなりました。

学問を学ぶ傍ら、京都随一の剣客といわれた戸田栄之進から剣術を学び、福澤諭吉の『西洋事情』を読むなどして海外情勢にも関心を持つように。


        

そして1868年には(岩倉具視の推挙により)参与となり、戊辰戦争では総督として山陰・北陸と転戦し、会津戦争では最前線で自ら鉄砲を撃ったとか。

その後新潟府知事に任命されるも、フランス留学を目指してフランス語を学んだ彼は、武家出身者と交流を重ねるうちに公家離れの兆しが。

そして同年10月に京都に戻り,家塾として 『立命館』 を創始した彼は、大村益次郎の推薦により晴れて1871年フランスに官費留学。


同国の政治・文化に触れると、すっかり民権論者となって帰国。

その後は『東洋自由新聞』の社長に就任。

(同紙の主筆は中江兆民。)


しかし明治天皇から促されて辞任すると、参事院議官補に任じられて官界入り。

1882年には
伊藤博文が憲法調査のためにヨーロッパを歴訪した際に随員として同行、以後彼の腹心として活躍することに。

 ※伊藤博文に関する過去記事は、こちら。(↓)


 

ヨーロッパ各国の公使を歴任した後、1893年には貴族院副議長・法典調査会副総裁に就任すると、総裁の伊藤に代わる実質的な総裁として明歩・商法の審査に当たります。

そして翌年には病気により辞任した井上馨に代わって第二次伊藤内閣の文部大臣に就任。


更にこれまた病気により辞任した陸奥宗光外相に代わって外相も務めるなど、政界の中枢に身を置くように。

1900年に発足した第4次伊藤内閣では、病身の伊藤に代わって内閣総理大臣臨時代理を務め、また彼の後任として立憲政友会の総裁となった彼は1906年、桂太郎から禅譲される形で第一次西園寺内閣を組閣し、日露戦争の後始末に奔走。

1908年に起きた 『赤旗事件』 の影響で総辞職したものの、桂内閣が総辞職した1911年8月に第二次西園寺内閣が発足。

明治天皇崩御という大事を乗り切ったものの、陸軍と激しく対立して翌年12月に再び辞任。

その後は元老となって首班推薦の任に当たり、原敬・加藤高明を推挙するなどして立憲政治・政党内閣制を支持。

この間1919年には第一次世界大戦終戦後のパリ平和会議の首席全権を務めましたが、その後軍部の圧力に悩まされ、二・二六事件では一時襲撃対象とされました。(実際は襲撃されず。)


1939年2月以降体調を崩した彼は、第二次近衛内閣が日独伊三国同盟を締結したことに嘆きつつ、1040(昭和15)年11月24日に90歳でこの世を去りました。

       

葬儀は日比谷公園にて国葬として執り行われ、参列者は数万人に及んだとか。


公私共に親しかった陸奥宗光をして「天下第一の高人」と言わしめた西園寺公に関して詳しく知りたい方には、こちらの近著てのご一読をお勧めします。

 
陸軍の横暴と闘った 西園寺公望の失意
                     (鈴木荘一・著 勉誠出版・刊行

       

軍部の圧力に抗い切れなかった西園寺公が日米開戦を見ずしてこの世を去ったことはある意味幸運だったのでしょうが、戦後の日本を草葉の陰からどう見ているのか・・・ちょっと気になります。


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艶福家

現在日本人映画スターとして海外の評価が高いのは北野武監督ですが、彼よりも遥か前にアメリカ・フランスなどで名声を博した男優がいたことを、皆さんはご存知でしょうか?

今日は、そのハリウッドで初めてスターダムにのし上がった


 早川 雪洲 さん


の命日にあたります。


       


少しワルっぽい目つきの二枚目ですが、写真を見てもピンとこない方が殆どだと思います。

それもそのはず・・・彼が現在の千葉県南房総市で生まれたのは、今から130年以上前の1886(明治19)年のことですから。


裕福な網元の家の三男だった彼は、海軍軍人に憧れて海城学校(前・海軍予備校)に編入。

剣道の稽古や英語の勉強に励む傍ら、徳冨蘆花の 『不如帰』 に感銘を受けて芝居を見に行く少年でした。


そして1904年に海軍兵学校を受験するも、二次試験の前に素潜り中に鼓膜が破れたことで顔の半分が腫れてしまい、それが原因で不合格。

絶望のあまり自宅の蔵の中で割腹自殺(!)を図ったとか。

失意に沈むそんな彼の運命を変えたのが、それから3年後に近くの白浜村沖で起きたアメリカ汽船 『ダコタ号』 の座礁事故でした。

彼を含め村総出で救助活動を行ったのですが、その際に英語を学んでいた彼は通訳として飛び回ったことで、生きる望みをアメリカ渡航に見出したのです。

既にサンフランシスコで出稼ぎをしていた兄の後押しもあって両親の説得に成功した彼は、座礁事故から4ヶ月後の1907年7月に日本郵船の 『安芸丸』 に乗って単身渡米。

シアトルに到着した彼は、その地で農作業などの単純労働に従事すると、翌年父親との約束通りシカゴ大学へ。

しかし日々働きながら勉学に励むのは困難を極め、僅か1年で退学。

その年に父親が亡くなり、ロサンゼルスに出て職を転々としながら先の見えない生活をしていた彼を救ったのは、演劇でした。


ロスの日系人社会で演劇好きが集まって作った 『羅府文芸協会』 の立ち上げに加わった彼は、素人劇団で主役を張り、当時欧米で流行っていた 『タイフーン』 という戯曲を上演。

※この時初めて〝雪洲〟を名乗ったそうですが、これは当初
西郷隆盛(南洲)に因んで北洲にしたものの、既に同名の人がいたため雪洲にしたそうな。

そしてこの公演3日目に映画監督のトーマス・H・インスが観たことが、雪洲の運命を大きく変えました。

当時西海岸では様々な人種の人々が混在しており、彼らの娯楽として映画が人気。

インス監督はその中で日系人向けの映画も製作しており、彼のプロダクションには後に雪洲の妻となる日本人ハリウッド女優第1号の青木鶴子さんも在籍していました。

雪洲に目を付けたインス監督は、『タイフーン』 映画化のために彼と契約。

1914年に同作で初主演、また同年に夫婦で出演した『神々の怒り』がヒットし、更に翌年公開された 『チート』 の大ヒットで、日本人美術商役を演じた彼の名は一躍有名に。

しかし反面、人種差別を甘んじて受け入れるような役柄だったことで、在米邦人から 「売国奴、国辱」 と罵られ、雪洲撲殺団(!)まで結成される騒ぎになったとか。

草創期のハリウッドで〝悲劇のハヤカワ、喜劇のチャップリン、西部劇のハート(ウィリアム・ハート)〟と並び称される程の人気者になった彼は、ハリウッドに4階建ての豪邸を建設。

そこにはチャップリンをはじめ各国の著名人が訪れ、日本領事館が迎賓館代わりに使用するなど、さながら日米の社交場に。

当初彼を罵っていた日本人も、その活躍を誇りとするようになりました。

自ら映画会社 『ハワーズ・ピクチャーズ・コーポレーション』 を作り、3600人もの従業員を雇って4年で22もの作品を世に出しましたが、アメリカでは公然と人種差別が行われ、更に〝黄禍論〟が広がったため、彼は1922年に妻共々一旦帰国。

その後映画 『ラ・バイユ』 製作のため渡仏した夫妻は現地で大歓迎を受け、更に映画のヒットにより英国王室の晩餐会に招待されたり、ロンドンの舞台公演には国王が2度も観劇されるほど人気は沸騰。


その後活動拠点をアメリカ東海岸に移したり、英・仏で映画撮影をする傍らモナコのカジノで大金をするなど派手な話題を振りまきましたが、共演したアメリカの新進女優ルース・ノーブルと不倫して子供を産ませたことが発覚し、人気は急降下。

アメリカ映画界から追われた彼は、1930年に活動拠点を日本に移しますが、ここでも愛人を作って2人の子供を産ませてしまいます。

単身渡仏した彼は、そこでも日本人の愛人を作りますが、離婚後訴訟沙汰を起こしたルースがフランスまで追いかけてきたことが決定打となって2人は離別。

まさに火宅の人というか泥沼状態となり一時行方不明になった彼を、第二次世界大戦後に探し出して再びアメリカ映画界に連れ帰ったのが、若い頃雪洲に憧れていたというハンフリー・ボガートでした。

新作映画 『東京ジョー』 に出演してもらいたいという彼の誘いに応えて、彼は再渡米。

熱烈に歓迎された彼は、他の作品にも出演した後、大映・永田社長の勧めで13年ぶりに帰国。

大映作品の 『レ・ミゼラブル』 で久しぶりに夫婦共演を果たし、映画やテレビで活躍。

そして私を含め多くの方が彼の代表作として記憶しているであろう、米英合作映画 『戦場にかける橋』 (1957年公開)に出演。


        


同作は1958年のアカデミー賞で作品賞・主演男優賞など6部門を制覇。


残念ながら彼自身は助演男優賞ノミネートに留まりましたが、同作は英国アカデミー賞やゴールデングローブ賞も獲得し、彼の名声は再び高まることに。

その後妻に先立たれたものの38歳年下(!)の後妻を迎え、80歳過ぎまで仕事をこなしましたが、1973(昭和48)年11月23日に急性肺炎により87歳でこの世を去りました。


       


『戦場にかける橋』は橋の爆破シーンがあまりに有名ですが、雪洲の波乱万丈の人生を知った上で再鑑賞すると、違った印象が残るかもしれません。

あらためて、モテモテ二枚目俳優のご冥福をお祈り致します。
笑3


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新嘗祭

今日は、『勤労感謝の日』。


国民の祝日に関する法律により 「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう日」 と定められ、1948年から公布・施行されている祝日。


ですが、1947(昭和22)年までは数ある神事の中で最も重要とされる


    にい  なめ  さい
   新 嘗 祭


が執り行われる、同名の祝日でした。


これは宮中祭祀のひとつで、天皇陛下が五穀の新穀や新酒を神々に供え、またご自身もそれを食して収穫に感謝する儀式であり、全国の神社でも同様の儀式が執り行われます。


新嘗祭は古くから行なわれており、1872(明治5)年までは旧暦11月の2回目の卯の日に行われていました。


それが太陽暦の導入と共に新暦11月の2回目の卯の日に行うこととなり、その最初が11月23日だったため、そのままこの日に固定され現在に至っています。   


宮中での式典は午後6時~8時の『夕(よい)の儀』、午後11時~翌日午前1時の 『暁(あかつき)の儀』の2回、神嘉殿において催されるとのこと。


       
 
         夕の儀』のご様子


嘗て10年半にわたり侍従長を務められた現・宮内庁参与の渡邉 允(まこと)氏が以前月刊 『致知』 で天皇陛下の祭祀に臨まれる姿勢について語られていましたので、以下に抜粋・編集にてご紹介させていただきます。


       ◆    ◆    ◆    ◆


両陛下は毎朝6時にはお目覚めになり、お二方で吹上御苑の森の中を散歩なさっています。 驚くべきことに、ご病気の時を除いて、この6時起床を変えられたことはありません。

普通はその日の予定に合わせて起床時間を決めたり、休みの日は遅くまで寝ていたくなるものでしょう。


しかし1年を通じて時間を変えないという規律を自らに課しておられる・・・そこに私は陛下の一貫した強靭な意志力を垣間見る思いがします。

そんな陛下の1日は、本当にお忙しいものです。

例えばまず午前中、宮中三殿で宮中祭祀を執り行われた後、午後は宮殿において社会福祉関係者の拝謁や認証官任命式
※国務大臣その他の官吏を任命し、辞令を交付する儀式)がある。 


その後新しく着任した外国大使夫妻のためにお茶会をなさり、夜は御所で近く訪問予定の国の歴史について、学者の話をお聴きになる。

通常、夜10時半が御格子
【※みこうし=陛下が御寝(おしずまり)になること】ですが、大抵両陛下はそれ以後も翌日の行事のための資料や式典で読まれるお言葉の原稿に目を通したり、外国の国王・王妃にお手紙を書かれたりされているようです。

このように朝から晩まで次々と性質の異なるお仕事に取り組まれており、それが1年を通じて続くことになります。


両陛下がお出ましになる大きな行事や式典は休日・祝日に行われることが多いため、5日働いて2日休むという生活のリズムもないのです。


そこまでしてご公務に邁進される陛下の根底にあるもの

・・・それは、「国民のために」 という思いにほかなりません。


陛下のその思いが一つの形として具現化される場が 『宮中祭祀』 です。 


これは陛下が国家国民の安寧と繁栄をお祈りになる儀式のこと。

陛下の一年は、元旦朝5時半から執り行われる 『四方拝』 で始まります。


外は真っ暗、しんしんと冷えている中、白い装束に身をまとい神嘉殿の前に敷かれた畳の上に正座され、伊勢神宮をはじめ四方の神々に拝礼される。

その後宮中三殿に移られて 『歳旦祭』 を執り行われ、五穀豊穣や国民の幸福をお祈りになるのです。

このように陛下が執り行われる宮中祭祀は年間20回程度ありますが、この中で最も重要とされるのが11月23日の 『新嘗祭』 です。


夜6時から8時までと、夜11時から翌午前1時までの2回、計4時間にわたって執り行われる間、陛下はずっと正座で儀式に臨まれます。


我々も陛下がいらっしゃるお部屋の外で同じように2時間正座を続けるのですが、これは慣れている人でも難儀なことです。 


私は毎年夏を過ぎると正座の練習を始めていました。


ある時、陛下の元に伺うと、居間で正座をされながらテレビをご覧になっていたことがありました。

やはり陛下も練習をなさっていると思ったのですが
、後でお聞きしてみると陛下はこうおっしゃったのです。

「足が痺れるとか痛いと思うことは一種の雑念であって神様と向き合っている時に雑念が入るのは良くない。 


澄んだ心で神様にお祈りするために、普段から正座で過ごしている。」

その取り組み方ひとつとっても、専ら肉体的苦痛を避けたいと思っていた私とはまるで次元が違うと感服した一瞬でした。

これらさまざまな宮中祭祀の多くは国民の祝日に行なわれています。


つまり私たちが休んでいる時に、陛下は国民の幸福をお祈りされているのです。

そのことを私たちは忘れてはなりません。


     ◆    ◆    ◆    ◆

渡邊氏の仰るように、多くの人々が祝日の楽しいひと時を過ごしたり寝入っている本日の昼夜、農耕民族たる日本人の代表としてその祭祀を司る天皇陛下自らが長時間正座しながら神々に感謝の祷りを捧げられていることを、国民はしっかりと認識すべきでしょう。


また同記事には、その他にも大きな地震や災害が起きた際にも狼狽えず即座にテレビをつけて情報を収集し、ご自身よりも国民の安全を気にかけておられたエピソードなどが記されておりました。

〝国民が第一、自分は二の次〟・・・普段からのこうしたお考えや姿勢が両陛下から滲み出ているからこそ、東日本大震災や水害被災地をお見舞いされた際、多くの被災者に希望と勇気を与えて下さったのでしょう。

逃げるように現場を離れようとして被災者から厳しい言葉を浴びせられた当時の総理大臣とは、比べることすら憚られます。


    


日々私たちのために祈りを捧げられている両陛下に感謝し、その思いに応えられるような国民にならねば!・・・と改めて今日、気を引き締める次第。

そして敗戦後GHQによって葬り去られた伝統ある祭祀の歴史や由来を次世代に語り継ぐことも、私たち大人の義務であり、〝日本を取り戻す〟ためには、まず 『勤労感謝の日』 という意味不明の呼称を 『新嘗祭』 に戻すべきだと私は考えます。

今日はそんな思いを込めつつ、厳粛な気持ちで国旗を掲揚しましょう!


         


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頂上対決

武漢肺炎騒動により、今年のプロ野球は変則開催となりましたが、昨日から始まった

 日本選手権シリーズ

では、読売ジャイアンツと福岡ソフトバンクホークスが激突。  

この俗称:日本シリーズが初めて開催されたのが、今からちょうど70年前の今日・1950(昭和25)年11月22日のこと。

1949年にリーグがセントラルとパシフィックに分裂したことを受け、その翌年からそれぞれのリーグ覇者が日本プロ野球の日本一を賭けて対戦するシリーズとして創設されました。

 ※リーグ分裂に関する過去記事は、こちら。(↓)


 


対戦したのは、セ・リーグの松竹ロビンス(後に大洋ホエールズ=現・横浜ベイスターズに吸収合併)と、パ・リーグの毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)。

       

↑のポスター左下をご覧いただくと分かりますが、両チームのフランチャイズ球場で交互に試合が行われる現在と違い、当時はまだそのシステムが確立しておらず開催球場が毎試合違っていました。

栄えある第1回の覇者は、4勝2敗で松竹ロビンスを下した毎日オリオンズ。


  


そしてMVPは、別当薫選手でした。

その後日本シリーズは毎年開催されていますが、歴代最多覇者はV9も達成した巨人。


35回出場して23回制覇しています。

逆に最小の1回なのが、楽天と阪神。

両チームの内、早く2回目を達成するのは、どちらなんでしょうネ?

またよく〝人気のセ・実力のパ〟と言われますが、こと日本シリーズに関しては、昨年までセ35勝・パ35勝と完全に五分。

つまり今年勝ったリーグが1勝リードするというわけ。


さて野球ファンの私には、日本シリーズに様々な思い出があります。

その中では1978年のヤクルト-阪急での上田監督による抗議・試合中断も、そのひとつ。(↓)



しかし試合そのものとしては、その2年前・1976年の阪急-巨人第6戦が今なお忘れられません。

3連敗のあと2連勝で盛り返した巨人が、0-7とリードされてから同点に追いつき逆転した時、テレビ中継を観ていて鳥肌が立ったことを鮮明に記憶しています。

また流れは逆王手をかけた巨人・・・と思われた第7戦を、阪急のベテラン足立投手にしてやられた悔しさも。

そして最も記憶に鮮明なのは、1983年の西武-巨人・第6戦。

どうしてなのかは、こちらの過去記事をお読みいただきたく・・・。



さて、皆さんにとって忘れられない日本シリーズ、ありますか?

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