
今日は、イタリアが生んだ映画監督にして〝映像の魔術師〟と異名を取った
フェデリコ・フェリーニ
Federico Fellini
の命日に当たります。
フェリーニは1920年にイタリア・リミニに生まれました。
子供の頃からサーカスが大好きで、自宅近くのテントに毎日通っていたという彼は、高校卒業後新聞社に勤務。
フィレンツェやローマで挿絵や雑文を書いていたそうですが、やがてラジオドラマの原稿執筆などを経てロベルト・ロッセリーニ監督の名作 『無防備都市』 のシナリオに協力したことから、映画界に。
1950年に『寄席の脚光』でアルベルト・ラットゥアーダとの共同監督で制作に初めて携わると、その2年後には『白い酋長』で単独監督デビュー。
この作品で音楽を担当したニーノ・ロータを大変気に入ったフェリーニは、以後彼が死ぬまでコンビを組み続けました。
※ニーノ・ロータに関する過去記事は、こちら。(↓)
1953年の『青春群像』でヴェネツィア国際映画祭・銀獅子賞を獲得し、翌年公開の『道』で世界的ヒットを飛ばし、名声を確立。
1960年の『甘い生活』、そして1963年の『8 1/2』でもヒットを飛ばした彼は、その後もチネチッタ・スタジオに巨大なセットを組み、『オーケストラ・リハーサル』(1979年)などの重厚感漂う作品を立て続けに撮影し、〝映像(スタジオ)の魔術師〟と異名を取りました。
1993年に脳内出血で倒れ、同年10月31日に73歳でこの世を去った同監督は、アカデミー賞・外国語映画賞を4回、名誉賞をも獲得、また1990年には高松宮殿下記念世界文化賞も受賞した、まさにイタリア映画界の巨匠。
彼の葬儀が国葬となったことでも、イタリアにとって如何に大きな存在だったかが分かります。
私が昭和というかアナログ世代なせいか、どうしても最近のCGを駆使した作品より昔の映画に惹かれてしまいます。
「私が映画だ。」
という強烈な自負をもつ巨匠の作品、もう一度観直すべきかもしれません。
スポンサーサイト
日本が誇るグローバル企業・トヨタ自動車。
今日は、同社を中核とする一大コングロマリット・トヨタグループの源流となる豊田自動織機の創業者にして、我が国の元祖・発明王ともいえる
豊田 佐吉
の命日・没後90周年にあたります。
佐吉は1867(慶應3)年に現在の静岡県湖西市で生まれました。
父・伊吉は農業の傍ら大工で生計を立てており、佐吉も小学校卒業後、父について大工の修業を始めたそうな。
そんな彼の運命が大きく変わったのは、18歳の時。
その年に専売特許条例が公布されたことを耳にした彼は、以前から国家に尽くしたいと願っていたこともあり、「発明を生涯の仕事としよう」と決意。
そしてかねてより母親が能率の悪い手織機で布を織る姿を見ていた彼は、織機の発明を目指すと1886年に同じ大工見習いだった佐原五郎作を誘って家出し、東京に行って工場見学を繰り返します。
また1890年に東京で開催された第3回内国勧業博覧会を見学した彼は、そこに外国製の機会しかなかったことに衝撃を受けたとか、
「こんなことで、日本の将来はどうなるのか?」
という憤りを覚えた彼は、その年11月に西欧製の従来品より1.5倍速く稼働できる豊田式木製人力織機の特許を取得。
その後東京に移住し、1893年に佐原豊作の三女・たみと結婚。
所帯を持っても度々家を空けて研究・発明に没頭した佐吉は、1896年に豊田式木鉄混製力織機の完成に成功。
1899年に三井物産が設立した井桁商会に技術長として入社した佐吉は、3年後の1902年に辞任し同年に豊田商会を設立。
※豊田商会の経営がうまく行ったのは、研究に没頭して家庭を顧みなかった佐吉に愛想をつかして家を出たたみ夫人に代わって、1897年に再婚した浅子夫人の功績が大。
彼女は嫁いた直後から豊田商会の事務を切り盛りし、自ら約200人の従業員の食事を作るなどして経費を節減し、傾きかけた会社を見事に立て直したのです。
その後も自動織機の改良を続けた彼は1926(大正15)年11月、トヨタグループのルーツとなる株式会社 豊田自動織機製作所を設立するに至りました。
翌年、昭和天皇に単独謁見する栄誉に浴した佐吉は、その3年後の1930(昭和5)年10月30日、急性肺炎にて83歳でこの世を去ったのです。
生涯に発明特許84件・外国特許13件・実用新案35件を取得した、まさに発明王の名に相応しい彼の人生をより詳しく知りたい方には、こちらのご一読をお勧めします。
『人物叢書 豊田佐吉』 (楫西光速・著 吉川弘文館・刊)
佐吉本人の才能と努力もさることながら、何より母国・日本に対する愛国心の強さが彼の発明に対する原動力だった・・・私にはそう思えてなりません。
あらためて日本の発明王のご冥福を祈りたいと思います。
今日は、我が愛読誌・月刊『致知』11月号から、巻頭エッセーを抜粋・編集にてお届けいたします。
◆ ◆ ◆ ◆
哲学者・森信三師をして〝日本教育界の国宝〟と言わしめた東井(とうい)義雄氏は、子供たちに根を養うことの大切さを説き続けた人である。
その言葉がある。
「根を養えば、樹は自ら育つ」
「高く伸びようとするには、まずしっかり根を張らねばならない。基礎となる努力をしないと、強い風や雪の重みに負けて倒れてしまう。」
教育は子供達の心の根を養うものでなくてはならないとは、東井氏の教育者人生を貫いた信条であった。
その東井氏は1912(明治45)年に兵庫県豊岡市但東町にある浄土真宗東光寺の長男として生まれた。
寺の檀家は、僅か9軒。
「私は日本一の貧乏寺に生まれた」と氏自ら書いている。
姫路市版学校を20歳で卒業後、但馬地方の小中学校に勤務。
その熱意溢れる教育指導が評価され、47歳の時に広島大学よりペスタロッチ賞を受賞。
地方にありながら、その影響は全国に及んだ。
52歳の時、請われて生徒数700名の八鹿小学校長となる。
東井校長と八鹿小学校の実践の素晴らしさが広く知られるようになり、各地から多くの参観者が訪れるようになった。
8年間校長を務め、定年退職。
その後は短期大学の講師を務める傍ら全国各地で講演。
その数は年間300にも及んだ。
79歳で没するまで約60年、生涯を教育者として生きた人である。
その東井氏の根を養ったと思わせるエピソードがある。
小学1年生で母親を亡くして以降20年間に6つの葬式を出した東井少年は、この貧乏から抜け出すには勉強しなければと、小学5年生修了時に中学進学を決意した。
しかし、いざ中学受験の願書を出す時になって、父親から 「とても進学させるゆとりがない。こらえてくれ。」 と泣きながら言われた。
東井少年は三日三晩父親の枕元に座り続けて懇願、「合格しても入学はしない」 という条件で受験することだけは許された。
必死の勉強が実って難関の試験は見事合格したが、約束通り中学進学は断念。 授業料が要らない姫路師範学校に進学した。
この体験が人間東井氏の根っこを養ったのだろう。
教育者としての東井氏を際立たせるものに、八鹿小学校長時代発行し続けた『培其根(ばいきこん)』がある。
文字通り其の根を培うという意である。
最初は教師が校長に提出する週録だったが、すべての教師に知って欲しいことを取り上げ、そこに校長としての思いや願いを書き込み、自分でガリ版を切って謄写印刷したものである。
『培其根』は校長赴任の翌年から始まり、退職までの7年間に52号を発行、総ページ数は778ページに上る。
鉄筆を振るっての作業が深夜の1時2時まで及ぶのは再々だったという。
東井校長の教育への烈々たる気迫がその鉄筆の記録から立ち上ってくる。
東井校長のもうひとつの特徴は、毎年卒業していく子供たち一人ひとりに、卒業証書と自筆の色紙を手渡したことである。
最後の『培其根』に、105人への色紙の言葉が載っている。 一部を紹介する。
◇ほんものはつづく。 つづけるとほんものになる。
◇あすがある、あさってがあると考えている間はなんにもありはしない。 かんじんの〝今〟さえないんだから。
◇自分は自分の主人公。世界で只一人の自分を創っていく責任者。
◇問題に追いかけられるものではなく、問題をおいかけていく。
小学校卒業時にこのような言葉を贈られた子は、その言葉を根っこにして自分を養っていったに違いない。
◆ ◆ ◆ ◆
こんな素晴らしい教師に出会えた子供は、幸せですネ。
色紙といえば、以前42年ぶりに中学の同窓会でお会いした恩師も、私たちにわざわざ色紙を認めて下さいましたっけ。
私も良き先生に恵まれた・・・って、気づくのが少々遅過ぎたかも?
今日は、私のような昭和世代のプロ野球ファンにとって忘れられない名選手にして名監督・名解説者・・・そう、〝打撃の神様〟といわれた
川上 哲治 氏
の命日・没後7周年にあたります。
川上氏は1920(大正9)年、現在の熊本県人吉市に生まれました。
元々は右利きでしたが、5歳の時に砂利道で転倒・負傷したことから、左利きに矯正したという彼は、県立熊本工業学校で投手として活躍。
1934・37年と全国中等学校優勝野球大会に出場し、どちらでも準優勝を達成。
卒業後、1938年3月にバッテリーを組んだ吉原捕手共々巨人軍に入団。
※この時の契約金は300円・月給110円だったそうですが、契約の1週間後南海が契約金500円・月給150円と更なる好条件を用意していたことを聞き、大いに悔やんだとか。
当初は投手と打者兼任で試合に出ていましたが、本人は内心打者に専念したかったそうな。
そんな中、入団1年目の春シーズンが終わり秋シーズン前のオープン戦で正一塁手がケガしたため急遽代役で出場して3安打を放つと、藤本監督から「ファーストミットを用意せい」と言い渡され、川上一塁手が誕生。
(ただし少ないながらも1941年まで投手として登板していました。)
翌1939年シーズンでは19歳で首位打者を獲得すると、1941年には2回目の首位打者に。
しかし選手としてもっとも脂の乗る20歳代だった彼から活躍の機会を奪ったのは、戦争でした。
1944年に入営し、立川陸軍航空整備学校で陸軍少尉として教官を務めていた川上選手が幸運だったのは、外地に行くことなく内地で終戦を迎えた事。
終戦後1946年から巨人軍に復帰すると、有名な〝赤バット〟をひっさげてヒットを連発。
(ただし赤バットはルール改正があったため、使用は1シーズンのみ)
1950年には「ボールが止まって見えた」という有名な言葉を残し、まさに達人の域に入った彼は、1956年5月に1,646試合目という現在に至るまで史上最速かつ史上初の2,000本安打を達成。
1958年に引退するまで、通算2,351安打・181本塁打・打率.313という成績を残しました。
引退後巨人のヘッドコーチに就任すると、1960年に水原監督がカメラマンに対する暴行事件を起こしてシーズン終了後辞任したことを受けて、監督に就任。
就任直後に 『ドジャーズの戦法』 をお手本として選手に猛練習を課すと共に、サインブレーやカバーリングなどの近代野球を導入。
1年目の1961年シーズンにいきなりリーグ優勝と遂げると、1963年シーズンにも優勝。
そして1965年から1973年まで、長嶋・王両選手を擁して〝V9〟を達成したのは、ご承知の通り。
この不滅の大記録を達成した陰に川上監督の選手管理・人心掌握術を物語る有名な〝雨中の特訓〟があったことは、過去記事でご紹介しました。(↓)
このV9期間中、私の叔父がたまたま新幹線内で川上監督と遭遇し、思わず「川上さんですか?」と声をかけたそうな。
すると、「そうですが、何か?」と鋭い目つきで聞き返された時、その迫力に押されて「いえ、何でもないです」とすぐその場を離れたとか。
後日その話を叔父本人から聞かされた時、「やっぱり凄い人なんだ~」と子供心に感心したことを、今でも鮮明に憶えています。
その川上監督も、1974年にリーグ2位となってV10を逃すと、通算監督勝利数歴代11位の1,066勝、日本シリーズ歴代最多優勝11回という記録を残し、同年に現役引退した長嶋選手に監督の座を禅譲。
監督辞任後は、少年野球教室に力を入れると同時に、長らくNHKの野球解説者として活躍されました。
一方、ゴルフ週刊誌に連載コラムを持つほどゴルフ好きだったそうで、世田谷区野沢の自宅にアプローチ練習場を作るほど熱心に取り組み、仲間内から〝30ヤードの哲〟と呼ばれた・・・なんてエピソードからも、川上氏の負けず嫌いや凝り性だったことが伺えます。
1992年には勲四等旭日小綬章を受賞し、また同年に野球界から始めて文化功労者に選ばれた川上氏が老衰により93歳でこの世を去ったのは、2013(平成25)年10月28日のことでした。
今日は過去記事でご紹介した川上氏の書籍を久しぶりにめくりつつ、巨人軍の栄光を築き上げた〝打撃の神様〟の冥福を祈りたいと思います。
昭和世代の映画ファンなら、タイトルだけで今日の主役が誰か、お分かりでしょうネ。
今日は、かつて大映の屋台骨を支えた売れっ子女優、
江波 杏子 さん
の命日・三回忌にあたります。
江波(本名:野平佳純)さんは、1942年に東京都渋谷区で生まれました。
幼い頃に亡くなった母親が東宝所属の女優だったこともあってか、彼女は小学生の頃キャロル・リード監督作品の 『落ちた偶像』 を観て女優になろうと思ったそうな。
そして宝仙学園高等学校在学中に、歳を1つ上に偽って大映のニューフェースに応募。
母が女優だったことを隠しながら見事に合格し、憧れた女優の道へ。
母親の芸名・江波和子と室生犀星の新聞連載小説 『杏っ子』 から、芸名を江波杏子とした彼女は、1960年に 『明日から大人だ』 で銀幕デビュー。
しかし日本人離れしたエキゾチックな顔立ちが災いしてか、しばらくの間ヒロインを立てる悪助役ばかり。
そんな彼女に幸運が舞い込んだのは、1966年のこと。
本来主役だったはずの若尾文子さんが転倒して全治2週間のケガを負ったため、急遽代役として白羽の矢が彼女に立ち、出演作品58本目にして初の主役の座を獲得。
それが 『女の賭場』 ・・・後に17本も女賭博師シリーズとしてヒットした作品の第一作でした。
〝昇り竜のお銀〟の「入ります」という壺振り姿、カッコよかったですものねェ~。
新幹線の車中で、本物のヤクザに 「姐さん、今日賭場が開いてますゼ」 と声をかけられたこともあったそうですが、それも頷ける程の当たり役・・・でしたが、実は江波さん自身この役柄を嫌っていたそうな。
やはり女優としてイメージが固定化することを恐れていたのでしょうか。
その反動からか、オフには金髪・ミニスカートで街を闊歩してそうな。
まぁ、その気持ちも分からぬではありませんが・・・。
その後三島由紀夫さんと大胆なヌード写真を出版したり、フリーになってからの『津軽じょんがら節』(1973年公開)では元ホステス役を好演してキネマ旬報主演女優賞を獲得。
歌手にもチャレンジするなど、活動の幅を広げました。
TVドラマにも 『ザ・ガードマン』、『Gメン‘75』 や大河ドラマなどにも多数出演しましたから、彼女の姿をテレビでご覧になった記憶がある方も多いはず。
酒豪で一晩にブランデーを1本空けたこともあったそうですが、それよりも愛煙家として知られた江波さん・・・それが結果的に寿命を縮めてしまったようです。
60歳過ぎから患っていたという肺気腫をこじらせ、彼女が76歳でこの世を去ったのは2018(平成30)年10月27日。
その5日前まで元気に仕事をこなしていたという、突然の他界でした。
若かりし頃はショーケンこと萩原健一さんと浮名を流したそうですが、「自分寂しいと感じた時に、誰かいてくれたらいいな」という恋愛観を持つ彼女は、生涯独身でした。
あの世でショーケンと再会したら、彼女はどんな会話を交わすんでしょうネ?
日本はもちろん、海外でも常にホテル・ランキングのトップにその名が挙がる、リッツ・カールトン ホテル&リゾート。
今日はその創設者である
セザール・テオドール・リッツ
Cesar Theodul Ritz
の命日にあたります。
1850年、村長の息子 (13人兄弟の末っ子) としてスイスに生まれたセザールは15歳の時に親元を離れてホテルの見習いとなりますが、雇い主からは 「お前はホテルマンには向かない」 と言われたのだとか。
それにメゲることなく・・・というより奮起したのか、彼は万国博覧会が開かれていたパリに出てスイス館の給仕をするなど職を転々とした末に、一流レストランのウェイターに。
そこでの仕事ぶりが認められ、彼は20歳にして支配人に昇格。
ちょうどその頃、パリは普仏戦争による食糧難に喘いでいたのですが、彼は動物園からゾウを買い取ってその肉を人々に販売・・・多くの人の空腹を満たすことで、彼の名は一躍有名になったそうです。
その後スイス・フランスを行き来して様々な職を経験したリッツは、1877年以降支配人として何ヶ所かのホテルを転々。
それまでになかった各個室のバス・トイレ設置を行ったり、様々なイベントを企画するなどして売上を大きく伸ばしたリッツは、やがてホテル経営自体に意欲を見せ始めます。
37歳の時、ホテル・オーナーの姪・カンヌと結婚した彼は次々とホテル買収に乗り出し、1896年にはリッツ・シンジケートを創設、国際的ホテル経営に乗り出しました。
彼がハード・ソフト両面に独特の拘りをもって経営するリッツ・ホテルチェーンは、各国の富裕層・著名人・貴族らに高く評価され、超一流の折り紙がつけられるのですが・・・一方で世界各国を飛び回る激務は、やがて彼の肉体と精神を蝕むことに。
一任されていたエドワード7世の戴冠式が延期になったことで大きく落胆したリッツは、やがて幻覚を見るまで精神的に病んでしまい、61歳の時に経営から身を引いて療養所へ・・・以後そこを出ることのないまま、今から92年前の今日・1918年10月26日に68歳で他界しました。
リッツ・カールトンの従業員は、全員が顧客サービスに関する企業理念・モットーを書き記した〝クレド〟と呼ばれるカードを常時携帯し、復唱していることは有名ですょネ。
しかし同ホテルの顧客満足度の高さ・サービスの質に近づこうと、過去に同業他社が導入したものの定着しなかった・・・という話を聞いた事があります。
それはどうしてか? と考えてみるに・・・リッツ・カールトンには決して形式だけではなく、創業者セザール・リッツのガラス細工のように繊細な心配りや並外れたサービス精神が、DNAとして脈々と受け継がれているからこそ、と思えるのです。
以前経営していた葬儀社のスタッフをリッツ・カールトン東京に行かせてそのサービスぶりを見学させたのも、そのホスピタリティー精神に触れさせるためでした。
顧客サービスに100点満点はありませんが、少しでもそこに近づけるようにと・・・。
いつか、私自身もリッツ・カールトンに泊まって、そのサービスに触れてみたいものです。
もう少し宿泊費が安くなったら・・・。
〝君が代は 千代に八千代に さざれ石の
巌となりて 苔のむすまで〟
この
君が代
が1999年に制定された 『国旗及び国歌に関する法律』 によって日本の国歌となったことは、皆さんもご存じの事と思います。
オリンピックで日本人選手が金メダルを獲得し、表彰式でこの曲が厳かに流れるのを聴くたび、選手同様に感激する国民は多いはず。
『君が代』は、今から約1,100年前に編纂された日本最古の歌集・『古今和歌集』 に収められている詠み人知らずの和歌がルーツとされています。
ただしその和歌の冒頭は、〝君が代は〟ではなく〝我が君は〟ですが。
元来は年賀のための和歌でしたが、鎌倉時代以降冒頭が〝君が代は〟に変わると共に年賀に限らずおめでたい和歌として使われるようになり、様々な歌集に収められるようになりました。
一方国歌は他国との盛儀大典の際にお互いの国歌を演奏するため、近代西洋で誕生したもの。
その流れの中、明治維新を迎え西欧諸国との交流が始まった日本でも、国歌の制定が必要となりました。
そして1870(明治3)年にイギリス公使館護衛隊の軍楽隊長J・W・フェントンから国歌を制定すべきと進言。
John William Fenton (1831-1890)
これを受けた当時の薩摩藩歩兵隊長(で後に元帥となる)大山巌が、自らの愛唱歌だった薩摩琵琶の『蓬莱山』の歌詞から『君が代』を採用したといわれています。
※大山巌元帥に関する過去記事は、こちら。(↓)
最初はフェントン自身が作曲したものの、西洋音楽調だったため日本人には馴染めず、1876(明治9)年に海軍音楽長・中村祐庸が 『天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀』 を提出するも西南戦争が勃発し、国歌制定は一旦凍結。
それから4年後に宮内省・式部職の奥好義がつけた旋律を一等伶人・林廣守が曲に起こし、更にドイツ人音楽家F・エッケルトが和声を付けて完成。
この『君が代』が初めて演奏(試奏)されたのが、今からちょうど140年前の今日・1880(明治13)年10月25日のことでした。
そして翌月3日の天長節で初めて公に演奏され、1893(明治26)年に文部省が 『君が代』 を収めた 『祝日大祭日歌詞竝樂譜』 を官報に告示。
以降この曲は事実上国歌として用いられ、前述の通り1999年正式に国歌として制定されたのです。
各メディアの世論調査では、約7割の方が『君が代』を国歌として認めているようですが、残りの方はこの曲が軍国主義や天皇制護持を想起する等々の理由で反対しているとか。
君が代の歌詞そのものについては様々な解釈がなされていますが、それに関してここでご紹介することは差し控えます。
ただ他国の国歌はそれこそ軍国主義丸出しで血生臭く、とても子供たちに学校で歌わせたくないようなものが多々ある中にあって、『君が代』は非常に厳か且つ穏やかな曲であり日本の国歌として十分相応しい、と私は思っています。
※フランス国歌に関する過去記事は、こちら。(↓)
1903年にドイツで開催された〝世界国歌コンクール〟で(世界最短にも拘わらず) 『君が代』 が一等賞に輝いたことが、その証明と言えましょう。
1,100年以上前から先人たちの想いを積み重ねてきたこの曲を、次世代以降の子々孫々にも引き継いでもらいたいものです。
それでは、リブログ記事でご紹介した野々村綾乃さんとは別に、富永春奈さんの天女の如き素晴らしい歌声での『君が代』をお聴きください。
20世紀後半に米ソ間で熾烈な宇宙開発競争が繰り広げられる中、残念ながら人命を失う事故が双方に起きました。
アメリカ側では、1967年に起きたアポロ1号の火災事故。(↓)
一方のソ連では、その7年前・・・つまり今からちょうど60年前の今日、それを遥かに上回る被害を出した
ニェジェーリンの大惨事
が起きました。
事故現場は、現カザフスタン共和国・チュラタムにあるバイコヌール宇宙基地。
同基地はソ連がICBM(大陸間弾道弾)の発射場として1955年に建設し、以後ロケットの発射場として使用され、有人宇宙船の打ち上げを行った場所。
※ICBMに関する過去記事は、こちら。(↓)
ここで1960年10月24日、ミハイル・ヤンゲリが設計した全長30m以上・直径3mもあるICBMのR-16試作機が、発射直前に突然爆発・炎上。
液体燃料を満載したミサイルの2段目エンジンが作業員の誤操作により突然点火したのが原因でした。
ロケットの近くにいた作業員らは即座に焼死。
多少離れていた場所にいた人でも、保安フェンスがあったため逃げることが出来ず、猛火や有毒ガスに襲われ絶命。
※その猛烈な爆発・炎上の模様をこちらでご覧いただけます。(↓)
死者71名を数える大惨事となりましたが、その犠牲者の中に初代ソ連戦略ロケット軍総司令官で、R-16開発計画の責任者だったミトロファン・ニェジェーリン砲兵総元帥が含まれていたため、事故にその名が冠されました。
1902年生まれの彼は、1920年に赤軍入りし一兵卒からスタート。
1923年から砲兵部隊に配属されて以降トントン拍子に出世し、第二次世界大戦末期には南西戦線砲兵司令官として活躍、ソ連邦英雄称号が授与されました。
戦後も軍中枢部の要職を務め、1959年には砲兵総元帥に昇進し初代戦略ロケット軍総司令官としてICBM開発を指揮していました。
その彼を開発していたミサイルの爆発事故で失ったソ連の衝撃は、さぞ大きかったでしょう。
それが証拠に、フルシチョフはこの事故について即時箝口令を敷き、ニェジェーリンは飛行機事故による死亡と発表。
他の技術者らの遺族も、同じ原因で死んだと言うよう当局から指示されたそうな。
そしてゴルバチョフが行ったペレストロイカによって報道の自由化が実現した1989年4月に週刊誌『アガニョーク』がスクープ記事を掲載するまで、ソ連政府は30年近くこの事故を公式に認めませんでした。
果たしてニェジェーリン本人は、この情報隠蔽をあの世からどんな気持ちで眺めていたのやら・・・。