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廃 線

信州生まれの私にとって、かつて東京との行き来で避けて通れぬ場所・・・それは、


 碓 氷 峠


物心ついた頃、親に連れられて上京した時は、66.7/1,000という、当時の国鉄線で最も勾配のキツかった難所中の難所だったこの峠を、〝アプト式電気機関車〟で超えていました。


アプト式と言われても、若い方には何のことだか分からないかもしれませんネ。


下の写真の如く、線路中央にギザギザレールを1本敷き、電気機関車の動輪にもギアを装着して、これで滑落を防いで急勾配を登lり降りしたわけです。


       

実際に碓氷峠を走るアプト式電気機関車の動画を見つけましたので、ご覧ください。




私もこの列車に何回か乗った・・・はず。


軽井沢~横川間でこのアプト式電気機関車を使用するため、連結時間を利用して横川駅で売り子さんから必ず買ったのが、あの有名なおぎのやさんの〝峠の釜めし〟でした。


       


当時は確か長野~上野間が約8時間30分・・・今なら成田からホノルルまで楽勝で行ける時間を要した一大旅行であった東京行き。


子供心に遠くてあまり行きたくはなかった東京も、この釜めし食べたさにイヤイヤ列車に乗ったものでした。


そして、このアプト式走行が全廃されたのが、今から57年前の今日・1963(昭和38)年9月30日のこと。


その後、信越本線は完全電化。 


かつて窓を開けて買っていた釜めしは、特急あさまの窓が開かないため、電気機関車連結の僅か5,6分間でホームに飛び出して買わなければならなくなりました。


アプト式でガタゴト揺られていた頃から半世紀以上経った今、上信越自動車道の開通により、長野へは自家用車で3時間弱。


あの釜めしは、横川SAに寄って買い求める時代となりました。

そして今から23年前の今日・1997(平成9)年9月30日・・・北陸新幹線開通に伴い、軽井沢~横川間の信越本線が廃線に。

    

新幹線や高速道路で里帰りできるような時代が来るとは夢にも思わなかった子供の頃・・・。


今でも変わらぬ釜めしの味を楽しみながら、私は幼い頃に、「ひと~つ、ふたぁ~つ・・・」とトンネルの数(全部で26個)を数えながら乗っていた信越本線と、車窓から見えた碓氷峠の深い谷とかつてその上を走ったレンガ造りの眼鏡橋を、懐かしく思い出すのです。笑3


    

ちなみに、横川駅近くに 『碓氷峠鉄道文化むら』 という施設があり、アプト式を含めた鉄道の歴史などが展示されています。(↓)


>

 




軽井沢や信州に行かれる方は、是非お立ち寄りください。

もちろん、横川駅前の 『おぎのや』 さんで釜めしのお買い求めもお忘れなく!

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失 踪

◆効率の良い内燃機関で、発火点が約225℃の液体燃料であれば軽油・重油等の石油系以外の液体燃料でも駆動できる。
◆スロットルバルブがなく、燃料噴射量だけで出力を制御する。
◆2サイクルと4サイクルの2種類がある。
◆自動車はもちろん、小型から巨大船舶まで広く利用されている。

さて、上記特徴を有する内燃機関は、何? 

・・・って、もう多くの方はお分かりですょネ。 今日はそのディーゼル・エンジンを開発したエンジニア・発明家


 ルドルフ・クリスチアン・カール・ディーゼル

Rudolf Christian Karl Diesel


の命日にあたります。

       

ディーゼルは1858年、皮革製品の製造職人だったドイツ人で、フランスに移民した父の次男としてパリで生まれました。

1870年に普仏戦争が勃発したため、一家はフランスから退去を余儀なくされロンドンに移住しましたが、当時12歳だったルドルフだけはドイツ語での教育を受けるべくアウクスブルクで数学教師をしていた叔父の下に送られ、職業訓練学校に入学。

14歳の時に 「エンジニアになりたい」 と両親に手紙を送ったという彼は、1873年にトップの成績で訓練学校を卒業すると、奨学金を得てミュンヘン工科大学に進学。

在学中腸チフスを患いながらも首席で卒業すると、大学時代の恩師カール・フォン・リンデの助手として冷凍・製氷工場の設計・建設に携わり、1年後にはそこの工場長に。

1883年に結婚すると、1890年には妻子と共にベルリンに移住。

リンデの研究開発部門の責任者に就任すると、冷凍技術以外の分野でも研究を進めました。


そして熱効率と燃費の研究をする中で、彼はアンモニアの蒸気を利用した蒸気機関を開発したのですが、その試運転中に起きた爆発事故に巻き込まれて何ヶ月も入院する羽目に。

しかしそれにもメゲず・・・というより一層執念を燃やしたと言うべきか、彼は内燃機関の研究を進め、1893年に 『
既知の蒸気機関と内燃機関を置換する合理的熱機関の理論と構築』 という論文を発表。

これがディーゼル・エンジン開発の基礎となり、同年2月に特許を取得。

更にアメリカでも特許を取得し、安価な石油や重油で利用できるこの画期的な内燃機関は、アッと言う間に世界中に広がりました。

そして当初は〝オイル・エンジン〟と呼ばれていましたが、やがて彼の名を冠して〝ディーゼル・エンジン〟と呼ばれるように。


       

世界の産業発展に大きな貢献を果たしたエンジンを開発したディーゼルですが、その最期は突然やってきてしまいました。

今から107年前の1913年9月29日、会議出席のためロンドンに向かっていた彼は、乗っていた蒸気船ドレスデン号の船内から忽然と姿を消してしまったのです。

そして失踪から10日後、ノルウェーに近い北海でオランダ船が腐乱死体がを引き上げ、所持品からディーゼルであることが確認されました。


船室のベッドには使われた痕跡がなく、彼の帽子とオーバーが畳まれて甲板の手すりの下に置かれているのが発見され、状況からは自殺の可能性が。

しかし、そう簡単に断定できる状況ではなかったのです。

実は彼の死には国家的陰謀説が・・・。

第1次世界大戦間近のドイツがディーゼル・エンジンを潜水艦に利用すべく特許を国家に提供するよう迫ったのですが、ディーゼルはそれを拒否。

そればかりか、ドイツの敵国イギリスに協力しようとしていたのです。

そのイギリスへの渡航途上に失踪したのですから、ドイツが妨害しようと彼を暗殺したことは、十分考えられること。


ディーゼルの失踪直後、妻のマルタが夫から預かった鞄を開けてみると、中には20万マルクの現金と、預金口座がカラになっていることを示す書類が入っていたそうな。

妻に現金を残したのは、自殺を覚悟したからなのか? 
それとも暗殺を覚悟していたのか?

その答えは、ディーゼルにしか分かりません。
うー

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銀 河

今日は、銀河系の外にも銀河系があることなどを発見し、宇宙の謎解きに多大な貢献をした天文学者、


エドウィン・パウエル・ハッブル

 Edwin Powell Hubble


の命日にあたります。

       


ハッブルは1889年にミズーリ州に生まれました。

青年期の彼は天文学とは無縁・・・むしろスポーツで頭角を現します。

高校の陸上競技大会でなんと7種目で優勝、走高跳ではイリノイ州記録を更新したというのですから、かなりのもの。


シカゴ大学に進学し、やはりボクシングでならした物理学者ロバート・ミリカンに数学と天文学を学んだ後、英オックスフォード大に3年間留学し法学の修士号を取得した、まさに文武両道に秀でた青年でした。

帰国後法律事務所に勤務したり高校教員などをしていた彼は、第一次世界大戦が勃発すると軍に入隊し、少佐に。

終戦後シカゴ大学のヤーキス天文台で本格的な天文学の研究に入ります。

そして1919年にカーネギー研究所所属のウィルソン山天文台の創設者ジョージ・ヘールの引きで同天文台の職員となり、それ以降第二次世界大戦に従軍した時期を除き生涯を通じて同天文台で研究に没頭することに。

たまたま彼が職員となった年に、ウィルソン山天文台に当時世界最大・直径2.5mのフッカー望遠鏡が設置されたことが、ハップルにとっては幸運でした。


彼が1923~24年にかけて行った観測により、〝星雲〟と呼ばれたボンヤリとした天体の中に、地球のある銀河系の外に別の銀河が存在することを突き止め、論文で発表。


       

更にその銀河を組成や距離・形状・大きさ・光度などで分類する〝ハップル分類〟を考案。 これは現在でも使用されているとのこと。


また彼は赤方偏移(※光のスペクトルが長波長側にズレる現象)を発見したことでも知られ、2つの銀河間の距離が大きくなるほど、互いに離れる相対速度も距離に比例して大きくなる・・・という〝ハップルの法則〟を導き出しました。

・・・って、文系の私にはよく分かりませんが。

天文学にこれだけの貢献をしたなら、当然ノーベル賞を受賞してもおかしくないのですが、残念ながら推薦されただけに留まり、受賞することなく1953年9月28日、彼は心不全により63歳でこの世を去りました。

ところで天文学に興味のない方でも、彼の名をどこかで聞いた記憶があるのでは?

それは、1990年に打ち上げられ地上約600km上空の軌道上を周回する宇宙望遠鏡が、彼の功績を讃えて〝ハッブル〟と命名されているから。

長さ13.1m、重さ11トンの筒型反射望遠鏡は、これからもハップルの名に恥じることなく多くの宇宙の謎を解き明かしてくれることでしょう。


       


余談ですが、実は彼の遺体・・・葬儀後どこに埋葬されたか公開されていないそうな。


これは彼自身の「墓標のない墓に埋葬するように」という遺言を奥さんが忠実に守ったからだそうですが・・・もしかしたら、彼の遺骨はハップル望遠鏡に納められ一緒に宇宙を飛んでいるのかも?
あせあせ


 


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捏 造

KY珊瑚礁事件、慰安婦問題、福島第一原発事故における虚偽報道等々、朝日新聞の捏造・誤報は枚挙にいとまがありません。

その事実が露見するたびに同社は謝罪会見を開いては殊勝に反省の弁を述べますが、その体質が改まったと思っている国民は、一体どれ程いるのでしょう?

少なくとも私は、朝日新聞および同グループの捏造体質は企業DNAとして古くから脈々と受け継がれていると確信しています。

その一例といえる悪質なでっち上げ記事が同紙に掲載されたのが、今からちょうど70年前の今日・1950(昭和25)年9月27日のことでした。 俗に

 
伊藤律 会見捏造事件

と言われているものです。


伊藤 律(1913-1989)とは、共産党の中心人物として活動していた政治家ですが、この記事が出る直前の1950年6月にGHQから出された公職追放令と翌月に出された団体等規正令に基づく出頭命令を拒否したことで逮捕状が出され、地下に潜伏中でした。

その彼に朝日新聞・神戸支局の記者が宝塚市の山林で数分間面談・会見に成功したとして、その模様を一問一答形式の記事を掲載したのです。

       

当然この記事には彼の行方を追っていた捜査当局も重大な関心を寄せ記者から事情を聴取したところ、記者が伊藤律と面会していたと供述した日時に旅館に滞在していたことが判明。

矛盾を追及された記者は、あっさりと記事のでっち上げを自白。
朝日新聞は3日後の社告で謝罪する羽目になったのです。

記者は退社し、その後占有目的疎外行為処罰令違反で逮捕・起訴され、執行猶予付きの有罪判決が確定。

同紙神戸支局長は依願退社、大阪本社編集局長は解任されました。


記者はたまたま伊藤律の第一高等学校在学時の同級生の後輩で、伊藤が地元で講演した際に彼の姿を見て人相や仕草などを知っていたとのこと。

特ダネをモノにしたい・・・という功名心で架空記事を書いたようですが、全くバカなことをしたものです。

同紙の縮刷版では、この記事はすっぽり抜けており、事実無根と書かれていますが、ここでも表題は 『お断り』 だけで謝罪の言葉はありません。


       

ちなみにこの記事を東京の潜伏先で読んだ伊藤本人は、

「なかなか迫真的なこの大記事を夕刊で見て、思わず噴き出した」

そうですが、その気持ちや驚きは想像に難くありません。

実際にインタビューしても、その内容を平気で変えてしまう記者はいくらでもいますが、してもいない会見を記事にするとは呆れるばかり。

反省したはずの朝日新聞が、その後も捏造記事や誤報を乱発してきているのは、ご存知の通り。


同社は真実を報道するのではなく、自虐史観・左翼思想を国民に刷り込もうという明確な意図を持って捏造記事を垂れ流していると言えましょう。

この反日左翼プロパガンダ広報紙が存続する限り、同様の捏造事件・事例は今後も起き続けることは確実・・・だと、私は思います。うー


       


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外 見

「人は、見かけが9割。」

なんで言葉がありますが、実際殆どの方は第一印象で人の値踏みをするところがあります。

それは日常生活だけでなく、政治の世界でも同じ。

立候補者のポスターを見て、政策など関係なく美形・美人に投票する有権者は少なくないでしょう。

これは何も日本だけでなく、世界共通のはず。

その外見・印象でアメリカ大統領選挙の結果をも左右するのは今や常識であり、候補者やその陣営は良いイメージづくりに躍起となりますが、そのキッカケとなる歴史的な


 テレビ討論会

が初めて行われたのは、今からちょうど60年前の今日・1960年9月26日(現地時間)のことでした。


出演したのは、民主党・ケネディ候補と共和党・ニクソン候補。


   


それまでの世論調査では、8年間副大統領を務め豊富な経験と演説も巧みなニクソン候補が、若く政治経験も少ないケネディ候補を僅かながらリード。


しかし、当時アメリカで普及していたテレビを使った討論会中継が、流れを一変することに。

それまでリードを許していたケネディ陣営は、この討論会に際し徹底的にイメージ戦略を練りました。

白黒テレビでの中継を考慮し、背景の薄いグレーから浮き立ち力強さを印象づけるよう紺色を選択。

また体型にフィットする細身のスーツで、若さと精悍さをアピール。

これに対してニクソン陣営は、外見よりも演説の中身を重視。


薄いグレーのスーツは背景とかぶり印象も薄くなり、かつブカブカのサイズで視聴者に好印象を与えられませんでした。

またケネディはテレビ用のメイクアップを施し、笑顔が多く表情も豊かで背筋もビシッ。

対するニクソンはメイクアップを拒否したため顔色が悪く無精ひげが目立ち、かつ笑顔が少なく怒っているような感じで、姿勢も猫背でくたびれた感じ。


いかにニクソンのテレビ映りが良くなかったか・・・それはテレビを観たニクソンの母が、討論の直後に息子が病気ではないかと心配して電話した、というエピソードが証明しています。

それでは論より証拠、そのテレビ討論の模様をご覧ください。

(※日本語訳はついていません。)



この討論会をラジオで聞いていた人々は軍配をニクソンに上げましたが、それは全体から見ればごく少数派。


逆に約8,000万人のテレビ視聴者はケネディに好印象を持ち、実際彼が大統領になりました。

その後このテレビ討論は3回行われ、ニクソンはメイクをして出演しましたが、時既に遅し。
視聴率は初回に比べ格段に下落し、イメージ回復とはなりませんでしたから。

いかに第一印象が大事か、ということですネ。

この逆転劇が起きて以降、現在に至るまで選挙におけるイメージ戦略は各陣営にとって最重要課題となっているのです。

でも、本当はそれじゃダメなんですけどネ。

やはり有権者が見た目に騙されず、政治家の力量を冷静に見定められないと・・・。


 


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レジェンド

今日は、ゴルフという競技をメジャー・スポーツに育て上げたスーパー・スター、


アーノルド・ダニエル・パーマー
Arnold Daniel Palmer


の命日にあたります。


       


パーマーは世界恐慌が起きた1929年にペンシルバニア州レイトローブで5人兄弟の長男として生まれました。

父親がクラププロ兼グリーンキーパーだったことから早くも7歳でクラブを握った彼は、ウェイクフォレスト大学中退後24歳の時に全米アマでデビューし、優勝後間もなくプロ入りを表明。


ルーキーイヤーに賞金ランク32位に入った彼は、1958年にマスターズで優勝を飾ると、1960年には全米オープンを制覇。


最終日の1番ホール・パー4でワンオンに成功し、7打差をひっくり返しての大逆転優勝は、今でも語り草になっています。

そして翌年には全英オーブンに優勝しましたが、それまであまり目立たなかった全英オーブンが4大メジャーの一角を占めるようになったのは、このパーマーの優勝で注目されたからだそうな。


事ほど左様に、ボールを刻まず常にピンを果敢に攻める彼のゴルフ・スタイルは〝パーマー・チャージ〟と言われてファンを魅了し、熱烈な彼の応援団〝アーニーズ・アーミー〟が誕生。


テレビ時代の幕開けと相まって、独特で力強いハイ・フィニッシュがトレード・マークとなった彼の人気は急上昇し、それと共にゴルフ人気もアップしました。


        

その人気にあやかってか、1970年代に入って〝アーノルドパーマー〟という日本初のトータルファミリーブランドが登場。

1980年代に入って終生のライバルとなるジャック・ニクラウスとの好勝負を繰り返しましたが、ちょうど私が社会人になってゴルフを始めた1981年以降、半数以上のゴルファーがパーマーの傘マークか、ニクラウスのゴールデン・ベアが刺繍されたウェアを着ていたはず。

    


PGAツアー通算62勝は、歴代5位。
内メジャーではマスターズ4勝、全英2勝、全米1勝。

シニアツアーでもシニア・プレーヤーズ選手権で2勝、全米シニア・オープン1勝、全米シニアプロ1勝をマーク。

マスターズには74歳になるまで50回連続出場を果たしました。

    


現役引退後は、そのマスターズのオナラブル・スターターとして嘗てのビッグ3、ニクラウスとプレーヤーと共に登場。

また自らの名を冠したトーナメント、アーノルド・パーマー招待の会場にやってきて、続々とホールアウトする選手たちに声援を送っていましたが、今から4年前の今日・2016年9月25日・・・心臓疾患の合併症により87歳でこの世を去りました。


パーマーについての逸話は沢山ありますが、個人的に記憶に残っているのは、日本でのエピソード。

ある企業の招待で来日した彼は、長旅の疲れからか重い下痢に罹ってしまったとか。

それでも翌日のプライベート・ラウンドはキャンセルせず、昼食では下痢だと知らぬ同伴者が勧める分厚いステーキをにこやかに平らげ、5アンダーで回ったというのです。

並の選手なら身体を気遣ってラウンドしないでしょうが、さすが超一流のプロゴルファーはスポンサーやファンを最優先。

日本のアスリートにも、是非見習って欲しいプロ根性ですョネ。


ゴルフ・ファンの一人として、あらためてレジェンドのご冥福をお祈り致します。

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発 券

私が子供の頃・・・JRではなく国鉄だった時代に切符を買う時は、ガラス越しに駅員さんに行き先を告げると、出っ歯のようにたくさん並んでいる中からボール紙のような厚い切符を抜き取って渡してくれたもの。


それを改札のオジサンが 「カチャ、カチャ」 とリズムよく鳴らす切符切りで切れ目を入れてくれて・・・今ではまず見ない懐かしい光景でした。


そんな長閑な光景が一歩近代化に進んだキッカケといえば、今からちょうど55年前の今日スタートした


 みどりの窓口


ではないでしょうか。


それまで指定券や寝台券などの発券は、台帳管理という手作業。


各窓口から台帳を管理する駅や乗車券センターに逐一電話で確認していたため、発券に1時間以上かかるのは当たり前。


しかも予約ミスやダブルブッキングが時々発生していたといいます。


新幹線が開通したこともあり、国鉄はその翌1965(昭和40)年に日立製作所と共同開発した革新的な技術・・・〝マルス〟(MARS: Multi Access seat Reservation System)と呼ばれるオンライン方式の導入を決定。


10月1日のダイヤ改正に合わせる形でその1週間前・9月24日にみどりの窓口が主要152駅と日本交通公社の83営業所で開設されたのです。


ちなみに〝みどり〟と命名されたのは、当時窓口から発券された切符が薄い緑色だったからだそうな。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


私が小学生の頃、地元・長野駅にもみどりの窓口がありました。


普通乗車券を買う場所とは明らかに違う雰囲気があり、子供心に 「一度あそこで切符買ってみたいなァ!」 と憧れを持ったものです。


そして中学生の頃、念願かなって初めてそのエリアに足を踏み入れ特急券を買った時・・・係員のオジサンが何やらボタンを操作するとパッパッと切符が機械から飛び出したのを見て感動したことを憶えています。驚き顔 ハ、ハヤイッ!


やがて当たり前のように利用するようになったみどりの窓口ですが、21世紀に入ってからは全国各地で閉鎖されたり営業時間が短縮されているのだとか。

    

           東京駅・八重洲口にあるみどりの窓口


原因は人件費削減と、団塊世代の大量退職による人手不足。


その代わりに指定席の自動発券機などが設置されているそうですが、機械に弱い高齢者には使いづらいはず。


これから高齢化に拍車がかかる中、銀行のCDコーナーのように操作を説明する係員を置くべきかもしれませんネ。

・・・って、人員整理している中で、それは無理か?


ネット予約等どんどん便利になる反面、子供の頃のように駅員さんから 「ハイッ」 って切符を手渡しされた時代が懐かしい、アナログ世代の私です。笑2

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割烹着

私のような昭和世代の方なら、彼女が出演するドラマをご覧になった記憶があるはず。

今日は、お茶の間で〝日本のお母さん〟と言われ愛された女優、


 京塚 昌子 さん


の命日・二十七回忌にあたります。

       


1930(昭和5)年、東京に生まれ京塚(本名・平塚マサ子)さんは、高校卒業後 『劇団新派』に入団。 


東芝日曜劇場 『カミさんと私』 に出演し、人気を博します。


そして何といっても彼女のイメージが確立したのは、1968年から72年にかけてTBSで放送されたドラマ 『肝っ玉かあさん』 でしょう。


平均視聴率で30%以上を叩き出したというオバケ番組でしたが、我が家でも毎週のように家族揃って観ていた記憶があります。


ストーリーは全く憶えていませんが、ありふれた日常をドラマ化したという感じだったでしょうか。

ブラウン管の向こうで演じられている家族の姿
が、


「あぁ、ウチと同じだ!」


というような、ある種の共感・安心感を視聴者に与えたことが、お茶の間の高い支持を得たのかもしれません。笑2


「割烹着姿が最も良く似合う」 と言われた京塚さんは、まさに日本のお母さんのイメージそのもの。


ポッチャリした体型に安心感が漂ってました。


しかし、元々京塚さんは痩せ型だったそうで、20代の頃受けた盲腸の手術で体質が変わってから、急に太り始めたとか。


ご本人はそれを大変気にしていたそうで、あるドラマで共演した当時子役だった杉田かおるさんがお腹の肉をつまんだことに大激怒。

結局杉田さんが降板させられた、なんてこともあったそうな。ダメだぁ顔


どんなに売れっ子になっても、いくつになっても変わらないのは乙女心?


その後も 『ありがとう』 などの人気ドラマやCMに数多く出演。

       

しかし糖尿病を患ってからはテレビ出演から遠ざかり、1994(平成6)年9月23日・・・心不全により64歳で天に召されました。


台所に立って肉じゃがを作っている肝っ玉母さんをイメージしながら、京塚さんのご冥福をお祈り致します。笑3

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【特別増刊】 逆 襲

かつて損保会社の新潟支店に勤務した際、この騒動が起きた場所は担当エリア内でした。

それは、今から74年前の今日、現在の村上市で起きた


 坂町事件

戦時中労働力不足を補うため、日本国内に移入してきた支那・韓国人らは、戦後の混乱・取り締まりの不備に乗じてその態度を一変させ、元々住みついていた同胞らと手を組んで闇米の流通・販売や酒の密売を行うように。

当時新潟県下越(新潟市以北)では在日本朝鮮人連盟が新発田市に事務所を置き、羽越本線・坂町・平木田の両駅を基地として闇米を1日あたり50俵、関西地方に出荷していました。

公然と経済統制違反を繰り返す彼らを取り締まるべく、1946(昭和21)年9月22日午前1時頃、村上警察署は加藤巡査部長以下署員7名を取り締まりのため坂町駅に派遣。


  

現場に居合わせた約50名の支那・朝鮮人は警官の姿を見て一旦姿を隠しましたが、彼らがホームに置かれた闇米を押収しようとすると、一転して 「殴れ!」 と叫び声を上げながら襲いかかり、ちょうど到着した列車から更に約20名の朝鮮人が下車して加勢。

警察官に暴行を加えた挙句、発車した列車に飛び乗って逃走。


しかし加藤巡査部長は殴られながらも逃げ遅れた朝鮮人2名を逮捕し、署に連行しました。


更に同日午後、駅近くの駐在所からまたしても闇米運搬の情報が寄せられたため、河津警部補以下10名の警察官が坂町駅近くの旅館に向かい、闇米3俵(180kg)を所持していた支那人男女を見つけ、金屋村の闇米ブローカーの元に。

ところが、そこでまたしても支那・朝鮮人約50名に襲われ、更に警官を助けようとした金屋村の自警団も逆に鳶口や木刀を奪われて逆襲される始末。

その後進駐軍の係官が現地に赴き、支那・朝鮮人に対し法を順守するよう申し渡しを行い、ようやく警察は支那人11名・朝鮮人1名を逮捕。

しかし村上署から新潟署に身柄を移された彼らは軍政部員の取り調べ後、県外追放と再び新潟県内で闇米を取り扱わない旨の誓約をしただけで釈放されたといいます。


       

            事件を伝える当時の新聞記事

何とも腰の引けた対応ですが、これで支那・朝鮮人にナメられたのか、事件はこれで終わりませんでした。

翌23日の夕刊で、『MPも出動、坂町で深夜の乱闘』 と題して事件を伝えた新潟日報社と読売深読売新聞に対し3日後の9月26日、「報道に誤りがあることを認め、ラジオを通じて新潟県民に誤報だったという声明を出せ」 と朝鮮人16名が要求。

(情けないことに)読売新聞はこれに応じたものの、新潟日報は29日に拒否。

これに同社を訪れた朝鮮人16名が怒り、茶碗を投げつけ社内を破壊。 9名が逮捕・起訴され、有罪になったのです。

    

              破壊された新潟日報社内

彼ら在日支那・朝鮮人は、終戦前後から集団を組んで暴行・犯罪事件を繰り返してきました。

日本人には考えられない警察官・警察署襲撃を平気で行うことからも、いかに凶暴であるかが分かります。


彼らが起こした重大事件は、坂町事件だけでなく相当数に上ります。

特に在日朝鮮人の起こした事件だけでも、こんなに・・・。(


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%83%BB%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E5%B9%B4%E8%A1%A8


また現在でも、日本国内で起きている在日外国人の犯罪件数は、1位・朝鮮人 2位・支那人。


                            (※グラフ数字は平成27年)

あまりそういう印象がないとすれば、それは朝日・毎日グループなど多くのマスメディアが〝通名報道〟しているから。

政府は労働力不足解消のために移民受け入れを考えているようですが、もしそうすれば同様の凶悪事件が増加することは間違いない・・・と私は確信しています。うー


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撃墜王

男性なら一度はやってみたいと思うであろう、飛行機の操縦。


ジャンボジェット機の操縦も面白そうですが、私はプルーインパルスの如く戦闘機を思いのままに操ってみたい・・・と、今でも憧れます。

その戦闘機乗りとして、かつて世界中に名を馳せたのが


 坂井 三郎 海軍中尉


今日は、大東亜戦争時代に〝撃墜王〟といわれたこの名パイロットの命日・没後20周年にあたります。


       


坂井中尉は1916(大正5)年の佐賀県生まれ。


1937年に霞ケ浦航空隊に入隊すると、同年11月に第38期操縦練習生を首席で卒業し海軍戦闘機搭乗員となり、以後中国大陸やラバウル基地を中心として活躍。


延べ200回以上の出撃で〝空の要塞〟といわれたB-17を始め大小64機を撃墜。


一方で空中戦(dogfight ) の最中、敵の銃弾を頭部に受け瀕死の重傷を負い朦朧とした意識の中で基地に戻り九死に一生を得たこともあったとか。

その坂井中尉が、終戦後に当時の戦闘経験などを綴った著書・ 『大空のサムライ』 は世界的ベストセラーに。


アメリカ空軍が飛行練習生の教材に採用したり、イラク空軍は同書のアラビア語翻訳版をパイロットの必携書にしたとか。(


      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


田舎では勉強せずとも秀才で通っていた坂井少年が東京の学校に転校するとレベルの違いから一転劣等生になり、挫折して故郷に逃げ帰ったこと。


初めて教官の操縦する飛行機に同乗した時の興奮や、初飛行でいきなり敵機と遭遇した時の緊張感。

掃射して殺した敵軍の遺体を、数日後自ら発見し埋葬した時に感じた戦争の虚しさ等々が率直に語られています。


激しい空中戦の描写を読んでいる時、私の頭の中には映画 『トップ・ガン』 の戦闘シーンが蘇りました。


一方華々しく敵機を撃墜し続けても、一度でも負ければ墜落死というサドンデスの日々、そして撃墜されれば遺骨さえ故国に帰れぬという戦闘機パイロットの厳しさとストレスがひしひしと伝わってきます。


決して好戦的ではなかったという坂井中尉が書き綴るこの本は読みやすく、海外でベストセラーになったのも頷けます。


もし子供の頃にこの本を読んでいたら、私は本格的にパイロットを目指したかもしれません。


受験生や若い世代には是非ご一読をお勧めしたい1冊・・・いや、2冊です。


また、皮肉にもアメリカ陸軍士官と結婚した坂井さんのお嬢さん・坂井スマート道子さんが出版された 『父、坂井三郎』 は、娘から見た撃墜王・・・いや、父親像を浮き彫りにしています。


       


広島に原爆を落下した爆撃機や、自分の頭部に銃弾を撃ち込んだ急降下爆撃機の後部射手との面談などの様子が坂井さんの通訳として同行した彼女の回想として書かれており、同書を合わせ読むことで 『大空のサムライ』 の中身に一層の深みを感じられると思います。


また軍人であった坂井さんが、その体験を躾にどう反映していたのか・・・これは非常に参考になりました。


さて、終戦後は印刷会社を経営する傍ら何冊かの本を執筆したり、『朝まで生テレビ』 などの番組に出演、戦争体験などを語った坂井さん。


下の写真は74歳の時のものだそうですが、シャキッとした姿勢と鋭い目つきは、いかにも元軍人らしい凛とした雰囲気を漂わせます。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


2000年9月22日に厚木基地で開催されたアメリカ海軍の記念式典に来賓として出席した直後に体調不良を訴え、同日夜に84歳で急逝されるまで、日本の行く末を案じていらっしゃいました。


以前 『WILL』 別冊に掲載された坂井さんのインタビュー記事を、以下にご紹介致します。


           ◆     ◆     ◆     ◆


日本人は一億総寄生虫ですよ。 


アメリカにずっと寄生してきたから、ごらんなさい、このざまです。


アメリカに見捨てられたら、もう日本は滅亡ですよ。 


50年も寄生していたら確実に人間は変わります。


コロコロ変わるから〝心〟というんです。


戦争直後に夫を戦地で亡くして家を焼かれ、子供たちを抱えてどうしようもなくなって乞食をして暮らしていたおふくろさんがいた。


それを憐れんだパン屋さんが売れ残りのパンをあげたんです。

おふくろさんは 「ありがとうございます。ありがとうございます。」 と随喜の涙を流して喜んだ。


それで次の日も、その次の日もパンを与えたんですが・・・たまたま遠くに出かける用事ができて、しばらく行かなかった。

そうして何日かして顔を見せたら、おふくろさんは


「昨日もおとといも、何で来なかったんだ」 と言ってパン屋さんをなじったそうです。


最初は涙を流して喜んだそのおふくろさんがですよ。

いったん寄生してしまうと人間はそれほど変わる。

日本は何もせず経済発展に邁進した結果、アメリカの寄生虫になってしまった。 その寄生虫がてんでに勝手なことを言っている。


高校や大学でそういうことを教えないと、日本は危ういと思います。


           ◆     ◆     ◆     ◆

アメリカに依存するだけでなく、働けるのに生活保護を不正受給したり、財力があるのに給食費を払わない社会依存型人間が増殖している現在日本に対する、命懸けで祖国を守るため戦った元軍人の警鐘は一聴に値すると私は思います。


70歳を過ぎて、訪問したアメリカでセスナ機を操縦して見事な宙返りをして記者たちを唖然とさせたり、晩年は 「戦闘機のように見晴らしがいい」 とオープンカー・タイプのユールス・ロードスターを愛車にしていた、〝撃墜王〟のご冥福を、あらためてお祈り致します。笑3


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