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発 散

どこのご家庭でもそうだと思いますが、ストレスが溜まると相方についつい愚痴をこぼしたくなるもの。

我が家もお互いに不平不満を口にし、そういう時は「ふぅ~ん」「そりゃ大変。」なんて適当(?)に相槌を打って聞き役に徹します。

もっとも、聞き役に回るのは圧倒的に私なんですが・・・。


でもこの聞き役ってのは、結構疲れるんです。

何せ相手の仕事内容や人間関係が分からないので、いろいろ言われてもよく分からない。

よく分からない話を延々と聞くのは苦痛ですから。

で、以前女王様に提案したことがあるんです。

「そんなにストレス溜まってるんなら、サンドバッグでも叩いたら?
愚痴こぼしてばかりいるより、身体動かしてスカッとした方がいいゾ。
元々人間には破壊願望があるから。」

そしたら、

「そこまでしなくて大丈夫ョ。
アンタが愚痴を聞いてくれれば、それだけで十分。」


ですって。 


う~ん、私としては喜んでいいやら悲しんでいいやら、複雑な心境。

ところが数日前、そんな彼女が突然私にこう言ったんです。

「アンタ、やっぱりサンドバッグ買って!」

武漢肺炎の煽りで彼女の職場もテレワーク・・・どうもコレが相当ストレスが溜まるようで。

ご命令により、早速ネットで検索。

ボクシング・ジムにあるような(鉄パイプを組んで上から)吊るすタイプだと重くてフローリングが傷つきやすいし、
本格的なボクシング・トレーニングではなく女王様が叩くくらいなら、これで十分・・・ってことで、購入したのは吸盤で固定するスタンディング・タイプ。

発注して2日後、我が家に届きました。(↓)

        


※注:本体と足場は自分で組み立てるんですが、この作業は女性1人だとキビシイかも。

設置が出来るなり、「やった~!」 とすぐパンチを出そうとするもんですから、

「おいおい、素手で殴ったら手を痛めるゾ。 これハメて。」

と、別売りで入手したグラブを手に付けてやりました。

       

「やだ、カワイイ~!」

何がどうカワイイのか私には全く理解できませんが、それはともかく彼女はまたすぐにパンチを出そうとするので、

「打つ時は、ちゃんと手首がまっすぐになるように気を付けろョ。
手首が曲がったままで殴ると、グローブつけてても痛めるからナ。」

と言い終わらない内に、サンドバックを殴り始める彼女。

しかし、そのパンチの出し方にセンスがないこと。
どう見ても、猫パンチ以下。

「そんなヘッピリ腰でパフパフ打ったってストレス発散しないだろ。」

「うんにゃ、これで十分。 あら、コレ足で蹴ってもいいのネ。」

と、サンドバッグに描かれたイラストを見て言うが早いか、回し蹴りまで繰り出す始末。

この日も相当ストレスたまってたことが、よぅく分かりました。

ひとしきり殴ったり蹴ったりしましたが、サンドバッグはビクともせず。

「あ~、スッキリしたワ。 ありがとう。 さ、風呂に入ろっと。」

えっ、ありがとうって・・・まさか、オレが代金払うの?

ま、2人で飲み屋に行く数回分の価格だから、コレで愚痴の聞き役から解放されるなら安いか。

と言いつつ女王様がテレワークしている間に、私もトレーニングを兼ねてバンバン殴って主夫の鬱憤を晴らしてますが。

ストレスが溜まっている、そこの貴方・・・おひとつ如何?


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観 測

現在の天気予報は、人工衛星から送られてくる画像や〝AMeDAS〟などの情報でかなり精度が上がっていますが、その昔は富士山気象観測所からの情報が命綱だった時代がありました。


富士山頂にレーダーが設置されたのは1964(昭和39)年。


この時の苦闘はNHK・『プロジェクトX』 の第1回放送でも取り上げられ、ご存知の方も多いと思います。


しかし富士山に気象観測所が初めて作られたのは、これよりも遥か以前だったことを知る人は少ないでしょう。


富士山頂に初めて観測所が落成したのは、今からちょうど125年も前・・・1895(明治28)年の今日・8月30日のことでした。


しかもこの観測所は


  の な か   いたる

 野 中 到  さん (1867-1955)


という福岡県生まれの気象学者が富士山頂・剣ヶ峰に私財を投じて作った、木造で広さ6坪しかない〝野中観測所〟だったのです。


       野中観測所

                  
野中観測所               


越冬観測を実現すべく、野中さんは同年10月1日から観測を始め、その約半月後に千代子夫人も山頂へ。


零下20℃にも達する富士山頂で、薪と炭のストーブだけで暖を取りながら昼夜問わず2時間毎に観測を続けるという過酷な毎日に、2人の身体はやがて悲鳴を上げ始め・・・極寒と栄養失調により病に倒れた野中夫妻は、12月22日に下山を余儀なくされます。

しかし民間人だった野中夫妻の挑戦は、当時の人々を大いに感動させたとか。


        野中夫妻

                   野中夫妻


その後1930年に中央気象台の職員により越冬観測がなされ、以降


 1936年 富士山気象観測所 設置

 1964年 富士山レーダー 設置

 1999年 人工衛星観測に切り替えのため、レーダー撤去

 2004年 気象観測所 無人化


と、科学の進歩と共に富士山気象観測所はその役割と性能を変えてきました。


私の手元には、野中夫妻が残された、富士案内 芙蓉日記』 と、元・気象庁職員で富士山観測所勤務経験もあり、実際に野中到氏と会ったことがあるという新田次郎さんが上梓した 『芙蓉の人』 という本があります。


    


「天気予報が当たらないのは、高層気象観測所がないからなのだ。

天気は高い空から変わってくるだろう。

その高い空の気象がわからないで天気予報が出せるわけがない。

富士山は3,776mある。 

その頂に気象観測所を設置して、そこで一年中,気象観測を続ければ、天気予報は必ず当たるようになる。」


こう 『芙蓉の人』 の一節にある如く、1世紀以上も前に厳寒の地での気象観測に自らの生命と財産を賭けた方がいたこと、また愛娘の死に際にも立ち会えぬまま夫を支え続けた千代子夫人の、これまた命懸けの献身ぶりを知った時、私は先人の労苦に敬意を抱くと同時に、


「あ~あ、石原良純の天気予報は当たらねぇなァ!」


などという軽口は、とても叩けなくなりました。


明治人の気骨ある生き様に触れたい方には、 この2冊を是非お読みいただきたいと思います。

それにしても・・・明治女性の強さには、ただただ脱帽するばかり。


あっ、いや、現代の女性も十分強いですけどネ。あせあせ


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単 純

電化製品って、ひとつ壊れると連鎖するように続けて壊れるってよく言われますょネ。

私もそういう経験がありますが・・・逆に、皆さんのご家庭で最も長持ちしている家電は何でしょうか?

我が家で最も長生き(?)しているのは、コレ。

    

そう、扇風機なんです。

これを私が買ったのは、なんと大学に入学した18歳の時。
つまりもう40年以上のお付き合い・・・女房よりずっと長いんです。あせあせ


冷房がなかった下宿先や会社の独身寮では毎日フル回転。

その後も転勤先に持ち歩き、結婚後は夏だけでなく冬の暖気拡散にも活躍してくれました。

その間、年に1,2回掃除するくらいで潤滑油も差したこともないのに、今でも全く変わらず風を送り続けてくれる働き者。

なぜこんなに長持ちなのか?

その理由は、やはり構造が単純だからでしょうネ。


画像でお分かりの通り、この扇風機にはタイマーはなく、ボタンも〝切・弱・中・強〟の4つだけ。

首振りはついているものの、首の伸縮はできません。

まさにシンプル イズ ベスト。

パソコンや液晶テレビなら、とてもこんなに長持ちしないでしょう。

もっとも、それらは品質が日進月歩で次々新製品が出てきますが。

人間も、いろいろ悩まない単純な方が長生きできるかも。

おそらくこの扇風機は、私が死ぬまで壊れないでしょうネ。

ちなみにメーカーは、東芝。

製造元の方が先に壊れたりして・・・。うー

皆さんのお宅で、一番長寿な家電製品は何ですか?


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救 命

今からちょうど30年前の今日、1人のロシア人が日本にやってきました。 

それは3歳の男児で、名前は


 コンスタンチン 君

この名を聞いただけで、何があったかを思い出した中高年世代の方は多いはず。

1990年8月20日、サハリンに住むコンスタンチン君が室内で遊んでいる最中、母親が断水のため伝熱棒を使ってバケツで沸かしていた熱湯に誤ってお尻から落下。


       

看護婦だった母親は驚いて我が子を病院に搬送したものの、全身の90%に大火傷を負っており、医師から「この病院では手の施しようがない」と告げられてしまいます。

他の病院に行っても同じことを言われましたが、他人の皮膚を移植する治療法があることを知らされます。

しかし当時サハリンの医療技術は日本に比べて30年程遅れており、その施術は出来ず・・・この絶望的な状況下で、コンスタンテイン君はいくつかの幸運に恵まれます。


まず事故から6日後の26日、友人から「日本は医療が発達しているから、日本に行けば?」と進言し、たまたま近所に来ていた日本人を紹介。

その日本人が翌朝北海道庁国際交流課の係長に

「サハリンに大火傷を負って、余命70時間しかない子供がいる。」

と救命を依頼。

電話を受けた係長が、たまたま以前札幌医科大学付属病院に出向していた経験があったことで話が通り、すぐに外務省ソ連課に連絡。

しかし当時の日ソ関係は、7年前にサハリン付近の上空で起きた 『大韓航空機撃墜事件』 以降、冷え切っていました。

 
※同事件に関する過去記事は、こちら。(↓)



それでも人命救助を優先すべく、依頼を受けた札幌医大病院の医師や通訳等救助チーム総勢13名が結成され、8月28日午前4時前に海上保安庁千歳航空基地所属のYS-11『おじろ』が千歳航空基地を離陸。

国交がなく先方の空港情報がない・・・はずでしたが、これまた偶然日本航空がユジノサハリンスク空港のアプローチチャートを所有していたことで、着陸ができました。


    


当時は国境付近を飛行すればすぐソ連のミグ戦闘機がスクランブル発進してくる状況下での飛行だったそうな。

着陸後コンスタンチン君が火傷を負って既に1週間経過していて助かる可能性が低かったことを知った医師団は、それでも彼とその父親を乗せて日本にUターン。


機内で応急処置を施されたコンスタンチン君は同日午前9時前に丘珠空港に到着後すぐに道警のへりで札幌医大に搬送されました。

その2日後移植用の皮膚が東京から到着し、移植手術。


不足した部分には人工皮膚も使用され、コンスタンチン君は火傷から10日目に意識を回復。

翌9月8日には、母親が特別上陸手続きで来日。

その後1週間ごとに手術を繰り返し、10月下旬には一般病棟に移るまでに回復すると23日に退院し、その翌日帰国の途に。

この一連の〝国境を越えた救命劇〟については、NHKのドキュメンタリー 『ブロジェクトX』 で2001年に放映されました。(↓)


       


母親は、「息子には、日本と関われる仕事について欲しいです。 息子にとって第2の祖国ですから。」 と仰っていましたが、現在33歳になるコンスタンチンさんは、結婚して1児のパパとなり、運送業を営んでいるそうな。

それはそれで結構なことですし、当時最悪だった日ソ関係が改善されるキッカケとなったのは事実ですが、
(昨日特別増刊でアップした拙ブログ記事の如く) ロシア人が過去日本人に行った残虐行為を考えると、個人的には複雑な気持ちが拭えません。

どうして日本って、生活保護費を支払ったり留学生を優待するなど敵国の人間に優しいんでしょうネ?


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【特別増刊】 凌 辱

今月の拙ブログでは、これまで終戦直後にソ連兵(ロシア人)によって日本人が攻撃・殺害された

【真岡郵便電信局事件】 

https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12509172724.html


【占守島の戦い】

https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12509597533.html


【三船殉難事件】 
https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12510229176.html


を取り上げてきましたが、今日も学校では絶対に教えない彼らの蛮行をご紹介致します。

それはやはり今から75年前の今日・・・終戦直後の1945(昭和20)年8月27日に旧満州で起きた


  と ん か

 敦化事件


と呼ばれる、日本人女性凌辱事件。


敦化とは、満州国吉林省敦化・・・現在の吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市のこと。


     


ここに、王子製紙が1934(昭和9)年に 『日満パルプ製造敦化工場』 を建設。

その工場に隣接する約2万坪の敷地を高さ4.5mの塀で取り囲み、その中に豪華な社宅と福利厚生用のクラブを造り、そこに日本人社員とその家族約260人が暮らしていました。


    

            日満パルプ製造敦化工場(1936年)


また敦化市内には約2,000名の関東軍も常駐。

しかし1945年8月9日、ソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄 (※破棄通告は同年4月になされていたが、その後1年間は有効という規定になっていた) して突然満州に侵攻。 


関東軍と戦闘を繰り広げますが、同月15日に日本が降伏。


19日にソ連軍が敦化市内に進駐すると、関東軍の守備隊は降伏し武装解除。


そして8月22日、ソ連兵は日満パルプ工場内に侵入し1時間以内に社宅の一角を引き渡すよう要求すると、クラブ従業員女性2名を引きずり出し、ジープで連れ去って強姦。

数時間後1人はボロボロになって帰ってきましたが、もう1人は凌辱された後、川に身を投げ行方不明に。


更に8月25日、ソ連軍は日本人男性全員を10km程離れた飛行場に連行すると、残された170人程の日本人女性を独身寮に集め、15人前後に分散して部屋に監禁。


夜になると酒に酔ったソ連兵が独身寮にやってきて機関銃を乱射し彼女たちを威嚇。


そして26日未明に女性たちの部屋に乱入すると気に入った女性を次々に引きずり出して犯し始めたのです。

他の女性たちは丸坊主にしたり顔に墨を塗るなどしましたが効果なく、ソ連兵による強姦は深夜まで続きました。


男性たちが皆殺しにされたと思った一部の女性たちは、相談して自決することを決意。

某夫人が隠し持っていた青酸カリを飲んだ28名の内、23名が死亡。

また他の部屋から引きずり出された際に、剃刀で自決を図った女性もいたとか。


27日朝、見回りに来たソ連兵が集団自決現場を発見して将校に報告すると、彼らは他の女性たちに窓から外を見ることを禁じて遺体をどこかに運び去り、事件の責任を問われることを恐れて暴行を中止。


その後生き残った女性たちは飛行場近くに連行されましたが、彼女たちは全ての持ち物を略奪されたそうです。


更に冬の訪れと共に寒さや飢餓、腸チフスによって87名が死亡したとか。

鬼畜の所業とは、まさにこのことでしょう。


この事件を含め終戦間際に突如不可侵条約を破棄して満州に攻め込んできたソ連軍の策謀と、これに対する日本の対応を詳細に語った書籍があります。 

 『ソ連が満州に侵攻した夏』 (半藤一利・著 文春文庫・刊)


       


戦争中ならまだしも、降伏し武装解除した無抵抗の人間に対して非道の限りを尽くし、またポツダム宣言に反して捕虜にした約57万人 (※日本政府発表 但し実際には100万人以上とする説が有力) もの日本人をシベリアに抑留し過酷な状況で強制労働させたソ連軍の実態を通して、同書はロシア人の野獣の如き残虐な民族性を浮き彫りにしています。


私は中学生時代に社会科の担当教師が授業中、

「露助(ろすけ)は絶対に許せないし、信用してはいけない!」


と怒りを込めて言っていたことを憶えています。

当時は何のことか分からなかったのですが・・・歴史を学ぶにつれ、それは正しい教えだったと今は確信しています。


我々日本人は、これらの終戦直後の史実を闇に葬り去ったり眼を瞑ったり、ましてや忘れることなど絶対に許されません。


そして次世代に語り継がなければ、犠牲になった日本人女性に顔向けが出来ませんから。


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トリプル

拙ブログ読者なら、牛丼については私が吉野家党であることは、ご存知のはず。

しかしそんな私も、毎年夏になると浮気(?)をすることが。

それは、すき家で期間限定で発売する『ニンニクの芽牛丼』。

ニンニク大好き&激辛党の私には、たまらないトッピングなんです。

ってことで、先日お持ち帰りで食べようと店に入ったら、自動券売機にこんな新商品の画像が・・・。


 牛丼トリプルニンニクMIX

    


「ニンニクの芽牛丼に、素揚げニンニクと特製ニンニクスパイスを合わせた商品」とくれば、もう即時購入を決定。

帰宅して蓋を開けると、期待通りニンニクのかぐわしい香りが鼻を突きます。

HPには、「辛いものが苦手なお客様や、お子様はご注意ください」と書かれていますが、当然私には物足りない辛さなので、我が家に常備している最辛の唐辛子 『舞妓はん ひぃ~ひぃ~』 をたっぶりかけて、いただきま~す。



ビールをお伴に、トリプルニンニク牛丼を楽しませていただきました。

お持ち帰りだと見栄えがイマイチだったので敢えて画像は掲載しませんが、私のようなニンニク好きの方には、オススメ!

期間限定ですので、興味のある方はお早めに~。

ですが、当然のことながら外回りする営業マンにはランチで食べない方がよろしいかと。


内勤の方でも、夜帰宅したら奥さんに「臭い!」って文句言われる可能性は十分。

この商品には、サービスでこんなガムが付いてきましたが、とてもこの1枚で臭いが消えるとは思えません。


    


でも、よく見たら左上に『ヘテ』という文字が・・・ってことは、韓国産?

もちろん私は口に入れず捨てましたけど。

これが国産ガムだったら合格点だったのに、残念~!


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出世作

日本映画界の巨匠といえば、黒澤明監督。(↓)



その彼が〝世界のKUROSAWA〟と国際的に評価されるキッカケとなった

 『羅生門』

が日本国内で封切りされたのが、今からちょうど70年前の今日・1950(昭和25)年8月26日のことでした。


 


同作は、芥川龍之介の小説 『羅生門』 と 『藪の中』 をベースとして橋本忍と黒澤監督が脚色し、主演・三船敏郎に京マチ子・志村喬らが脇を固めた88分のモノクロ作品です。

       

乱世の平安時代に起きた変死事件を巡り、目撃者らが食い違う証言をする姿を通して人間のエゴイズムを鋭く追及しています。

この作品が公開翌年の1951年に邦画として初めてヴェネチア国際映画祭の金獅子賞を、また同年のアカデミー賞で名誉賞を受賞したことで、黒澤監督の名が広く世界に知れわたったのです。

がしかし、そこに至るまでには紆余曲折がありました。


まず封切前日の8月25日に大映本社で試写会が行われたのですが、観ていた永田雅一社長が

「こんな映画、訳分からん!」


と怒って途中で席を立ち、それどころか総務部長を左遷し、企画担当者をクビにしてしまいます。

そして封切後の作品の評価も難解だと不評で、興行収入もイマイチ。

ところが、同年末にヴェネチア国際映画祭とカンヌ国際映画祭から日本に出品招待状が届いたところから、風向きが変わります。

各映画会社から推薦作品が出される中、大映は 『偽れる盛装』 と 『羅生門』 を選出。

関係者の投票により 『羅生門』 が候補作となったものの、なぜか大映が辞退。

しかし捨てる神あれは、拾う神あり。


日本の大学でイタリア語の教鞭を取った経験があり、日本国内にイタリア映画を輸入するイタリフィルム社のジュリアーナ・ストラミジョーリ社長が、ヴェネチア国際映画祭のオファーを受けて日本の出品作を探す中、『羅生門』 を観て感激。

       
            
Giuliana Stramigioli (1914-1988)


大映が反対する中、ストラミジョーリ社長が自腹を切って英語字幕を付け、映画祭に出品したのです。

すると同作は映画祭で大絶賛され、大映関係者の殆どが受賞を期待しない中、見事金獅子賞を受賞。

ところが日本から制作関係者が誰も出席していなかったため、映画祭担当者が急遽街を歩いていたベトナム人を連れてきてトロフィーを受け取ることに。


その写真が世界に配信され、一時それが黒澤監督本人だと誤解されたと言いますから、笑うに笑えません。

そして試写会で作品をけなし途中で退席した永田社長は掌を返すように作品を絶賛したばかりが、受賞を自分の手柄のように話したというのですから、呆れます。

それを知ってか知らずか、黒澤監督は受賞祝賀会で


「日本映画を一番軽蔑してたのは日本人だった。


その日本映画を外国に出してくれたのは外国人だった。


これは反省する必要はないか。

浮世絵だって外国へ出るまでは殆ど市井の絵に過ぎなかった。

我々は自分にしろ自分のものにしろ、全て卑下して考え過ぎるところがあるんじゃないか?


どうして、日本人は自分たちのことや作ったものに自信を持つことをやめてしまったんだろう。


なぜ、自分たちの映画を擁護しようとしないのかな?」

と語ったとか。

その黒澤監督が北野武監督を評価し可愛がったのは、自分と同じく国内より海外で評価されたことに共感したのかもしれません。

そんな裏話を知った上で、是非戦後直後に撮影された日本映画の記念碑的作品を鑑賞してみてください。


       

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放射線

9年前の東日本大震災によって福島第一原発事故が起きた後は、盛んに〝ベクレル(Bq)〟という単位がニュースで流れました。

これは放射能の強さを表す単位で、放射性物資から1秒間に放射線が何回出るかを表すもの。

例えば10ベクレルとは1秒間に10回放射線を出すということ。

(※ただし、放射線にはα線・β線・γ線などの種類によって身体に対する影響が違うため、それを表す単位としてつくられたのが、〝シーベルト〟。)

今日は、この単位に名を残す、放射線を発見したフランスの化学・物理学者

 アントワーヌ・アンリ・ベクレル
      Antoine Henri Becquerel


の命日にあたります。


       


1852年に祖父も科学者、父親も光化学の研究者という学者の家系にパリで生まれたベクレルは、エコール・ポリテクニークで自然科学を、国立土木学校で工学を学び、蛍光物質の研究を専攻しました。


1895年にドイツのレントゲンがX線を発見すると、同僚のポアンカレからレントゲンの論文を受け取った際、

「X線が蛍光を生じるなら、蛍光から何らかの放射線が発生するかも」

と言われたことをキッカケに、ベクレルはウラン化合物に日光を当てるとX線が発生することを証明すべく日々実験を繰り返しました。

そして1896年2月、曇天のため実験を中止した彼は、ウラン化合物と写真乾板を一緒に机の引き出しにしまったのですが・・・数日後にその引き出しを開けると、光が当たっていないのに乾板が黒く感光しているのを発見。

       

科学の世界ではよくある〝偶然〟ですが、これが放射線の発見でした。


そしてコレに注目したのが、あのキュリー夫人。

新しい論文のテーマを探していた彼女は、「面白そうじゃないか」と言ってくれた物理学者の夫ピエールと共に実験に明け暮れ、遂にポロニウムとラジウムという新しい放射性元素を発見。

その功績により、ベクレルとキュリー夫妻は1903年にノーベル物理学賞を受賞しました。

       

            マリー・キュリー と ピエール・キュリー


当時は新発見として世界的に注目され、ウラン薬とかラジウム注射、放射性歯磨きや放射性ヘアクリームなんて商品が出回ったそうな。

つまり、その頃はまだ放射能が人体に悪影響を及ぼすことが知られていなかったのです。
 (有害であることが判明したのは、1920年代以降。)

当然発見者の彼らも、そんなことはつゆ知らず。

べクレルはキュリー夫人からもらった塩化ラジウムをガラス管に入れて持ち歩き、人に見せびらかしていたそうですから。

またキュリー夫人が書き残したノートは、100年経過した現代でも安易に手で触れられない程被ばくしているとか。

その被ばくが原因だったのでしょう・・・ベクレルはノーベル賞受賞から5年後の1908年8月25日に55歳で急死。

キュリー夫人も1911年に2度目のノーベル賞を受賞したものの、1934年に再生不良性貧血により66歳で亡くなっています。

彼らの発見と自己犠牲によって原子力エネルギーは実用化に至っていますが、果たしてこの〝諸刃の剣〟は今後人類にどんな影響を及ぼすのでしょうか?


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放射線

6年前の東日本大震災によって福島第一原発事故が起きた後は、盛んに〝ベクレル(Bq)〟という単位がニュースで流れました。

これは放射能の強さを表す単位で、放射性物資から1秒間に放射線が何回出るかを表すもの。

例えば10ベクレルとは1秒間に10回放射線を出すということ。

(※ただし、放射線にはα線・β線・γ線などの種類によって身体に対する影響が違うため、それを表す単位としてつくられたのが、〝シーベルト〟。)

今日は、この単位に名を残す、放射線を発見したフランスの化学・物理学者

 アントワーヌ・アンリ・ベクレル

      Antoine Henri Becquerel


の命日・没後110周年にあたります。


       


1852年に祖父も科学者、父親も光化学の研究者という学者の家系にパリで生まれたベクレルは、エコール・ポリテクニークで自然科学を、国立土木学校で工学を学び、蛍光物質の研究を専攻しました。


1895年にドイツのレントゲンがX線を発見すると、同僚のポアンカレからレントゲンの論文を受け取った際、

「X線が蛍光を生じるなら、蛍光から何らかの放射線が発生するかも」

と言われたことをキッカケに、ベクレルはウラン化合物に日光を当てるとX線が発生することを証明すべく日々実験を繰り返しました。

そして1896年2月、曇天のため実験を中止した彼は、ウラン化合物と写真乾板を一緒に机の引き出しにしまったのですが・・・数日後にその引き出しを開けると、光が当たっていないのに乾板が黒く感光しているのを発見。

       

科学の世界ではよくある〝偶然〟ですが、これが放射線の発見でした。


そしてこの発見に注目したのが、あのキュリー夫人。

新しい論文のテーマを探していた彼女は、「面白そうじゃないか」と言ってくれた物理学者の夫ピエールと共に実験に明け暮れ、遂にポロニウムとラジウムという新しい放射性元素を発見。

その功績により、ベクレルとキュリー夫妻は1903年にノーベル物理学賞を受賞しました。

       

            マリー・キュリー と ピエール・キュリー


当時は新発見として世界的に注目され、ウラン薬とかラジウム注射、放射性歯磨きや放射性ヘアクリームなんて商品が出回ったそうな。

つまり、その頃はまだ放射能が人体に悪影響を及ぼすことが知られていなかったのです。
 (有害であることが判明したのは、1920年代以降。)

当然発見者の彼らも、そんなことはつゆ知らず。

べクレルはキュリー夫人からもらった塩化ラジウムをガラス管に入れて持ち歩き、人に見せびらかしていたそうですから。

またキュリー夫人が書き残したノートは、100年経過した現代でも安易に手で触れられない程被ばくしているとか。

故に被ばくが原因だったのでしょう、ベクレルはノーベル賞受賞から5年後の1908年8月25日に55歳で急死。

キュリー夫人も1911年に2度目のノーベル賞を受賞したものの、1934年に再生不良性貧血により66歳で亡くなっています。

彼らの発見と自己犠牲によって原子力エネルギーは実用化に至っていますが、果たしてこの〝諸刃の剣〟は今後人類にどんな影響を及ぼすのでしょうか?


 


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【葬儀屋時代の思ひ出】 献 身 <下>

告別式から3日後の深夜、ご長男から私の携帯に電話が入りました。


(何かご葬儀に不手際でもあったのだろうか・・・)

そんな不安を感じつつ電話に出ると、受話器の向こうから、


「社長・・・今さっき、今度は母が亡くなってしまいました。」


「えっ!?」 


「父の告別式が終わった直後に、こんなお電話をするとは思いもしませんでしたが・・・また、よろしくお願いします。 

是非父の葬儀と同じようにしてあげてください。」


憔悴しきった声で話すご長男に、私は 「はい、分かりました。」 としか申し上げることはできず。


実はAさん、看護師でいらっしゃいました。


勤務されていた病院にご主人が胃潰瘍で入院されたことがキッカケで知り合い、ご結婚されたとのこと。


ご長男が生まれてから 「司法試験に挑戦したい」 と一念発起して勤務先を退職したご主人に一言も文句を言わず働き続け、家計を支えたのはAさんだったそうです。


約40年に渡り看護師の仕事を続けられ勲章も授与されたAさんは、元プロとしてご主人の闘病生活を支え続け、葬儀の段取りもキッチリと整えられたのでした。


葬儀が無事終わったことを確かめるまで頑張り、そして愛するご主人を追いかけるが如く僅か3日後に逝かれたAさん。


これぞ〝献身〟・・・究極の夫唱婦随と申せましょうか。


         


通夜・告別式の2日間、電話をいただいてご相談をお受けした日のAさんのお姿を思い出し、何度となく涙を堪えることができなかった私。


ご葬儀の際、会葬者にお配りした礼状には、私からの提案で次の一文を加えさせていただきました。


〝これから 主人の待つ天国へ まいります〟


1週間に2度、ご両親とのお別れをしなければならなかったご長男の心中は察するに余りありますが、Aさんご夫妻の絆を思う時、私の胸は今も熱いものがこみ上げてくるのです。

ウチの女王様、ここまで面倒見てくれるかなァ・・・。

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