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ヒンヤリ

毎朝、通勤ラッシュで混み合う東京の山手線。

この1週間で約2,820万人が利用するという都心の大動脈路線に、初めて


    冷 房 車


が登場したのが、今からちょうど50年前の今日・1970(昭和45)年7月31日のことでした。

※但し、これが日本で初めての冷房車ではありません。

初めて冷房車が導入されたのは、二・ニ六事件が起きた1936(昭和11)年で、国鉄ではなく南海鉄道。

しかしこれはあくまで試験的運用だったようで、継続営業車両に初めて導入したのは、1959(昭和34)年の名鉄。

これら私鉄の動きを見て、国鉄も導入に動いた・・・というわけ。


それまでの山手線103系の電車は、こちら。(↓)

    

そして冷房車は、こちら。(↓)

    


一見同じ車両に見えますが、下の車両の屋根に冷房装置がつけられているのがお分かりいただけるでしょう。


それまで冷房のなかった山手線の車内温度は35℃前後。

それが冷房車だと約26℃だったそうですから、最初に乗った人はさぞ極楽気分を味わえたことでしょう。

しかし、この日走った冷房車両は、僅か1編成のみ。
殆どの利用客は恩恵を授かれませんでした。

その後徐々に冷房車両は増えましたが、10編成でも冷房車と非冷房車が混在していた時期がありました。

私は当時電車に乗る時は、走ってくる電車の屋根を見ては、冷房車の停まった位置まで走ったものです。

現在ではJR・私鉄とも首都圏での冷房率はほぼ100%。
〝夏涼しく冬暖かい〟と言われていた地下鉄にも導入されています。


    

そして1984年には 『弱冷房車』 がお目見え。

これは冷房に弱い人、特に女性向けに考案されたようですが、私のような暑がりにはあまり有難くないサービス。

時々知らずに駆け込んで涼しく感じないと、イラッとしたものです。

では、ここで問題。

【夏は『弱冷房車』がありますが、冬に『弱暖房車』は走ってる?】

私のような暑がりには、是非とも導入して欲しい車輛・・・ですが、JR・私鉄各社とも、同一温度設定での弱暖房車は導入していないそうな。


それにしても、定員の200%以上のすし詰め状態で車内温度35℃の通勤電車に毎日乗って文句も言わず働いていた、当時の日本人の我慢強さ・・・私たちは見習うべきですネ。


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望 郷

その指揮者の演奏を初めて聴いたのは、私が中学3年生の時でした。


ドボルザークの交響曲第9番 『新世界から』 ・・・その精緻な音楽は、まだ子供だった私にも衝撃的でした。


その指揮者とは、


 ジョージ・セル

   George Szell   


今日は、このハンガリー人の父とスロヴァキア人母の間に生まれた、天才音楽家の命日・没後50周年にあたります。


       


1897年にハンガリーのブタペストに生まれた彼は、3歳からウィーン音楽院でピアノ・指揮・作曲を学び、11歳でピアニストとして自作曲を演奏。


16歳であのウィーン交響楽団を指揮し、神童と呼ばれました。


ベルリン・フィルとも交流を持った彼は、やがて自らの進路を指揮者に絞ります。


そしてオーストラリア・アメリカの演奏旅行中に第二次世界大戦が勃発、帰国をあきらめたセルはアメリカに定住。


トスカニーニの援助によりNBC交響楽団の客演指揮者を務めた後、終戦後の1946年にクリーヴランド管弦楽団の常任指揮者に就任しました。


       


完璧主義者であった彼の指導は殊の外厳しく、就任1年目でクビにしたり自ら去って行った楽団員が全体の2/3に達した程だったとか。


しかし彼の育成能力は抜群でした。


(そう言っては失礼ですが) 単なる一地方オーケストラだった同管弦楽団を、セルは以後四半世紀にわたって鍛え抜き、いつしかニューヨーク・フィルらと並び称される超一流のオーケストラに育て上げたのですから。


あのカラヤンでさえ非常にセルを尊敬していたそうで、セルの目の前に立つと緊張して直立不動・・・その威厳に圧倒されて、何を聞かれても 「ハイ、マエストロ。」 としか言えなかった、というエピソードが残されています。


1970年、大阪万博を記念した来日公演では、世界最高と称えられたアンサンブルで聴衆を魅了し、その出来栄えは今でもファンの間で語り草になっているとか。


        ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-セル来日公演


確かにシベリウスの 『交響曲第2番』 は、聴いていて鳥肌が立つほどの迫力・・・圧巻です。


しかしこの来日公演から僅か2ヶ月後の1970(昭和45)年7月30日、癌のため73歳で急逝。


ますます円熟期の演奏を期待した多くのファンを悲しませました。


ということは、私が初めて 『新世界から』 を聴いて感動した時・・・既にセルはこの世にいなかったのです。


その時にレコードで聴いた同じ演奏と、同じくドボルザークの 『交響曲第7・8番』、スメタナの 『わが祖国』 のCDが私の手元にあります。


  セル・ドボルザーク


彼の演奏に関しては 「精緻なれども冷たい」 という評価があるそうな。


しかし私は少なくともボルザークの演奏を聴く限りにおいて、その一糸乱れぬ完璧に統制されたオケが生み出す音色からは、むしろ温かさを感じるのです。


もしかしたらそれは、東欧に生まれながらアメリカ移住を余儀なくされたというドボルザークと似た境遇に、彼自身の〝望郷の想い〟が重なった故なのかもしれません。


個人的には、今もってドボルザークの交響曲は、セル=クリーヴランド響の演奏が最高の名演だと思っている私・・・今晩は 『新世界から』 を聴きつつ、中学時代の感動を今一度味わいたいと思います。笑3

お時間のある方は、こちらでお聴きください。(↓)



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【特別増刊・拡散希望】 凄 惨
今日は、私たち日本人にとって実に忌まわしい出来事に関して、皆さんにお伝えしたいと思います。

それは、今から83年前の今日起きた


 通州事件

について。 

1937(昭和12)年7月7日、演習中だった日本軍に対し中国が実弾を撃ち込む 『盧溝橋事件』 が勃発し、これが支那事変の端緒となりました。


世情が不安定になったため、在留邦人は比較的安全と言われていた通州城内に流れ込み、旅館は満杯に。

〝通州〟とは、現在の北京市の東約30kmに位置する通州区北部の中心都市で、当時は日本に留学経験があり日本女性と結婚していた親日派(と目されていた)・殷汝耕が南京政府から離脱して(日本主導で)設立した冀東(きとう)防共自治政府が統治していた場所。


      

              盧溝橋と通州区の位置関係


ゆえに自治政府の保安隊は日本軍によって訓練されており、日本側としては治安面においてさしたる不安を抱かず主力部隊を他の前線に送り出したため、事件直前の通州には小隊40名・自動車部隊50名ら合計120名の留守部隊のみが駐留。

その状況下で同年7月29日未明、自治政府保安隊及び国民革命軍ら約3,300名の支那人が蜂起。


城門を閉め電線・電話線を遮断した上で日本軍の留守部隊及び在留邦人を襲撃したのです。

この裏切り攻撃によって日本の留守部隊は全滅。

支那兵は日本人居住区を1軒ずつ虱潰しに襲い、在留日本人385名のうち223名を虐殺。


   

その殺害方法は、まさに凄惨の一言。

子供を逆さまに持ち上げて地面に頭を叩きつけて殺害、女性は皆凌辱され中には陰部を銃剣で抉られたり、鼻には針金を入れて牛のように引っ張られた跡が。

また男性の死体は殆どが首に縄をつけて引き回した跡があり、中には腹を裂かれて内臓を切り刻まれた者も。

※事件現場の写真は何枚も現存していますが、あまりに凄惨なため拙ブログでは掲載を控えました。  

『通州事件』で検索して画像をご覧いただければ、支那人がいかに残虐非道の限りを尽くしたのかがお分かりいただけます。


また当該事件に関して詳しく知りたい方には、写真や証言を集めて昨年出版された


  『慟哭の通州 昭和十二年夏の虐殺事件
                     (加藤康男・著 飛鳥出版・刊)

       


のご一読をお勧めします。 

表紙に選ばれた、結婚式を挙げてまだ半年余りだった石井亨さんと妊娠中の若妻が、またその日城内にいた邦人たちがどんな目に遭ったのか・・・涙と怒りなくしては読めません。

支那人の残虐性は日本人の想像を絶しますし、決して許容できない民族性を有していることがよく分かります。

そしてそれが変わっていないことは、彼らが現在ウィグルやチベットで行っている弾圧・民族浄化の実態を見れば明らか。

当時現地にいたアメリカ人記者をして、

「日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女・子供らの虐殺は、古代から現代までを見渡しても最悪の集団虐殺として歴史に残るだろう」


と言わしめ、また極東軍事裁判では(一部ではあるものの)目撃証言が受理されているこの凄惨な事件に関し、学校で習ったという方はおそらく殆どいらっしゃらないでしょう。

それもそのはず、現在通州事件に関して記述している教科書は、自由社が刊行している 『新版 新しい歴史教科書』(中学生用) ただ一冊のみ。

私を含めた中高年世代が学生だった頃には、どの教科書にも記載されていませんでしたから。

日本人が虐殺された事件を封印し、有りもしない慰安婦問題や南京事件で謝罪する日本政府のヘタレぶりには呆れるばかりですが、その自虐外交にも少しずつ違う流れが・・・。

殆どのメディアは黙殺しましたが、昨年この通州事件に関して有志がユネスコ記憶遺産に登録申請したのです。

皆さんには犠牲となった日本人の冥福を祈りつつ、是非この事件を知り次世代に語り継いでいただきたく・・・。

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苦 悩

今日は、皆さんもよくご存知のポスト印象派の画家、


フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ

  Vincent Willem van Gogh


の命日・没後130周年にあたります。

       

ゴッホは1853年にオランダのフロート・ズンデルトで生まれました。

祖父が高名な牧師で父親もプロテスタント牧師、母親の叔父も有名な説教師だったという厳格な家庭で育ちながら、彼はそれに反抗してか大人も手を焼くほどの腕白で、中学も中退しています。

一方で中退後は美術商会社・グーピル商会ハーグ支店に務め、ロンドン店・パリ店でも働くと英語・仏語・独語を使いこなす明晰な頭脳の持ち主でもありました。

しかし最初は勤務態度良好だったものの、やがて仕事に疑問を感じ始めた彼の仕事ぶりが悪くなり、23歳の時クビに。

その後渡英して私立学校で独語・仏語を教えながら宗教活動に勤しむと、アムステルダム大学の神学部を目指すも、挫折。

1878年に入って伝道師として活動を始めるも、貧しい人に衣服を与え自分は裸で寝るなど極端な行動が目立ち、伝道師協会から免許停止をくらう始末。

伝道師の道も経たれた彼は、1880年の冬にフランスへ旅に出ますが、この時期に画家を志し独学でデッサンを描き始めます。

宗教から美術に転向した彼は、従姉で未亡人のケーに恋し、何度も自宅を訪れて求愛するも断られ、バーグに転居した後も娼婦のクリスティーヌと同棲を始めるなど、宣教師である父親や家族を悩ませる行動を繰り返します。

でも彼自身は
従兄の画家アントン・マウファから絵画の手ほどきを受けつつハーグ派の画家たちとも交流を深め、クリスティーヌが子供を産んだことで満たされた日々を過ごしました。


しかしその幸せは長続きせず・・・クリスティヌとの関係は1年半ほどで悪化し、1883年9月に別離。

3ヶ月後に実家に戻って作品を描き続けましたか、相変わらず女性関係で両親を悩ませたとか。


その後レンブラントの絵に感銘を受けたゴッホは、1886年3月パリに移住。

画廊に勤務していたテオのアパートに住み、彼の助力で多くの画家と親交を結び画風も大きく変化。

1887年3月には収集した浮世絵の展覧会を開いたり、同年11月に自らの作品の個展を開きますが、翌月には生活苦から精神に異常をきたします。

翌年2月アルルに移住すると、9月には有名な〝黄色い家〟に住み始め、その翌月にはゴーギャンとの共同生活を始めました。

       

しかし理想としたはずの生活は、短期間で破綻してしまいます。

同居2ヶ月後の12月23日、彼はゴーギャンと口論の末、自らの左耳たぶを切り落とす〝耳切り事件〟を引き起こし、精神病院に収容されることに。(口論の原因は不明。 また病名についてもてんかん説・統合失調症説などがありはっきりしていません。) 

       

                『耳のない自画像』


1890年5月に退院した彼はオーヴェール・シュル・オワーズに移住し、絵画コレクターで自らも絵を描く精神科医ガシェに診察・治療を施されながら制作に励みましたが、同年7月27日に自らの腹を拳銃で撃ち、その2日後の7月29日に37歳の若さでこの世を去りました。

私が知るゴッホの作品は、鮮やかというか派手な色使いの作品が多いですが、何と言っても記憶に残るのは、私が損保マン時代に話題となった、『ひまわり』。(↓)




宗教と芸術の狭間で苦しんだ彼の心情は私のような凡人には理解できませんが、その苦悩の中で生み出された作品が人々を感動させたことを知れば、彼もこの世に生を受けた価値を天国で感じているはず。

彼が存命中に売れた絵がたった1枚だったという逸話は有名(実際には数枚売れたそう)ですが、もしもっと売れていれば彼が自らの命を絶つことはなかったかもしれません。

そんな事を思いつつ、〝苦悩の画家〟の冥福を祈りたいと思います。

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JSB

音楽室の、おそらく一番左端に貼られていたこの肖像画を、皆さんもご記憶だと思います。

       

これが誰かは言わずもがなですが、今日はこのクラシック音楽界の大御所にして、〝音楽の父〟と呼ばれる


 ヨハン・セバスティアン・バッハ
       Johann Sebastian Bach

の命日・没後270周年に当たります。


バッハは1685年、ドイツのテューリンゲン州アイゼナハでルター派音楽家ヨハン・アンブロジウス・バッハの8人兄弟の末っ子として生まれました。

9歳で母を、更に10歳で父を亡くすという不幸に見舞われながらも、1703年にヴァイマルの宮廷楽団に就職。

そして同年にアルンシュタットの新教会に新しいオルガンが設置されると、その試奏者に選ばれた彼は優れた演奏を披露し、そのままその教会のオルガニストに採用されました。

以降バッハはオルガニストとして、また宮廷楽長を務めるなどする傍ら、1750年7月28日に眼科手術の後遺症や投薬治療による体力低下により65歳でこの世を去るまで、(オペラ以外の)様々なジャンルに膨大な作曲を行いました。

その数は、2007年に完成した 『新バッハ全集』 103巻にまとめられただけで、何と1,100曲。

しかも未だ整理中だそうですから、更にその数は増えるはず。


また病死した前妻マリアとの間に7人、後妻で音楽家だったアンナとの間に13人、合計20人もの子宝に恵まれたバッハ・・・あちらの方もかなり精力的だったようで。

300年程前の作品にも拘わらず、彼の紡ぎ出した旋律は今なお新鮮さを失うことなく、ジャズやポップスに至るまで様々な分野の音楽に転用されています。


とは言え私は40歳になるまで、正直バッハの音楽をじっくり聴きたいとは思いませんでした。 

なんとなく退屈(?)に感じたのです。


ところが40歳を過ぎてから、俄然バッハの音楽が体に沁み入るようになったのです。


平均律クラヴィーアやパルティータはG・グールド、無伴奏チェロはP・カザルス、チェンバロはコープマン等々・・・。



また所有しているアルヒーフ社・バロック音楽全集の多くが彼の作品。


    


特に〝バッハの権威〟といわれるカール・リヒターの演奏には、心を揺さぶられます。


       左から 『マタイ受難曲』・『ヨハネ受難曲』・『カンタータ集』


あまりに膨大な作品数ゆえに、同じ曲をアーティストによって聴き比べることはあまり出来ていませんが、ひとつの演奏を聴き続けている中で得られる印象が、加齢と共に変わるような気がするのは何故なんでしょう?


楽譜を見ても、当時の鍵盤楽器は現代ほど性能が良くないのに、どうしてあんなに複雑かつ難易度の高い作品を生み出せたのか不思議。


底知れぬ奥深さ・・・50歳を過ぎてから、バッハが〝音楽の父〟と言われる所以が(ちょっとだけ)分かったような気がしています。

大バッハの命日ですから、今日は彼の冥福を祈りつつ是非彼の作品をじっくり聴いてみてください。

BGMとしてでも結構ですから・・・。




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水菓子

最近は、めっきり使わなくなった表題の単語・・・若い方は〝果物〟という意味であることすら、ご存じないかもしれませんネ。


この水菓子のイメージに最も相応しい果物は? と聞かれたら、多くの方がこう答えるのではないでしょうか。


  ス イ カ


英語でも“watermelon ”って言うくらいて出すからネ。


今日は、この夏の風物詩の記念日〝スイカの日〟なんだそうです。


       


なんでも、「スイカは夏を代表する果物」+「縞模様は綱のよう」=「夏の横綱」→な(7)つの横綱(27)・・・う~ん、かなりキビシい語呂合わせですが、旬が7月末から8月にかけてですから、許してあげましょう。


さて、そのスイカ・・・殆ど水分でできている果物なのに、原産地は意外にもアフリカの砂漠地帯なのだそうな。


日本に伝来したのは室町時代頃に明から・・・スイカという名は広東語のサイクワァが変化したもので、西瓜という漢字も北京語に由来するとのこと。


一般的な縦縞模様の品種が広まったのは昭和初期と比較的新しく、それまでスイカといえば黒の無地だったとか。


そういえば、縞模様のないスイカを売っているのを私も見た記憶があります。


        


さて、美味しいスイカを選ぶには、どうすればいいのか?


昔はよく奥さんがスイカを手でポンポンッと叩いて買う風景を見ましたが、実際には音で食べ頃かどうかは判断できないんですって。


甘いスイカを選ぶコツは、縞模様の輪郭がボヤけずハッキリしていて、しかも縞の数が多いほど甘みが強いんだそうです。


そしてツルの根本の凹みが大きいものほど甘いんだとか。


また食べ頃は、ツルとは反対側・お尻の穴が大きいほど熟れているとのこと。


ですから逆に穴が小さいスイカは、まだ日持ちするということになりますか。


この2つのポイントをお忘れなく・・・って、最近は丸1個ではなく、半分や1/4に切って売られてますから、あまり役には立たないかも。


くれぐれも切り身を一個ずつひっくり返して模様を見定めないように、ご注意を!

それから、中高年の方はスイカというと故・志村けんさんの早食いを思い出す方が少なくないかも。



人間業とは思えぬほどの早食いですが、これにはカラクリが・・・。

タネを明かすと、彼が食べている切り身の後ろ殆どが削りとられているんです。
ですからまともな切り身で彼のように早く食べられるわけはなし。


くれぐれも真似しないよう、ご注意を!


子供の頃によく目にした、井戸水を組んだタライの中にスイカが浮かび、風鈴の音がチリンチリン・・・そんな風景を楽しみながら、涼んでみたいですねェ。


ただ私の場合、食べるよりもスイカ割りがしたいなァ~。
アレはストレス解消になりますから・・・。笑2


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登 山

関東にお住まいの方なら、紅葉シーズンに一度は

 日 光

を訪れたことがあるのではないでしょうか?

いろは坂を上り切ったところに中禅寺湖があり、そこから流れ落ちているのが有名な華厳の滝。

そしてその中禅寺湖の後ろに聳える標高2,486mの火山にして日本百名山のひとつに数えられているのが、男体山。


    

この名山は、別名〝二荒山(ふたらさん)〟とも呼ばれていました。

その名の由来は、
観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山・〝補陀洛山(ふだらくさん)〟が訛ったものといわれています。(他説あり)

同山に初めて登頂したのは、勝道上人という僧侶。

「山頂に達することが自分の悟りを開く」と考えた上人は、敢えて残雪期の登頂を目指して767年から挑戦を始め、見事782年3月に成功。


(麓にある二荒山神社は、767年に上人が二荒山の神を祀るために建立したとされています。)


この二荒山に、真言宗の開祖・空海(弘法大師)が登ったといわれているのが、今からちょうど1,200年前の今日・820(弘仁11)年7月26日のこと。

       

 ※空海に関する過去記事は、こちら。(↓)



空海はその絶景に感動し、二荒を〝にこう〟と音読みにして日光山と命名。

これが日光という地名の由来となりました。


さて日光といえば、家康が祀られている 『日光東照宮』 があまりに有名ですが、実は空海にまつわる観光スポットもあるんです。

それは、空海所縁のポイントを通る、〝弘法のみち〟。

    

開山堂から石畳の滝尾道を行くと、「ここから滝尾神社の聖域に入るので大小便を禁ずる」という〝大小べんきんぜいの碑〟があり、ここからスタート。

途中、多くの僧が修行したと言われる白糸の滝や空海が創建したと伝えられる滝尾神社・滝尾稲荷神社、それに空海が神に捧げた聖水が涌き出る酒の泉などを全長約500m、ゆっくり歩いても所要時間は小一時間。

    

紅葉シーズンもいいですが、それほど混雑しないこれから夏の期間に、避暑を兼ねて日光を訪れてみませんか?

ただし武漢肺炎騒動が終息すれば、の話ですが。


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立方体

中高年世代の方なら、昔一度は手にしたことがあるでしょう。


 ルービックキューブ


6面が赤・青・白・黄・橙・緑に着色されたプラスチック製の立方体で、3×3に分かれた面を一旦崩してから、再びガチャガチャやりながら色を揃えるゲーム。


発明したのは、はハンガリーの建築学者・大学教授、エルノー・ルービック氏(1944- )。


         


教え子に3次元幾何学を説明するために実体ミデルとして考案したものだったそうです。


1974年にできたプロトタイプは木製でした。(

       


彼が特許を取得し、ハンガリーの玩具メーカーから〝マジック・キューブ〟の名で発売されたのが1977年。 

この時はなんと紙製だったそうな。(

       


その後アメリカのメーカーが販売権を獲得し、発明者の名を冠した〝ルービックキューブ〟という商品名で全世界に売り出されました。


そして日本でツクダオリジナルから発売されたのが、今からちょうど40年前の今日・1980(昭和55)年7月25日のこと。


この時は現在とほぼ同型のプラスチック製。


価格は1個1,980円だったそうです。(


       


発売と同時に大ブームとなったこのゲーム・・・8ヶ月間で400万個以上を売り上げ、発売から3ヵ月後には海賊版まで出回る始末。 


攻略本も30万部発行されるという、まさに社会現象となりました。


翌年1月には帝国ホテルで第1回の全国大会が開かれ、その時の優勝者は16歳の高校生。 最高タイムは46秒だったそうです。


現在はルービックキューブも進化を遂げ、3×3に飽き足らず、5×5なんてオバケキューブもあるそうな。


また近年では、足で回したり、さらには目隠ししたまま記憶だけで完成させる 〝ブラインドキューブ〟種目まであるそうな・・・いやはや、人間の能力って凄いんですネ。

さて、ここで問題です。

ルービックキューブ(3×3×3)の世界最速記録は、何秒でしょうか?


正解は、2018年1月に達成された瞬間の動画でお確かめください。



 


僅か3.47秒・・・もう神技としか言いようがありません。


またこのゲーム、数学的には最小22回で6面が揃えられることが証明されているのだそうな。


今まで何度かブームになったルービックキューブ・・・頭の体操と俊敏性を養うために、もう一度挑戦してみたらいかがですか?


えっ、オマエは出来るのかって?


あははは、自慢じゃないですが今まで6面揃えられた事なんか、1回もないですワ。


 


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ロールキャベツ

先日、エネゴリ君の店に行って、オーナーとこんな雑談をしました。

「武漢肺炎騒動で一時休業したり大変だったけど、最近はどう?」

「おかげさまで、少しずつお客さんが戻ってきました。

先月までは、渡辺さんのようにおひとり様かご夫婦やカップルでお見えになる方ばかりだったんですが、ここにきて子供さんを連れたご家族連れや、ママ友さんら複数人で来店される方が増えてきたんですョ。」


「そりゃあ、良かった。 近所では閉店したところもあったから心配してたんだけど、ここは大丈夫だネ。」

「う~ん、だと良いんですけど・・・。」

「ご新規のお客さんとかは?」

「時々いらっしゃいますョ。 インスタで見つけたって方や、通りすがりで入店される方とか。」

「そういうお客さんが増えるとイイねェ。」

「そうなんですが・・・。」

と、意外にもオーナーは浮かぬ顔。

「あれ、あんまり嬉しくなさそうじゃん。」

「えぇ・・・新規のお客さんが増えるのは有難いんですけど、最近の若者ってお酒飲まないんですョ。

カップルで来られて、パスタだけ注文される場合が殆どなんです。
お飲み物は?って伺っても、水だけで結構ですって・・・。」


「あらら、それは困りものだネ。 
お酒飲んでもらわなきゃ、儲からないじゃん。」


「そうなんですょ。 食事だけじゃ利益出ませんから、どこのレストランも大変なはずです。」

飲兵衛の私には考えられないですが、更にオーナーからはこんな話も・・・。

<「それに最近の若者は、食べないんですョ。 特に男性が。

昨日もランチで入店されたカップルのオーダーが、パスタ2つのうちひとつが大盛だったんです。

私はてっきり男性が大盛だと思ってお出ししたら、『いや、大盛は彼女の方』ですって。

しかも相手の女性はアッという間に大盛パスタを平らげたのに、男性の方はチマチマと時間をかけて完食するまで女性を待たせたまま・・・見てみて情けなくなりますワ。」


「あれまァ、草食系男子って今でも健在なのネ。


でも人間って自分にないものを求めるから、肉食系女子はそういうタイプの男性がいいのかナ?

とすると、肉食系男子のエネゴリ君がモテないのも分かるわナ。」

そう彼に話を振ると、

「いや~、ボクは見かけ肉食系でも、中身は草食系なんですョ~。」

「ウソつけ、お前のどこが草食系だっての。」

「渡辺さん、人は見かけによりませんって。
ボクなんか、さしずめロールキャベツみたいなもんです。」


「ほォ~、珍しくうまいこと言うじゃない・・・って、それじゃ外見が野菜で中身が肉だから、逆だろ。」


       

「まぁイイじゃないですか、そんな細かいことは。」

「いや、全然細かくないって。 でもそういえば、久しくここでロールキャベツ食べてないなァ。 今度作ってョ、アレ美味しいから。」

すると彼、しまったという顔つきで、

「あっ、アレ仕込みが大変なんですょ~。 勘弁してください。」

「じゃあ、マッシュポテトは?」

 ※マッシュポテトに関する過去記事は、こちら。(↓)




「アレはもっと大変だから、絶対にイヤです。」

こ、こいつ・・・。うー


 


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最 長

今日は、クイズからスタートです。

アメリカの歴代国務長官で、最も長くその職責を務めたのは、誰?

ヒントは、日本人に結構馴染みのある方なんですが・・・えっ、キッシンジャー?

実は彼、国務長官は3年4ヶ月しか務めていないんです。
(但し大統領補佐官は6年10ヶ月務めていますが・・・。)

正解は、11年9ヶ月に渡って務めた

 コーデル・ハル

    Cordell Hull


今日は、開戦直前にハル・ノートと呼ばれる最後通牒を日本に提示した(というより突き付けた)ことでその名を残す、ルーズベルト大統領の片腕の命日・没後65周年にあたります。


       

ハルは1871年にテネシー州ピケット郡で生まれました。

オハイオ州にある国立師範大学で学び、19歳の時にクレイ郡民主党の議長に選出された秀才の彼は、テネシー州のカンパーランド大学の法科を卒業後、法曹界へ。

そして1893年にテネシー州議員を4年間勤め、州義勇兵大尉としてキューバで戦い、1903年から4年間同州の巡回裁判官を勤めた後に下院議員に当選。

1907~21年、1923~31年の22年間務めました。
(※中断期間は、民主党全国委員会議長)

1930年に上院議員に選出され、そして1933年にF・ルーズベルト大統領から国務長官に任命されました。
 

       

               ルーズベルト(左)とハル


 ※F・ルーズベルト大統領に関する過去記事は、こちら。(↓)


東アジアへの進出を考える彼と大統領は、同じく満州国を建国し進出を図る日本に対して強硬姿勢を貫き、それが日本を戦争に追い込む戦略へと発展したことは確かでしょう。

       
          交渉中の野村大使(左)・来栖大使(右)と


日米開戦後、1943年のモスクワ会議でアメリカ全権大使を務めた彼は、その翌年に健康上の理由で国務長官を退任。


そして1955年7月23日に、ベセスタの海軍病院で心筋梗塞・脳梗塞により、83歳で天に召されました。


彼の功績としては、まず1945年の国際連合設立に尽力したこと。
〝国際連合の父〟と言われた彼は、同年のノーベル平和賞を受賞しています。

また彼はドイツのロケット科学者ヴェルナ・フォン・ブラウン博士と彼の研究チームをアメリカに招き入れることに成功し、これが後の米ソ宇宙開発競争に勝利する礎となりました。

アメリカの立場から見れば今でも人気の高いF・ルーズベルト大統領の側近として活躍した政治家、という評価になるのでしょう。

彼が遺したこの書籍は、歴史検証資料としては一級品だと思います。

 『ハル回顧録』 (中公ビジネス文庫)


       


これを読むと、当時のアメリカ指導層が日本をどう捉えていたのかが、よく分かります。

アメリカ側とすればルーズベルト・ハルのコンビは強力タッグでしょうが、
人種差別主義者の大統領と対日強硬派の国務長官という組み合わせは、日本にとっては最悪・最凶ペアだったと言えましょうが・・・。うー


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