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乱 入

皆さんは、今から71年前の今日・・・終戦後間もない1949(昭和24)年6月30日に起きた


  たいら
 平 事 件


をご存じでしょうか?

同年4月に、日本共産党福島県石城地区委員会が横2.4m×縦1.8mという大型の宣伝用掲示板を設置すべく、平市警察に道路一時使用許可を申請。

警察側は一旦許可したものの、予想外に人が集まり交通に支障をきたしたため、6月25日に許可の取り消しを、更に6月30日午後4時までに撤去するよう通告したところ、これを「政治活動に対する弾圧だ」として共産党が反発。

6月30日午後3時半頃、共産党員と在日本朝鮮人連盟所属の朝鮮人約300名がトラックに乗るなどして平警察署に押しかけます。

署長は代表者との話し合いに応じたものの、彼らはそれで収まらず、労働歌〝インターナショナル〟を歌いながら署内に乱入。

署員に殴る蹴るの暴行を加えてガラスを次々と割り、約80名が所長室に乱入。(↓)

    


更に留置場にも侵入し、拘留されていた被疑者らを解放して逆に警察官を閉じ込めるという乱暴狼藉ぶり。


その上署長の辞任を要求するなどしましたが、午後11時頃に警察の応援部隊が来るという情報がもたらされ、現場から立ち去りました。
(数日後には駐在所が襲撃され、駐在警官が自殺しています。)

その後平市警察署は捜査本部を設置。


県警から約700名の警官の応援を得て231人を騒擾(そうじょう)罪【※1995年から騒乱罪に改称】の容疑で逮捕し、159人を起訴。

最高裁まで争われた結果、有罪が確定しました。

拙ブログでこの事件を取り上げたのは、まず共産党と朝鮮人が密接に繋がっており、彼らが騒乱罪で摘発される犯行を繰り返してきた歴史があることを知っていただきたいから。

騒乱罪が適用された案件としては、1952年に起きた 『血のメーデー事件』・『大須事件』・『吹田事件』 がありますが、そのいずれにも彼らが絡んでいます。


 ※日本共産党の歴史については、こちらの過去記事を参照。(↓)




過去記事のとおり、日本共産党は1922(大正11)年に設立されましたが、その当初から朝鮮の独立を綱領に掲げており、1930年代から日本在住の朝鮮人共産主義者は続々と日本共産党に所属。


同党系労働組合の全協(日本労働組合全国協議会)は、最盛時の1931(昭和6)年時点で組合員3万人の内3割が朝鮮人だったとか。

その蜜月関係は、1955(昭和30)年1月に在日朝鮮人との連携解消を宣言したことで終わりを告げました・・・が、同党はこういった過去の暴力事件に関して一切口をつぐんだまま。

そのくせ、現在に至るも暴力革命を目指すことに変わりはありません。

だから同党は公安調査庁の調査対象団体になっているのです。

かつて日本を震撼させ混乱を引き起こした共産党と在日朝鮮人が依然として我が国に存在していることを、私たちはしっかりと認識すべきなのです。うー


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【葬儀屋時代の思ひ出】 S L

「あの、そちらで葬儀をお願いしたいんですが・・・。」

突然高齢と思しき女性から電話がかかってきました。

聞き覚えのないお声でしたし、お名前を伺っても記憶のないその方は、以前お手伝いさせていただいたご葬儀の喪主様から弊社を勧められて電話されたとのこと。

大変ありがたいご紹介をいただいたわけですが、お話を伺うと予てより入院されていたご主人がその日の朝逝去され、まだ病院にいらっしゃる由。


すぐに寝台車のお迎えを手配し、ご自宅に搬送・安置させていただいた後、葬儀の打ち合わせに入りました。

奥様のお話では、90歳近い故人様はかつて国鉄で蒸気機関車の運転士をなさっており、その仕事に大変誇りを持っていらっしゃったとのこと。

葬儀には国鉄時代の後輩も何人か参列されると聞き、私はあることを思いついたのです。

通夜・告別式と葬儀は滞りなく進行し、導師様がご退堂なされた後に生花祭壇のお花を参列者の皆様から全て御柩に手向けていただき、喪主を務められた奥様からのご挨拶が済みました。


私は参列された数人の元・国鉄マンの方々に声をおかけし、御柩をお持ちいただくと、

「故人様、ご出棺でございます。」

と口上を述べると同時に、後方にいる女性スタッフに手で合図を・・・。

それを見た彼女が音響機器のスイッチを入れると、式場内には

〝ポォォォ~~~ッ〟


という蒸気機関車の汽笛が鳴り響き、その直後、

〝シュボッ・・・シュボッ・・・ボッ、ボッ、ボッボッボッ・・・〟

という蒸気の排気音が。


       


故人様のお旅立ちは、長年運転した蒸気機関車の汽笛と共に・・・そう思った私は、葬儀の前日にショップに行ってSLの音源が入ったCDを探し、ちょうど発車の瞬間の音が出るようにセットしておいたのです。

これは、奥様や会葬者には内緒のサプライズ。

ですから実際に皆さんがどんな反応をされるか分からなかったのですが・・・蒸気音と共に柩を外の霊柩車に運ぶ元運転士の方々の目からは、一様に涙が溢れているではありませんか。

そして式場内には、蒸気音と共にすすり泣く女性会葬者の嗚咽も・・・予想以上の反応に、仕掛けた私自身も感動。

そして火葬後の精進落としを召し上がり、会葬者を見送られた奥様からは

「渡辺さん、あの出棺の時のSLの音は、ビックリしましたョ。

でも後輩の方々も感じ入ったみたいだし、なにより主人が喜んだと思います。 本当に、ありがとうございました。」


と最後に言っていただけて、私はホッと胸をなでおろした次第。

式中のBGMに故人様のお好きだった曲を流すことはよくするのですが、たとえ一瞬でも人々の心に深く突き刺さる音がある・・・そんなことをあらためて認識させられました。笑3


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完 全

社会人になりたての頃、渡哲也さんに憧れていた私は休日のたびにレイバンのサングラスをかけて街に繰り出し・・・そして時々喫茶店に。


イカリ肩でサングラスかけたままの一見コワモテ風の私に、若い女性店員が近づいてきて、


「ご、ご注文は?」 


恐る恐るそう聞かれると、


「おう・・・バナナパフェ、頼むワ。」


思わず目がテンになる彼女たちの反応を見て楽しんでいた、おバカな私・・・今は激辛党員でも、20歳代半ばまでは甘辛両刀使いだったんです。


しかし〝スイーツ男子〟とやらが市民権を得ている昨今では、男性がパフェをオーダーしても何の違和感もないんでしょうネ。


今日・6月28日は、その

 パフェの日

なんだそうです。


    


私が生まれる前・・・今からちょうど70年前の今日・1950(昭和25)年6月28日に、巨人・藤本英雄投手が日本プロ野球史上初のパーフェクトゲームを達成したことに因んで制定されたとのこと。


        


何で野球とパフェが? と思いますょネ。


そもそもパフェという言葉はフランス語で 「完全な」 という意味の〝パルフェ (parfait)〟が語源だから・・・って、かなり強引なこじつけ?


そしてその本家・フランスには、〝パルフェ〟という名の立派なお菓子があるのだそうです。


卵黄に砂糖・ホイップクリームを混ぜて型に流し込み、それを凍らせたもの・・・つまりは、こんな感じ?(↓)


         


チョコレートパフェ、フルーツパフェ、プリンパフェ etc ・・・そんな日本の〝パフェ〟とは、似ても似つかないですょネ。あせあせ


どうやら、これらのパフェは日本で独自に、というか勝手に進化したようです。


そういえば、似たようなスイーツに〝サンデー〟がありますょネ。


こちらはアメリカから入ってきたらしいんですが、辞書を見ると


◆パフェ・・・アイスクリームに、生クリーム・チョコレート・シロップや果物・ジャムなどを添えてグラスに彩りよく入れた冷菓。


◆サンデー・・・アイスクリームの上にチョコレートや果実、クリームなどを添えた菓子。


う~ん、どこがどう違うんでしょう?


入れる容器? 地域? 日曜日に食べればサンデー?


(あっ、ちなみにサンデーの綴りは〝Sunday〟ではなく〝Sandae〟ですから、日曜日は無関係?)


ご存じな方がいらっしゃれば、教えてくださいまし。

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制 動

中高年世代で、特に寒冷地にお住まいだった方には馴染みがあると思いますが、30代以下の若者の殆どはコレが何だか分からないかも。 (↓)

       


接地面に金属が埋め込まれている、

 スパイクタイヤ

ですネ。 

これを若者が知らないのは、今からちょうど30年前の今日、『スパイクタイヤ粉じんの発生の防止に関する法律』 が制定・施行されたからでしょう。


凍結・圧雪路を安全に走行するため、タイヤに金属製の鋲を埋め込むスパイクタイヤは、1959年に北欧のフィンランドで開発され、以後急速に欧米で広まりました。

日本で国内生産が開始されたのは1962(昭和37)年でしたが、氷結路面では従来のスノータイヤに比べ抜群の制動性を発揮することから、その後1970年代に普及したとのこと。

しかしこのタイヤの普及によって、1980年代に入るとスパイクによって舗装路面が削られ粉じんとなって飛散し人体への悪影響があると指摘されると共に、再舗装費用がかさむことが問題化。

国内で最初に問題提起されたのは宮城県仙台市で、1983年には
宮城県が全国初のスパイクタイヤ対策条例を制定。

スパイクタイヤの販売が1985年にピークを迎える中、粉塵問題はますます問題となり、1986年には通産省がスパイクタイヤの出荷制限を指導。

そして1988年、公害等調整委員会において、スパイクタイヤメーカー7社と長野県の弁護士等との間で、スパイクタイヤの製造・販売中止の調停が成立。

翌1990(平成2)年6月27日に、前述の法律が発布・施行されたのです。

もちろんタイヤメーカーも手をこまねいていたわけではなく、粉じん問題が提起された直後の1984年には社団法人日本自動車タイヤ協会がスタッドレスタイヤ制動試験を実施するなど、後継となるスタッドレスタイヤの開発に着手。

同法施行後スタッドレスタイヤの発売を開始しています。

       

私自身、このスパイクタイヤ禁止の話題が出た頃は、ちょうど雪国・青森に赴任中。

雪がちらつくころになると、営業車のタイヤを自らジャッキアップしてスパイクタイヤに付け替えてました。

(スタッドレスはスパイクタイヤ同様の制動力があるんだろうか?)

と不安だったのですが、幸いにも同法施行直前に関東地方に転勤となり、スタッドレスタイヤでの運転はしなくて済みました。

その数年後新潟支店に転勤になって初めてスタッドレスタイヤで運転しましたが、メーカーの品質改良が進んだのか、私が思った以上に制動力があって安心したことを憶えています。

そうそう、その新潟で夏場でもスタッドレスタイヤをはいている取引先の社長がいらっしゃって、その理由を聞いたら、

「雪が降りそうになったら新品のスタッドレスにして、そのまま1年間乗るのサ。 そうすれば次の年に新品にするまで、タイヤ交換しなくていいだろ。」

と言われ、なるほど~と感心したことも。

さて私のようにスパイクもスタッドレスも経験した方は、スタッドレスに満足・安心されてますか?


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神隠し

皆さんは、グリム童話のひとつ


ハーメルンの笛吹き男

 Rattenfänger von Hameln


を読まれたことがあるでしょうか?

その昔ネズミが大量発生し、その被害に悩まされていたハーメルンという街に派手な服装をした流れ者が現れ、報酬と引き換えにネズミ駆除をもちかけます。

住民が報酬を支払うことを約束すると、その流れ者は笛を吹いてネズミをおびき出すとそのまま川に連れて行って溺れさせ、全てのネズミを見事退治。

しかし住民は約束を違えて報酬を払わなかったため、流れ者は激怒。

今度は笛を吹き鳴らして街の子供達をおびき出して洞窟に連れて行き、そのまま誰一人として戻ってくることはなく、親たちは悲観と後悔に明け暮れた・・・。

だいたいこんなストーリーなのですが、実はこれフィクションではなく、今から736年前の今日、実際に起きた事件を元にした物語なのです。

ハーメルンは、ドイツ・ニーヘダーザクセン州にある、人口約55,000人の都市。

    

1284年6月26日はちょうど聖ヨハネとパウロの祭礼の日にあたり、大人たちが朝から教会に集まっている隙を狙って男が笛を吹いて留守番をしていた子供たち130人をおびき出し、街はずれの山腹にある洞穴に連れて行くと、入口を岩で塞いだのだそうな。

その様子が、1300年頃ハーメルンに建てられた教会のステンドグラスに描かれていたといいます。


(この教会は1660年頃に破壊され、現存しているステンドグラスは過去の文献を参考に復元されたもの。)


  
     現存する最古の水彩画(1592年)     現在のステンドグラス


ネズミの大量発生も後に付け加えられた話だという説もありますが、実際行方不明になった130人もの子供たちはどうなったのか? これについては、

<◆笛吹き男は猟奇殺人犯で、全員彼に殺された。
◆子供たちは天災か病気で死んでしまった。
◆笛吹き男は十字軍のスカウトで、全員従軍させられた。


など様々な説がありますが、その中で信憑性が高いのは、当時の東ヨーロッパでは開拓者が盛んに移住していて子供が貴重な労働力であったため各地で誘拐事件が多発しており、ハーメルンの子供たちもルーマニアに連れ去られた・・・という説。

実際、ルーマニア中世に記された 『キルヒャーの見聞録』 には、「ある日突然、聞いたことのない言葉を話す子供が多数現れた」とあるそうですから、その一部がハーメルンの子供達だったのかも。

とすれば、これは史上稀な同時大量誘拐事件ってことになります。


また消えた130人は子供ではなく、集団でハーメルンの町を去った移民であり、笛吹き男は移民の仲介業者だったという説も。

いずれも今ひとつ決定打に欠ける気がしますが、皆さんはどの説を採用されるでしょうか?

因みにハーメルンでは、現在でもこの130人の子供達が通ったとされる道路で音楽を奏でたり踊ったりする事が禁止されているそうな。


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オンリーワン

一代で大企業を育て上げた実業家は数多いですが、その中でも自ら数多くの製品を発明・開発した人物といえば、私はまずこの方を思い浮かべます。


 早川 徳次


今日はこの〝日本のエジソン〟とも言われた、現・シャープ創業者の命日・没後40周年にあたります。


       


早川氏は1893(明治26)年、東京・日本橋に生まれました。


父親はなかなかのアイデアマン、母親も自らミシン縫製で事業を起こすやり手だったそうですから、早川氏には生まれつき発明家・実業家のDNAが息づいていたようです。


しかし母親が病に倒れたため、早川氏はまだ1歳11ヶ月の時にミシンの下請けをしていた出野家へ養子に出されました。


子供がいなかった出野家は彼を可愛がってくれたのですが、養母がその2年後に急逝。 

その後出野家に迎えられた後妻は、早川少年をひどく苛めたとか。


「小学校に行っている時だけが楽しかった」 という悲惨な毎日を送っていた彼に転機が訪れたのは、1912年。


15歳の時から丁稚奉公をしていた早川氏は、ある日観た映画で登場人物のベルトの先が長く垂れ下がっているのを見たことがキッカケで、長短自在に止められるバックルを考案し、特許を取得。


これと時を同じくして自分が養子であったことを知り、実兄と 『早川兄弟社』 を設立・・・実業家としての第一歩を踏み出しました。


そして同社が大きく飛躍するキッカケとなったのは、後の同社名にもなった〝シャープペンシル〟の開発。


元々原型となる製品はあったそうですが、早川氏はそれに付属グリップをつけるなど様々な工夫を凝らし、1920年に実用新案を取得。

ところが当初は不評で見向きもされず。

それでも新製品に絶対の自信があった早川氏は、
それを日本一の文具店である銀座・伊東屋に持ち込みます。


番頭さんからいろいろ難癖をつけられても挫けず何度も改良を加え、半年間で36種類も試作し続けました。


それが伊東屋の主人の目に留まり、やっとまとまった受注を獲得。


そしてこの画期的な筆記具は、むしろ海外で大好評。


それを聞きつけた国内の問屋から大量注文が入るようになり、その後も改良を重ねた 『早川式繰出鉛筆』 はシャープペンシルを名前を変え、これ1本だけで48種類もの特許を取得し会社を大きく発展させる原動力となりました。


ところが早川氏の人生は、その後ますます波乱万丈。


1922年に腸出血で生死の境を彷徨い九死に一生を得た翌年、今度は関東大震災で会社や自宅、更には妻と8歳・6歳の子供を全て失います。


更に取引先の日本文房具から借入金の返済を迫られ、やむなく同社に特許を無償譲渡するなどして借金を清算、ゼロからのスタートを余儀なくされました。


しかし彼は再び立ち上がります。


1924年に大阪に出て早川金属工業研究所(※シャープの前身)を設立すると、ラジオに着目。

     


ちょうど東京や大阪でラジオ放送が始まったこの頃に、同社は小型鉱石ラジオを開発し、1929年には真空管ラジオを発売。


折からのラジオ・ブームに乗って会社は急成長、1942年に社名を早川電気工業に改称。 


その後も朝鮮戦争特需などを経て、テレビ・電卓などの開発に成功し総合電機メーカーに成長した同社は、早川氏が会長に退いた1970年に社名をシャープに改称し、現在に至っています。


そんな早川氏を私は尊敬してやみませんが、それはその経営手腕よりも人間性に関して。


継母に苛められた幼少時代、見かねた盲目の女性に助けられ奉公先を紹介してもらったことをきっかけに、早川氏は常に他人に優しかったとか。


自分を騙した男を 「真面目に商いせなあかんで」 と諭しただけで許したり、自宅に連れ帰って面倒を見てやった行き倒れの若者がカネを待ち逃げしても怒ったりしなかった、といいます。


失明者が働ける会社を作ったり、福祉会館建設に多額の寄付をしたことは、全てその幼少時の体験に根差しているのでしょう。


まさに七転び八起きの人生、何度かの会社存亡の危機を乗り越えわれたのは、早川氏の経営手腕もさることながら、その人間性・徳性があったればこそ・・・と思えてなりません。

       

          『私の考え方』 (早川徳次・著 浪速社・刊)


残念ながら現在のシャープは、経営の失敗から外資傘下に。


是非、早川氏の言葉・・・「他社に真似される商品をつくれ」を 思い出し、独自製品の開発で挽回を図って欲しいもの。


モノ作り日本の代表格・シャープの復活を願いつつ、1980(昭和55)年6月24日に87歳で逝去された稀代の発明王・大実業家のご冥福をお祈り致します。笑3

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貧乏食 <下>

(一体、どうやって食うんだ?)


私が横目で、また店員もチラチラと見る中・・・彼はカウンターに置かれた餃子用のラー油と醤油をドボドボとライスにかけて、食べ始めたのです!驚き顔


全く無表情のままでライスを口に運ぶ彼を見て、私はただただ呆然。


そして1枚目の皿を食べ終わろうとした時、店員が彼に声をかけました。


「兄ちゃん、それじゃ寂し過ぎるだろ。 

コレ食いな、サービスだから。」


そう言いながら、野菜炒めをカウンターに置いたのです。


彼は上目遣いで店員を見てコクッと頭を下げると、その野菜炒めをラー油まみれの2枚目のライスと共に、さっきよりも美味しそうに食べていました。


       


それを見て思わず 「オ、オレにも・・・」 と言いそうになり、喉元で危うく言葉を飲み込んだ私。うー ナサケナイ・・・


(慶応にも自分より金欠な学生がいるんだなァ)


 と、妙にホッとした夜でした。


今にして思えば、以前爆発的にヒットした 〝食べるラー油〟・・・開発した桃屋さんの担当者は、昔似たような経験をしたことがあるのかもしれません。


でも私、本当は彼のことを笑えないんです。 


子供の頃空腹に耐えかね、炊飯器に残っていた冷や飯に醤油と味の素をふりかけ、そこにお湯を注いだ〝醤油茶漬け〟をオヤツ代わりに何度も食べていたんですから。あせあせ


これに負けない貧乏食を見たり聞いたり、また食べたことのある方は是非経験談をご披露下さい。


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貧乏食 <上>
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制 圧

過去我が国では様々な人質事件が発生しましたが、今から25年前の今日・1995(平成7)年6月21日に起こった


 全日空857便ハイジャック事件


は、個人的に印象深い出来事として記憶に残るものでした。


乗客・乗員365人を乗せた羽田空港発・函館空港行きのジャンボ・ジェット機は、同日午前11時45分頃にオウム真理教信者を名乗る中年男性によってハイジャック。


犯人はサリンを所持していると言って乗務員を脅し、東京に引き返すよう執拗に要求しましたが、結局函館空港に緊急着陸。


食料の差し入れや人質の解放を頑なに拒否し膠着状態が続きましたが、事件発生から16時間後の翌日午前3時42分・・・夜明け前の夜陰に乗じて警察が突入を決行。


僅か2分で呆気なくハイシャック犯は逮捕され、事件は解決。


    


犯人はオウム信者ではなく精神疾患で休職中だった53歳の某信託銀行員であり、所持していた透明な液体はサリンではなく、ただの水でした。


            


事件としては比較的早期の解決となったこの事件に関して、印象深い理由は2つ。


まずひとつは、乗客の中に歌手の加藤登紀子さんがいたこと・・・ではなくて、同乗していたバックバンドのメンバーが所持していた携帯電話でトイレから警察に通報したこと。




それによって犯人が1人である等の情報が警察に伝わり、事件の早期解決に貢献したから。


携帯電話の普及が、事件・事故の解決に大いに役立つことを教えてくれました。

現代は誰もがスマホによる動画撮影をしていますから、その貢献度は更にアップしていると言えましょう。


そして2つ目は、突入時に活躍した特殊部隊SAP Special Armed Police ) の存在を知ったこと。


1977年に起きたダッカ日航機ハイジヤック事件で、日本は超法規的措置により犯人の要求を受け入れて逮捕されていた過激派グループのメンバーを釈放し、国際的な非難を浴びました。

 ※ダッカ日航機ハイジャック事件に関する過去記事は、こちら。(↓)



ところがその1ヶ月後に起こったルフトハンザ航空機ハイジャック事件において、西ドイツ政府は犯人の要求を拒否した上で人質救出に成功。


この時に強行突入を成功させたのが、1972年のミュンヘン五輪におけるイスラエル選手団人質事件を教訓にして同国に創設された特殊部隊〝GSG-9〟でした。


これを見た警察庁は同年11月にハイジャック対策を主要任務とする特殊部隊を警視庁と大阪府警に設置。


1980年代から警視庁の部隊がSAPと呼ばれていましたが、その存在はあくまで極秘でした。


その彼らがこのハイジャック事件で機内への突入を果たしたのをテレビカメラが捉えたことにより、その存在が初めて明らかになったのです。


    


現在はSAT(Special Assault Team ) と改称 (※正式名称は特殊部隊) され、警視庁・大阪府警・北海道警・千葉県警・神奈川県警・愛知県警・福岡県警・沖縄県警に総勢約300人が配備されているとのこと。


イザという時に、頼りになるはずです。

とは言え、彼らが出動する状況にならないことが、ベストですが・・・。

余談ですが、犯人のコバヤシサブロウ(搭乗者名簿にそう記されていましたが、これは偽名)は札幌高裁で懲役10年を言い渡され収監されたものの、既に出所しているはず。

本名は非公開で分かりませんが、生きていれば現在78歳。
どこで、何をしているのやら・・・。

それと民事裁判で命じられた全日空への賠償金5,300万円、ちゃんと支払ったのかどうか?


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8cm

今では吸う人がめっきり減った、タバコ。

1949年に日本専売公社(現・JT)が発足する前後に販売されていたタバコは、ピースやしんせい・いこいのようにフィルターなしが当たり前。

 
※ピースに関する過去記事は、こちら。(↓)



そんな中、初めてフィルターがつき、長さ8.0cmのロングサイズたばことして、またそれまでになかったセロハン包装された

 ハイライト
   hi-lite

が70円で新発売されたのが、今からちょうど60年前の今日・1960(昭和35)年6月20日のことでした。


       


hi-liteは俗語で「最も陽の当たる場所」という意味だそうですが、ロングサイズで当時最もタールが軽いたばこだったことから、high(長い)-light(軽い)という造語にしたという説も。


この画期的なたばこは発売と同時に爆発的な人気となり、僅か2週間で4億本も売れ、1968年には売上世界第1位に。

1960年代に専売公社職員にアンケートを取ったところ、最も吸われていたのがハイライトだったそうですから、その人気ぶりが伺えます。

井上順之の 『お世話になりました』(1971年) やアリスの 『狂った果実』(1980年) の歌詞にも登場するなど、高度経済成長期を象徴する銘柄でした。

それを象徴する都市伝説(?)が、ひとつあります。

このハイライト発売から4年後の1964(昭和39)年、東京五輪開幕直前に開業した東海道新幹線。

その車両・0系の塗装色が、このハイライトのパッケージ・カラーから採用されたというのです。

何でも車体配色に悩んでいた国鉄の担当者が、会議室の机の上に置かれていたハイライトの箱を見て即決したのだとか。


    

事の真偽は分かりませんが、確かに同じ配色ではあります。


※因みにコバルトブルーの地にhi-liteの白文字、上部には黒線8本が放射状に描かれているパッケージをデザインしたのは、後に著名なイラストレーターとなった和田誠さん。

後にハイライトブルーとも称されたその色は、東海道新幹線の2ヶ月後に開業した営団地下鉄・東西線の車体色にも採用されたそうな。

社会的に様々なインパクトを与えたハイライトですが、
やがて愛煙家の嗜好が軽い味に移行したことで、主役の座はセブンスター系に奪われることに・・・。

しかし現在もタール17mg、ニコチン1.4mgと重く、香料にラム酒フレーバーを使用して一箱450円で販売されているロングセラー・・・皆さんやお知り合いで吸っていらっしゃる方は、いますか?


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