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闘 將

中高年の野球ファンの方なら、1973~2014年の長きに渡りビックコミックオリジナル誌上で連載された水島新司先生の代表作 『あぶさん』 を読んだことがあるでしょう。


         

今日は、同作の主人公〝あぶさん〟こと景浦安武選手のモデルといわれている


   まさる
  景浦 將  選手


の命日・没後75周年にあたります。


        


景浦選手は1915(大正4)年に材木商の息子として愛媛県松山市に


生まれました。

小柄で痩せていたため当初は野球ではなく剣道に打ち込んだそうですが、野球の名門・松山商業高校に入学したことで運命が決まります。

2年生まで剣道部に所属したものの、3年生になった時に部員不足の野球部にスカウトされて入部。

剣道で鍛えた強い手首から繰り出される鋭い打球と速い投球ですぐにレギュラーとなり、1931・32年の春・夏連続で4回甲子園に出場し、全てベスト8以上、優勝1回・準優勝1回を為し遂げます。

そして立教大学に進学した彼は1年生から長距離ヒッターとして活躍したばかりか、投手としても4勝1敗の好成績をマーク。


しかし実家が抱えた多額の借金を返済するため、彼は1936年に立教大を中退して大阪タイガースに入団。

同年秋季リーグでは0.79で最優秀防御率、6勝0敗で最高勝率を獲得。

       


翌1937年には3塁手・4番打者として秋季に首位打者、同年と翌年の春季には打点王を獲得。

1学年下のライバル・巨人軍の沢村投手を打ち込むなどして、大阪タイガースの日本一連覇に大きく貢献しました。

 ※沢村投手に関する過去記事は、こちら。(↓)



そんな景浦選手の活躍を阻んだのは・・・沢村投手同様、戦争でした。


1939年に一度目の応召で出征。

1943年に球界復帰した時には、重い手榴弾の投げ過ぎで肩を壊しており、負担の少ない一塁手への転向を余儀なくされ、同年のシーズン後に引退を表明。

そして翌1944年に2度目の応召で満州へ。

そこで慰問に訪れていた同郷の前田山関は、歯が抜けてすっかり痩せてしまった姿を見て、景浦選手とは気づかなかったとか。


そして彼の所属する部隊がフィリピンに移動し、同地で1945年5月20日に死亡した・・・という公報が実家に届いたとのことですが、詳細は不明。

遺族の元に届いた骨壺には、石ころが3個入っていただけ・・・プロ野球黎明期を支えた大スター選手の最期としては、あまりに辛く悲しいものでした。

遠投で144mというとんでもない記録を持ち、ラッキーゾーンのない甲子園球場でスタンドに放り込める並外れた強肩・パワーの持ち主。

その一方で、気に入らないことがあると、楽に取れるフライも追いかけなかったというムラッ気の多い選手だったそうですが、そんなヤンチャなところも人気の所以だったのかもしれません。

沢村投手同様、実に惜しい選手を失ったものです。

1965年に野球殿堂入りを果たした〝闘將〟景浦選手のご冥福をお祈り致します。


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