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報道協定

私のような昭和世代の方は、誘拐事件というと1963(昭和38)年3月に起きた 『吉展ちゃん事件』 を思い出す方が多いと思います。

この事件が起きた直後に、通っていた幼稚園で 「知らないおじさんについていっちゃ、ダメですョ」 としつこく注意されたことを憶えています。

しかしこの事件以前に、その後の誘拐捜査や報道の在り方に問題点を投げかけた誘拐が起きていました。

それは、今からちょうど60年前の今日・1960(昭和35)年5月16日に発生した


 雅樹ちゃん誘拐殺人事件

当日朝、東京・世田谷区に住む会社経営者の長男で、慶應義塾幼稚舎に通う雅樹ちゃん(6歳)がお手伝いさんに見送られていつも通りバスに乗車して学校に向かいました。

ところが同日午前11時過ぎに男の声で自宅に「息子さんを預かっています」と言って、現金200万円を要求する電話がかかってきたのです。

お手伝いさんに持たせるなど運搬方法を細かく指示し、かつ警察に通報しないよう要求する内容に驚いた両親は学校に連絡して息子が登校していないことを確認すると、警察に届け出ます。

同日午後2時30分頃2回目の電話が入り、その後犯人の指示通りにお手伝いさんが行動するも、犯人は現れず。

翌日も電報による指示が届き、その通りに動くも犯人は現れず、その日の夜に「警察が動いている」という電話を2度かけてきたのを最後に、プッツリと連絡は途絶えました。


そして翌18日朝、新聞などマスコミ各社が誘拐事件の報道を始めるとすぐに、「似た男の子を見た」という女性の証言を元に警察がその杉並区内の居宅を張り込み。

しかし同日午後8時過ぎ、停めてあったルノーに乗り込んだ容疑者は猛然と走り出し、慌てて追いかけたものの警察は見失ってしまいます。

翌19日朝、乗り捨てられたルノーが杉並区上高井戸の路上で発見され車内から雅樹ちゃんの遺体が発見されるという、最悪の結果となりました。

犯人として指名手配されたのは、杉並区下井草で歯科医院を経営する本山茂久(当時32歳)。

       


新潟県の豪農の長男として生まれた彼は、小学校時代は優秀かつ真面目でおとなしい生徒で、東京歯科大学卒業後勤務医となり、1956年には実家から資金援助を受けて念願の歯科医院を開業。

2児の父として将来を約束されていた・・・はずでしたが、それが気の緩みを招いたのか、彼は愛人を作って二重生活を始めてしまい、それが元で借金を作り離婚。

慰謝料の支払いも途絶え、金に困った末に1960年4月即ち犯行の前月にフランスで起きた自動車メーカー・プジョーの会長の孫が誘拐された 『エリック坊や誘拐事件』 を真似て、慶應幼稚舎に通う子なら親は金持ち・・・という単純な思い付きから犯行に及びました。

エリック坊やは無事保護されましたが、警察に追われたことで目算が狂い人質の雅樹ちゃんを絞殺した本山は、そのまま関西に逃亡。

しかし指名手配されてから2ヶ月後、「犯人に似ている」という通報がもたらされ、敢え無く御用。


       

身勝手な犯行を引き起こして罪のない子供の命を奪ったくせに、この男の生への執着は凄まじく、公判中に自分の大便を食べるなど精神異常者のふりをし、死刑判決が出され執行当日にも鉄格子に噛みついて刑場に行くのを嫌がり歯が折れるほど抵抗。

仕方なく鎮静剤を打たれ、執行時は意識朦朧状態だったとか・・・。うー

犯人も低レベルな人間でしたが、一方警察やマスコミもお粗末でした。

犯人宅のお手伝いさんから「子供がいる」という通報がありながら、外車を乗り回す歯科医が営利誘拐などするはずがない、と思い込み初動捜査が遅れたこと。

そして犯人に警察の動きを察知された時点で、被害者家族から捜査から手を引くよう懇願されながらも捜査を継続。

更に張り込んでいながら犯人の車を見失ったこと。

もしここで逮捕していれば、雅樹ちゃんは無事保護されていました。

更に犯人逮捕後、捜査関係者280人が集まって慰労会を行ったことも、世間から批判を浴びたとか。

一方マスコミも、先を争って報道合戦を繰り広げたことで、犯人の焦りを助長したと言えましょう。

この事件後、現在では当たり前の〝報道協定〟が結ばれることになったそうですが・・・いつの時代でも、犠牲者が出なければ進歩しないのが人間の愚かさといえそうです。


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