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遺 恨

面積592.55㎢は、シンガポー.ル島とほぼ同じ。

本州・北海道・九州・四国・択捉島・国後島・沖縄本島・佐渡島・奄美大島・対馬に次いで第11位で、人口約13万人を抱える島は、どこでしょう?

ちょっとイメージしづらいクイズでしたが、正解は『淡路島』。

    

この瀬戸内海最大の島島は現在兵庫県に含まれていますが、江戸時代から明治維新後しばらくは、四国(現在の徳島県)と密接な関係にありました。

それが兵庫県に編入されるキッカケとなったのが、今からちょうど150年前の今日起きた


  こう ご 

庚午事変

というお家騒動でした。


起きた年が庚午だったためにそう呼ばれていますが、別名『稲田騒動』ともいわれるこの事件は、長年にわたる城主と家臣による軋轢が頂点に達したことで勃発しました。

江戸時代、幕府は大坂の陣で活躍した、元豊臣秀吉の家臣として有名な蜂須賀正勝(小六)に淡路国と阿波国の加増を認めましたが、小六がこれを固辞。

 ※蜂須賀正勝に関する過去記事は、こちら。(↓)



息子の家政が阿波国に封ぜられましたが、父・正勝と義兄弟の契りを交わしたという稲田植元を客将として招き、淡路国と阿波国北部を知行地として任せました。

しかし蜂須賀氏が次第に稲田氏を対等の立場ではなく家臣として扱うようになってから、両家に軋轢が生じるように。

そして幕末期、蜂須賀家すなわち徳島藩側が佐幕派だったのに対し、稲田家側は尊王派となり、対立は深刻化。


明治維新後、徳島藩の禄制改革により蜂須賀家の家臣は士族とされたのに対し、稲田家々臣は(士族より下の)卒族とされたことに憤慨。

徳島藩に士族編入を訴えたものの、それが叶わぬと見るや、洲本を中心に徳島藩から淡路を独立させ稲田家を知藩事とする稲田藩の擁立を画策。

尊王派だったことから稲田家はそれが明治政府によって認められると踏んでいましたが、蜂須賀家が黙って見ているわけはなし。

1870(明治3)年5月13日、怒った一部の徳島藩々士らが
洲本城下の稲田家とその家臣らの屋敷を襲撃。


(前日には徳島でも稲田屋敷を焼き討ちし、稲田家の配地に進軍していました。)


これに対し、士族昇格を願う稲田家は無抵抗を貫き、自決2名・死者15名・重傷者6名・軽傷者14名、他に投獄監禁された者300名余、焼き払われた屋敷が25棟という大きな犠牲を出しました。


当時は版籍奉還後も以前の藩主がそのまま知藩事になるなど旧体制と殆ど変わりがありませんでした。

しかし中央集権化を目指す新政府にとって、この事件は何としても沈静化する必要が。

結局、新政府は襲撃した徳島藩側の首謀者ら10名に斬首刑を言い渡しますが、後に藩主・蜂須賀
茂韶(もちあき)の嘆願により切腹に。

※これが、日本史上最後の〝切腹刑〟となりました。(法的にはこの3年後切腹が禁止に。)


       

                      蜂須賀茂韶


 その他八丈島への終身流刑27名、禁固刑81名、謹慎多数。

徳島藩の取り潰しは免れたものの、知藩事の蜂須賀
茂韶や参事らも謹慎処分を受けました。

一方
稲田家側に対しては、この事件を口実に兵庫県管轄の士族として北海道静内と色丹島への移住開拓が命じられ、彼らは北の大地に転居することに。

それでも士族となったことで、彼らの大義名分は立ったのかも。

そしてこの事件翌年の廃藩置県や1876年の第2次府県統合により、淡路島は兵庫県管轄となりました。

もし当該事件がなければ、淡路島は徳島県管轄になっていた可能性が大。

ちなみに事件後、蜂須賀家側と稲田家側の確執は子供同士の付き合いにまで影響が残ったそうですが・・・150年経過した今でも、地元ではそのシコリは残っているのでしょうか?

現地にお住まいの方からの情報をお待ちしています。
あせあせ


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