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マスコット

今日は、元プロ野球選手


 島野 修 さん

の命日・没後10周年にあたります。

・・・と言っても、「そんな選手、いたっけ?」と首を傾げる方も多いと思いますが、この写真を見ればお分かりになるはず。


     


そう、かつて阪急ブレーブス~オリックス・ブレーブス~オリックス・ブルーウェーブの球団マスコット〝プレービー〟〝ネッピー〟のスーツアクターとして多くのファンを楽しませてくれた人物でした。

でも島野さん、選手としても元々は有望株でした。

1950(昭和25)年に横浜で生まれた島野さんは、中学校時代に野球を始めました。

しかし家庭が裕福でなかったため新聞配達のアルバイトをしていた苦労人で、それ故特待生として授業料が免除されるという理由で、神奈川県の強豪・武相高校に進学。

2年の夏にはエースとして活躍し、甲子園に出場。

翌年には県予選でノーヒットノーランを達成して2年連続で甲子園に出場し、その年のドラフト会議では、巨人が指名予定だった明大・星野仙一投手から急遽川上監督の意向で島野投手を1位指名。

当時としては破格の契約金1,500万円で入団しました。

       

        宮崎キャンプで川上監督の前で投球する島野投手

しかし実際には高校時代の投球過多が響いて入団時から肩痛に悩まされており、初勝利は入団3年目になってから。

1974年秋にニューヨーク・メッツとの親善試合で2勝し、翌春のベロビーチ・キャンプでアトランタ・プレーブスを完封して長島新監督に評価され先発ローテーションに入ったものの、勝ち星には恵まれず。

1976年までの4年間で僅か1勝(4敗)に留まりました。

翌1976年に阪急にトレードされたものの、在籍3年で1軍での登板はなく、1978年にひっそりと引退。

その後芦屋市内でスナックを経営していた島野さんに1981年、突然阪急の球団マスコット〝ブレービー〟の着ぐるみ役の話が持ち込まれました。


何でも宴会での島野さんの明るさを憶えていた球団幹部が白羽の矢を立てたそうですが、島野さんは首を縦に振らず。

しかし改めて球団事務所に断りに行った際、メジャーリーグのサンディエゴ・パドレス
で活躍する〝フェイマスチキン〟のビデオを見せられます。

       

更に担当者の


「野球を知らないいと、できない仕事」

という殺し文句(?)に、お客さんが少しでも増えるなら・・・と、一転オファーを引き受けることに。

やると決めたら、そこはプロ。

人形劇団で特訓を重ねた後、1981(昭和56)年4月11日に西宮球場で〝ブレービー〟が初お目見え。

すぐさま人気者となり、阪急電車のホームや先頭車両などにイラストが登場するなど、注目を浴びました。

しかしそれ故に心無い一部メディアから、〝ドラ1選手、今は道化に〟等とネガティブ報道をされ、島野さん本人も一時期悩んだそうですが、球場近くの店で飲んでいた際、


「ブレービーがめちゃくちゃ面白かった」
「またブレービーを見たいから球場に連れて行って」

と親にせがむ子供の声を聞き、迷いが吹っ切れたといいます。

それ以降もファンを楽しませ続けた島野さんは、途中パフォーマンスで失敗・転倒して肋骨を3本折りながらも決して休まず、1998年11月までの11年間・1,175試合全てグラウンドに立ち続けました。

       


しかしこの着ぐるみ役は、1試合で体重2,3kg落ちる程の重労働だったそうで、もしかしたらそれが彼の寿命を縮めたのかもしれません。

2010(平成22)年5月8日、島野さんは脳出血により59歳でこの世を去りました。

個人的には、日本プロ野球界のマスコット草分けとして是非島野さんの野球殿堂入りを願いつつ、あらためてご冥福をお祈り致します。


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