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強 打

人気ボクシング・コミック 『はじめの一歩』 で、主人公・幕ノ内一歩が編み出した必殺パンチは、〝デンプシー・ロール〟。

今日は、そのパンチの元祖である元世界ヘビー級チャンピオン、


 ジャック・デンプシー

Jack Dempsey


の命日にあたります。


       


(本名:ウィリアム・ハリソン・)デンプシーは、1895年に貧しい靴屋の息子としてコロラド州マナッサで生まれました。


その後ウェストバージニア州やユタ州で育った彼は、家計を助けるために小学校を中退して16歳の時に家を出て炭鉱夫に。

そして賭け試合のボクサーや用心棒をして国内を放浪していた最中、その強さと野獣の如き鋭い目つきを見込まれ、ボクシングの世界へ。

それまでのボクシングは、後ろ足に重心をかけるスタイルでしたが、彼は初めて前掲姿勢を取って体をゆすり、その反動で左右の強烈なパンチを繰り出すスタイル、即ち〝デンプシー・ロール〟で強打を連発。

1919年に入って5連続初回KО勝利を飾った彼は、その勢いに乗って、同年7月4日に世界タイトルマッチに臨みます。

チャンピオンは、黒人初の世界ヘビー級王者ジャック・ジャクソンを破って国民的英雄となった、身長2メートル近い大男のジェス・ウィラード。

対するデンプシーは身長185cm・体重85kgと、ヘビー級ボクサーとしては当時でも小柄な部類。

しかし彼は臆することなく、チャンピオンに向かって猛突進・・・初回にいきなり7度のダウンを奪う(※当時はスリーノックダウン制はなし)と、その後もパンチを浴びせ続け、3回終了後TKOで勝利。

 ※その試合の模様を、こちらでご覧いただけます。(↓)



ご覧になってお分かりの通り、現在ならとっくにレフェリーストップになる一方的な試合。

しかし当時はラウンド途中でレフェリーが試合を止めることはなく、またダウンしても選手はニュートラルコーナーに下がらず、立ち上がった相手にすぐパンチを浴びせられましたから、グロッギーな選手は、まさにサンドバッグ状態。

この試合で負けたウィラードは顎を7ヶ所も骨折して歯も数本折られ、頬骨と肋骨数本を骨折、おまけに片耳の聴力を著しく失う羽目に。

また一方のデンプシーも、試合開始前に 「初回KО勝ちしなければ、ファイトマネーを支払わない」 とプロモーターから通告されており、事実その通りギャラはゼロ。

この〝トレドの悲劇〟と呼ばれた試合でデンプシーはチャンピオンになったものの収入はなく、おまけにあまりに凄惨な内容だったことから、彼にはすっかりヒール(悪役)のイメージが定着してしまいました。


1921年7月に行われた3度目の防衛戦では、アメリカで試合が行われたにも拘わらず、観客は相手のフランス人ボクサーを応援したそうですから・・・。

しかしこの試合で劣勢を挽回しKО勝ちを収めたデンプシーは、ようやくその実力通りの評価を手にすることができました。


その後も勝利を重ね、「大統領の名は知らずとも、デンプシーの名を知らぬ者はない」 とまで言わしめる超人気ボクサーになった彼は、通算戦績83戦 62勝(50KO)6敗9引分け 6無効試合を残して引退。


その後プロモーターを務めましたが、現役時代から付き合いのあったアル・カポネ一味から八百長試合を強要されるなどしたことから業界から手を引くことに。

とは言え、知名度を利用しマイアミ・ビーチでジャック・デンプシー・ホテルやレストラン経営に乗り出した際には、マフィアとの関係は続いたそうですが・・・。


プロモーター業からは手を引いたものの、1960~70年代にはモハメド・アリやジョー・フレージャーの試合会場にはよく顔を出していた彼が87歳でこの世を去ったのは、1983年5月31日のことでした。

       

現在のボクシングとは違う荒っぽい拳闘の世界を生き抜き、日本の漫画でその名を残す〝拳聖〟の冥福を、あらためてお祈り致します。


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広 場

今からちょうど70年前の今日、

 人民広場事件

が起きました。 名称からして支那の事件だと思われる方もいらっしゃるでしょうが、場所は日本。

では人民広場って、どこ? 

実は、皇居前広場だったのです。

       


敗戦翌年の1946(昭和21)年、戦後初の中央メーデーが皇居前広場で開催され、以後4年間毎年開催されていました。

それ以外にもその4年間で各種集会が40回も行われ、共産党を中心とする左翼勢力の間では、皇居前広場を〝人民広場〟と呼ぶように。

ホント左翼って人民とか市民って言葉が好きですネ。

しかし日本を占領・統治し民主化・非軍事化を進めていた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は彼等左翼勢力、とりわけ共産党の台頭を危惧。

1950(昭和25)年5月3日、同党の非合法化を検討している旨の声明を発表。

当然のことながら、共産党は激しく反発。

翌月4日に参院選を控えていたこともあり、同党は民主民族戦線東京準備会を指導して、同年5月30日に皇居前広場(人民広場)で大規模な人民決起大会を開催しました。

その最中、私服警官の潜入を追及したことをキッカケに警備をしていた占領軍と小競り合いとなり、民主青年団東京都委員長ら8人の労働者・学生が逮捕されたのです。


共産党は翌々日の6月1日に参院選の選挙妨害だとGHQを批判。


しかしアメリカからすれば、これは日本人が米兵を攻撃し負傷させた占領史上初めての事件であり、しかもその年の5月30日は同国にとって戦没将兵を追悼する〝メモリアル・デー〟(毎年5月り最終月曜日)でしたから、最悪のタイミング。

アメリカ国内でもこの事件が大きく報道されたため、マッカーサーはGHQの威信をかけて厳正な処理を行うよう指示。

事件翌日の31日に逮捕された8名は軍事裁判にかけられ、6月3
日に重労働10年などの有罪判決が下されました。

また警視庁は6月2日、GHQからの要求により当分の間東京都内の一切の集会・デモを禁止。

更に同月6日には日本共産党中央委員会委員24名の公職追放と、機関紙 『アカハタ』 の発行禁止命令を出し、レットバージを本格化させました。

とは言え、現在も公安調査対象団体たる共産党は、公党であり続けています。

この時強権を発動して共産党を非合法化していれば、この2年後に『血のメーデー事件』も起きなかったでしょうし、未だに日本の足を引っ張り続ける同党を潰せていたはず・・・そう残念がる人は、私だけではないでしょう。

 ※『血のメーデー事件』に関する過去記事は、こちら。(↓)


ちなみにその後皇居前広場において、大規模な政治集会は行われていません。

それだけが、救いです。


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【特別増刊】  玉 砕

皆さんは大東亜戦争の中期、日米両軍の間で交戦した


 アッツ島の戦い


をご存知でしょうか?

この太平洋上の小島での交戦を敢えて取り上げたのは、大本営が初めて〝玉砕〟という言葉を国民に対して発したから。

一般的に日米間の交戦はハワイ・真珠湾から始まって南方で展開されましたが、このアッツ島は逆に北方・・・アリューシャン列島のひとつ。(

       


なんでこんなところに日本軍が・・・と怪訝に思えますが、これはその前年のミッドウェー開戦に備えた陽動作戦として、このアッツ島(とすぐ近くのキスカ島)を攻略し、守備隊として2,650名を投入して飛行場などを建設したのです。

そのミッドウェー海戦で勝利を収めた米軍がロックウェル少将率いる11,000名もの兵員を率いて同島の奪還を目指し上陸作戦を開始したのは、1943(昭和18)年5月12日のこと。


迎え撃つ日本軍守備隊の司令官は、同年4月に赴任したばかりの山崎保代(やすよ)大佐(※没後2階級特進で中将)

        


開戦直後から圧倒的な兵力・火力を有する米軍を目の当たりにして、山崎大佐は大本営に歩兵1,500名と武器・弾薬・食料の補給を打診。

しかし大本営はキスカ島からの撤退はしたものの無情にもアッツ島は見捨て、一切の補給をしませんでした。


仕方なく山崎大佐は硫黄島の栗林中将と同様、兵を内地・高地に撤退させ米軍を迎え撃つ作戦に出ましたが、兵力と火力の差は如何ともし難く、同月28日にはほとんどの兵力・弾薬を喪失。

そして翌29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決し、山崎司令官は生存者を本部前に集めると、各将兵を労った後に

「機密書類全部焼却、これにて無線機破壊処分す。」

と大本営宛てに最後の打電をすると、約300名の兵と共に米軍本部に向かって突撃し全員が玉砕して果てました。

山崎大佐の遺体は、日本兵の先頭で発見されたといいます。

この戦いに参戦していた米兵は、後に

「あれは、バンザイと叫びながら自殺のための突撃だった。

 日本兵は爆発物を巻きつけて、死のうとしていた。 

 私たちを殺しに来ると同時に、彼らは死にに来たのだ。」


と証言しています。

日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜として生き残ったのは僅か27名・・・生存率はたったの1%。

対する米軍は戦死者約600名、負傷約1,200名でした。


    

           米軍が撮影した、玉砕した日本兵の遺体

実際は〝全滅〟だったのに、なぜ大本営は〝玉砕〟という言葉を使って発表したのか?

それはミッドウェー海戦で大敗を喫して以降、戦況が刻々と不利になっている状況をひた隠しにしてきた大本営が〝全滅〟という国民にとってショックが大きい言葉を使えなかったから。

また部隊を見殺しにした軍幹部に対する責任論を回避するため、とも言われています。

いずれにせよ、大本営の保身を目的としたカムフラージュであることに違いはないでしょう。


〝玉砕〟は、決して日本兵の潔さや忠誠を誓ってのものではなく、大本営の無策・無責任のせいで犠牲になった兵士たちの、無念を象徴した言葉・・・私にはそう思えてなりません。

77年前の今日、北方の小島に散った山崎中将以下2,600名余りの英霊に、黙祷を捧げたいと思います。笑3


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礼 儀

先月3日、作家のC・W・ニコルさんが79歳で我が故郷・長野市で亡くなられました。

日本人女性と結婚し、日本に帰化。

自らを〝ウェールズ系日本人〟と称し、日本人よりも日本人であった彼に関する思い出話を同じ作家の五木寛之さんが月刊『致知』6月号のエッセーで披露されていましたので、以下に一部編集にてご紹介致します。

           ◆     ◆     ◆     ◆


ニコルさんはウェールズ出身の日本人である。

ドナルド・キーンさんと同じく異国に生まれ、日本を愛し、この国に帰化して日本で死んだ。

ニコルさんは冒険家であり、自然環境保護運動家であり、そして作家でもあった。

若い頃プロレスの前座を務めたことがある、というのはニコル伝説の一つだが、堂々たる体格と草花のような繊細な感覚の持ち主だった。

何十年か前、F・フォーサイスが来日した折に、帝国ホテルで私がインタビューをしたことがある。

その時、少年のように興奮して

「通訳はボクに任せてくれ」

と言ってきかなかったのがニコルさんだった。

当日フォーサイスと会った瞬間、ニコルさんはすごくあがってしまって滑らかに口が動かない。

これはまずかったかな、と思ったが後の祭りだった。

堂々たる体格のニコルさんが、しどろもどろになっている姿が面白かった。

       

そんなニコルさんが極地探検の体験を語ってくれた中で、興味深かったのが、

「どんなタイプの人が極限状態の中で強いか」

という話だった。

体力でもない。 勇気でもない。

寒気と嵐の中で何日も耐え抜くことのできる人間は、礼儀正しいタイプのメンバーだったというのだ。

テントの中に閉じ込められて何日も何日も待つ。
いつ嵐が過ぎ去るか知る術もない。
誰もが苛立ち、時には口論したりする。

そんな中で、最後まで耐え抜くことができる男は、意外なことに〝礼儀正しい男〟だったというのだ。

朝、起きるときちんとひげを剃る。
髪をなでつけ、歯を磨く。

顔を合わせると笑顔で 「おはよう」 と挨拶する。
横をすり抜ける時には、「エクスキューズ・ミー」 と言う。

そして時々、冗談を言って仲間を笑わせる。
出来るだけ身綺麗にして、荷物の整理も忘れない。

「そんなタイプの男が、いざという時に強かったんです。」


と、ニコルさんは言っていた。

「ガタイが大きくて荒っぽい男は、意外に頑張れなかったんだ。」

一度、山の中のニコルさんの家を訪ねて、食事をごちそうになったことがあった。

熊の肉を煮てもてなしてくれた。

私が食べ残したのを見て、ニコルさんは言った。

「ダメ。ちゃんと全部食べてください。熊さんに失礼じゃないですか。」

熊のような体格のニコルさんが、珍しく怒った顔をした事を憶えている。

「良き者は逝く」

という古い言葉を、私はしばしば思い出す。
長く生き残るのは、すれっからしばかりだ。

ニコルさんのはにかんだような笑顔を忘れることができない。


           ◆     ◆     ◆     ◆

礼儀正しき者は強い・・・可愛い我が子や孫をそういう人間に育てるためには、やはり小さな頃からの躾が大切でしょうネ。


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競 争

〝9.11〟によってワールド・トレードセンターが崩壊して以降、『CSI:NY』などの人気TVドラマや映画などで映し出すニューヨークの街並みを象徴するシーンによく登場するのが、

 クライスラー・ビルディング

       Chrysler Building


        


style="font-family: "MS Pゴシック";">↑の画像ではピンとこなくても、夜景を見れば特徴的な頂上部のデザインに見覚えのある方は多いはず。

       

このかつては高さ世界一を誇った高層ビルがオープンしたのが、今からちょうど90年前の今日でした。

レキシントン・アベニューと東42丁目の角に立つ地上77階・エレベーター32基を持つこの超高層ビルは、世界大恐慌が起きる前年の1928年9月に着工しました。

当時ニューヨーク市内では、高さ世界一を狙って超高層ビルの建設ブームの最中にあり、当然このビルもその栄冠を狙っていました。

その名の通り、自動車メーカーのクライスラー社の本社ビルとして建設されたものですが、驚くべきことにその建築資金は同社ではなく、同社の創業者であるウォルター・クライスラーが個人資産で賄ったといいますから、驚き。

       
                  Walter Percy Chrysler


そして前述の通り、建築家ウィリアム・アレンが設計したこのアール・デコ調のビルは、ほぼ同時進行で建築されたライバルのウォール・タワーの動向によって、設計変更を繰り返しました。

当初の設計では高さ246mでしたが、ウォール・タワーの完成予定が260mだったことから、クライスラーの指示で282mに設計変更。

それを知ったウォール・タワーも設計を変更し、1930年4月に283mで完成。


しかしこの設計変更情報を聞きつけた設計者のアレンは、クライスラーの許可を取り、ビル上部に38mの尖塔を乗せる計画を立案。

ビル内部で密かに4つのパーツに分けて組み立てられた尖塔は、ウォール・タワー完成翌月の5月20日にビル屋上のドームに突如取り付けられて高さは319mとなり、見事世界一高いビルに。

一週間後の5月27日に開業し、ライバルのウォール・タワーは三日天下ならぬ僅か1ヶ月で世界一の座を奪われてしまいました。

同ビルは突貫工事で建設され、1週間で4階を積み上げるというハイ・スピード。

それでいて工事期間中事故による死者はゼロだったそうですから、ある意味驚異的。


しかし記録は破られるためにある・・・このクライスラー・ビルも、翌年にはエンパイアステート・ビルに世界一の座を奪われてしまうのですが。

但し皮肉にも世界第2位の座は、シカゴにジョン・ハンコック・センターが完成するまで38年間維持しました。

でも2位じゃ意味ない・・・ってクライスラー本人も思っていたはず。 
そう思いませんか? 蓮舫さん。

 ※エンパイアステート・ビルに関する過去記事は、こちら。(↓)



創業者クライスラーはビル完成10年後の1940年に65歳で逝去。

そしてクライスラー社は1987年にジープとイーグルの両ブランドをアメリカン・モータースから買収し、米自動車三大メーカーの一角としてその地位を築いたものの、1998年に独ダイムラー・ベンツに吸収。

そして2007年に合併は解消され、クライスラー部門は資産運用会社に売却され、2009年に破産、現在はフィアット・グループ傘下でブランド再建を目指しているとか。

またクライスラー・ビルも同社の手を離れ、現在はアラブ系ファンドが所有権の殆どを握っているとか。

20世紀前半の栄華を象徴するビルも、今は昔・・・辛うじて名前がクライスラーのままなのが、せめてもの救いでしょうか?


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決 戦

今から115年前の今日・1905(明治38)年5月27日から2日間にわたり、日本の将来を大きく左右した戦闘が行なわれました。 


それは、司馬遼太郎さんの名作・『坂の上の雲』 の主人公の一人、秋山真之が参謀として大活躍した


 日本海海戦


南下政策を進めるロシア帝国を相手に、これを阻止せんとする日本が朝鮮半島・満州地域を主戦場として1904年2月から開戦した日露戦争は、陸海軍とも一進一退。


長期戦を嫌気した日本がアメリカ・ルーズベルト大統領に依頼した和平交渉も、当時世界一といわれたバルチック艦隊を有するロシア側が拒否。


遂に(対馬沖を中心とした)日本海で、我が連合艦隊とバルチック艦隊の全面対決が不可避となりました。


前年8月に起こった黄海開戦で自国の太平洋艦隊が日本に敗れたロシアは、その2ヵ月後にバルチック艦隊の主力を極東に派遣することを決定。


バルト海沿岸の軍港を出航し、大西洋から南アフリカの喜望峰・インド洋を回る7ヶ月もの大航海を経て日本海に到達。

    


迎え撃つ我が国連合艦隊は、東郷平八郎司令長官指揮の下、

「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」

を意味するZ旗を旗艦・三笠に掲げ士気を鼓舞。


 ※三笠に関する過去記事は、こちら。(↓)



2倍の兵力を持つバルチック艦隊に対し、当時常識外とされた敵艦の鼻先で舵を切ってターンする〝丁字戦法 (トーゴー・ターン)〟を敢行して一気に優勢に立つと、翌日の昼前にはロシア側が降伏。

       


バルチック艦隊は被撃沈16隻(戦艦6・他10)、自沈5隻、被拿捕6隻という、艦隊の大半を失う大損害を被り、一方連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみ。


大艦隊同士の決戦としては、史上稀に見る一方的勝利を収めました。扇子


この決戦の大勝利によって戦局は大きく日本側に傾き、ポーツマス講和会議での和平交渉成功に至ります。


当時世界最強といわれたバルチック艦隊を東洋の島国艦隊が撃破したことは、世界中から驚異の目で見られました。


何故なら世界史上初めて、非白人小国が白人大国に勝利したのですから!


当時ロシアの圧政に苦しんでいたトルコでは、この一報に狂喜乱舞。


東郷元帥は国民的英雄となり、子供に 〝トーゴー〟 と名づける親が続出。


また 道路にも〝トーゴー通り〟が現存しています。

       


そして私が誇りに思うのは、同海戦で6,000名以上出たロシア人捕虜に対し、我が国は当時の戦時国際法を忠実に遵守し手厚く保護したこと。

この行為は世界各国から賞賛されたのですが・・・現在の学校教育における歴史の授業では、こういった功績を殆ど教えていません。うー


 

先人の立派な行為を子供たちに教えないどころか、いつまでもお詫びを繰り返す現代のヘタレ政治家・官僚たち。

私はどこかおかしいと思うのですが、皆さんはいかがお考えになりますか?

因みに大東亜戦争後GHQによって廃止させられましたが、5月27日はこの海戦の勝利を祝う 『海軍記念日』 でした。


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下天は夢か

今日は、歴史小説家として多くのファンを持つ

 津本 陽 さん

の命日・三回忌にあたります。

       

津本(本名:寅吉)さんは、1929(昭和4)年に和歌山市で生まれました。

旧制和歌山中学校から旧制大阪専門学校(現・近畿大学)を経て1961年に東北大学法学部を卒業。

同人誌『VIKING』で活動し、同誌に掲載した『岡の家』が直木賞候補作となって注目されると、1978年に故郷・和歌山を舞台にして古式捕鯨を描いた『深重の海』で直木賞を受賞。

そして剣道三段・抜刀道五段で武道に関する造詣が深い彼は、1982年に発表した
『明治撃剣会』以降、塚原卜伝や千葉周作ら剣豪を主人公にした小説で、また同時に戦国武将を扱った歴史小説で人気を博します。

その中でも代表作と言えるのが、1986年から約2年半にわたり日本経済新聞に連載された、『下天は夢か』でしょう。

織田信長を描いたこの長編小説は1989年に単行本化されるや累計200万部を超える大ベストセラーとなり、彼の名は一気に全国区に。

当時転勤族だった私は、この作品を新聞で読んで初めて津本さんの存在を知った次第。

しかし津本さんの作品は戦国武将に留まらず、西郷隆盛や勝海舟ら幕末に生きた人物や、則天武后や項羽と劉邦など、大陸を舞台にしたものまで広範囲に及びました。


豊富な資料を丹念に精査した多くの作品を残しましたものの、その反面剽窃(※ひょうせつ=他人の文章や説などを許可なく転用すること)を取り沙汰されることも1度ならずありましたが・・・。

吉川英治文学賞や菊池寛賞、また紫綬褒章や旭日小綬章を授与され、1995年から10年余りにわたって直木賞選考委員も務めた日本文学界の重鎮が誤嚥性肺炎により89歳でこの世を去ったのは、2018(平成30)年5月26日のことでした。

私自身、津本作品は歴史小説を何冊か読みましたが、意外にも印象に残る作品として書棚に残っているのは現代モノが多いんです。

ひとつは、2000年に幻冬舎から出版された、松下幸之助氏を取り上げた


 『不況もまたよし』


        


それと、やはり幻冬舎から2002年に出された、私が最も尊敬する政治家・田中角栄氏を描いた

 『異形の将軍 田中角栄の生涯』


 


   

いずれも従来の伝記モノとは視点を変えて書かれているところに新鮮味がありました。

そして還暦を過ぎた今こそ読み返そうと思っているのが、これもまた幻冬舎から2003年に出版された


 『老いは生のさなかにあり』 


       


「老境に至ってなお、盛運のいきおいを増してゆく人物は、『考える人』である」


と語る津本さんが、徳川家康や豊臣秀吉から是川銀蔵に至るまで小説の題材にした先人の生き様から紡ぎ出す老後の人生論から、今後の生きる指針を探り出したい・・・そう思っています。

さて皆さんは、どの津本作品がお好きですか?


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未 遂

日本近代(犯罪)史を紐解くと、しばしば〝大逆(事件)〟という言葉を目にします。

この〝大逆(罪)〟とは、大日本帝国憲法下に於いて、天皇・皇后・皇太子等の皇族の命を狙ったり危害を加えたり加えようとする、最も重い罪のこと。


過去にこの大逆罪を適用された事件は


◆1923(大正12)年・・・虎ノ門事件
◆1925(大正14)年・・・朴烈事件
◆1932(昭和7)年・・・・桜田門事件(過去記事 ↓)

  https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12240959273.html


といくつか起きていますが、これらより前・・・ちょうど110年前の今日起きた

 幸徳(秋水)事件


が、一般的に〝大逆事件〟と呼ばれています。

この事件の首謀者は、その名称の通り社会主義者・無政府主義者の幸徳秋水


        


秋水(本名:傳次郎)は1871(明治4)年、現在の高知県四万十市で酒造・薬種業を営む地元の名家に生まれました。

1887年に上京し、同郷・中江兆民の門弟となって新聞記者を目指します。

そして板垣退助が社長を務める 『自由新聞』 等に勤務した後、1898年に我が国のゴシップ報道の先駆といわれる 『萬朝報』 の記者に。

1901年に結成された社会民主党に創立者として参画すると、非戦論から開戦論に転じた 『萬朝報』 を辞めて、堺利彦らと平民社を設立し、週刊平民新聞を創刊。

その後1904年に堺と 『共産党宣言』 を翻訳発表するも、即日発禁。

翌年に新聞紙条例違反で投獄されて以降無政府主義に傾くと、出獄後渡米。

サンフランシスコで地震に遭遇し、市民が自助努力する様子を見て無政府共産制実現の可能性を見ると、帰国後にはゼネラル・ストライキによる直接行動論を提唱し、岩佐作太郎と共に社会革命党を結成。

1909年には 『自由思想』 を発刊したものの、またも即日発禁に。

そして赤旗事件で入獄していた荒畑寒村の妻・管野スガと不倫関係になり、3月に妻・千代子と離婚するのですが・・・これが彼の運命を狂わせることに。


そして1910(明治43)年5月25日から、明治天皇暗殺計画に関与したとされる幸徳秋水・管野スガ・宮下太吉・新村忠雄・古河力作の5名らを始め、多数の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まったのです。

翌年1月18日に死刑24名・有期刑2名の判決が下り、同月11日に秋水ら11名が、25日に管野スガが絞首刑に処せられました。


 

これが幸徳(秋水)事件、または大逆事件と呼ばれているのですが・・・実は秋水は主犯でも直接暗殺計画に関わったわけでもなく、単に著作に専念していただけ、という説があります。

実際に爆裂弾を作り爆破実験を行ったのは宮下であり、その実行計画が練られたのは平民社だったのですが、当時その平民社で秋水とスガが同棲していたのだそうな。

であれば計画そのものを知っていた可能性は強いですが、実行犯でなかったとしたら、とんだトバッチリ・・・。

以前拙ブログでご紹介した、『天粕事件』で殺害された大杉栄もそうですが、なぜか左翼・無政府主義者って女性関係が・・・ねェ。
うー




身から出た錆・・・と言っては、あまりに詮無いでしょうか?

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執 拗

今や、すっかり世間に定着した言葉に 〝ストーカー(stalker )〟があります。


このストーカーの防止を目的とした


ストーカー規正法

(※正式名称 : ストーカー行為等の規制等に関する法律)


が公布されたのは、今からちょうど20年前の今日・2000(平成12)年5月24日のことでした。 (施行は同年11月24日)


この法律が出来たキッカケは、この前年に起きた 『桶川ストーカー殺人事件』でした。

 ※同事件に関する過去記事は、こちら。(↓)



ちなみにストーカーと認定される行為とは、次の通り。


① つきまとい、待ち伏せ、立ちふさがり、見張り、又は住居等への押し掛け。

② 監視していると思わせるような事項を告げ.る。

③ 面会、交際の要求。

④ 著しく粗野又は乱暴な言動。

⑤ 無言電話や連続電話・FAXの送信。

⑥ 汚物、動物の死体などの送付。

⑦ 名誉を害する事項の告知。 

性的羞恥心を侵害する物品等の送付。

その後2012年に起きた 『逗子ストーカー殺人事件』 を教訓として翌2013年に電子メールの連続発信が、更に2016年に起きた 『小金井ストーカー殺人未遂事件』 を契機に翌2017年にはツイッター・LINESNS上のメッセージ連続送信や、個人のブログへの執拗な書き込みもつきまとい行為に加えられました。


同時に罰則も厳格化され、ストーカー行為をした者は1年以下の懲役または100万円以下の罰金に、また禁止命令に違反し「ストーカー行為をした者は、2年以下の懲役または200万円以下の罰金に処せられます。


 


「ストーカー行為なんて、自分はしてない」 と思っている、そこの貴方。


もしかしたら無意識にストーカー行為をしているかもしれませんョ。


ストーカーしている度、されてる度双方の自己診断できるサイトがありますので、是非チェックしてみてください。(


    https://matome.naver.jp/odai/2136032442608820901


警察庁によると相談件数は年々増加し、平成30年度は若干減ってはいるものの、21,556件。(↓)


 


これだけ法規制が厳格化しているにもかかわらず、ストーカー犯の検挙数は、犯罪検挙数全体が減少している近年でも増加の一途を辿っています。(↓)



そして被害者の10%以上が男性であるというのもそうですが、被害対象者が(内縁を含む)配偶者というケースが10%近くもある、という事実には驚かされます。


夫婦関係でストーカー行為って、一体何なのでしょう?

別居中のトラプルってことですかねェ。 


 


恋人時代にはいつも一緒にいたい・・・なんて思って結婚したはずなのに、いつしか 「うっとうしい」 と思ってしまう。うー


行為者の30%以上が4,50歳代という事実と考え合わせると、男女関係って本当に不可思議なものですネ。


・・・ウチは、大丈夫か? うー


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紳 士

私のような昭和オヤジ世代にとって、映画『007』シリーズのジェームズ・ボンドといえば、この方のイメージが強いはず。


今日は、そのイギリス出身の俳優


 サー・ロジャー・ジョージ・ムーア
        Sir Roger George Moore

の命日・没後3周年にあたります。

       

ムーア(本名同じ)は1927年に警察官の息子としてロンドンで生まれました。

1940年代にエキストラとして映画出演していた彼は、第二次世界大戦中イギリス軍の娯楽舞台に所属。

除隊後に大部屋俳優となり、モデルやステージ・マネージャーなどもしていたとか。

そんな彼の運命を好転させたのは、渡米。

1950年代に米テレビドラマ出演を続け、1954年にMGMの契約俳優となると、1962年に英テレビシリーズ 『セイント 天国野郎』 の主役を務めてから有名に。


後に第5代ボンド役を務めたピアーズ・ブロスナンにとって、このドラマに出演するムーアは、最高のヒーローだったそうな。

そして彼の代表作と言える冒頭の 『007』 シリーズには、1973年公開の第8作 『死ぬのは奴らだ』 から登場。

実は当初原作者のフレミングが望んだ初代ボンド役は、ロジャー・ムーアだったのだそうな。         


完璧なクィーンズ・イングリッシュを話し、原作通りの長身(185cm)でブルーの瞳、物腰の柔らかさと気品が滲み出る姿はボンドのイメージにピッタリだったから。 


しかし当時ムーアは前述の『セイント』シリーズの契約が残っていたため出演できず。


代役としてムーアが製作者側に紹介したのが、S・コネリーだったとか。

ボンド役として売り出して世界的な俳優となったコネリーにとって、ムーアはまさに恩人といえましょう。


そして1985年公開の第14作 『美しき獣たち』 まで12年間、現在のところ歴代ボンド役としては最も多い7作品に出演した彼は、世界的名優として認知されました。

       

ただ反面、ムーア=ボンドというイメージが強くなり過ぎた感もありましたが、現在のボンド役・ダニエル・クレイグのような体育会系ではなく、会話にジョークがありボンドガールとの絡みも多い〝紳士〟たるムーア・ボンドは、確実に007シリーズの人気上昇に貢献したはず。

私生活に於いても4度結婚していますから、さぞモテたんでしょうネ。

007シリーズ以外てば、『キャノンボール』(1980年)や 『ピンクパンサー5』(1983年)などにも出演し、2003年にはナイトの称号も授与されました。

来日時には 『笑っていいとも』 にも出演して、お得意のジョークで会場を沸かせた彼がガンにより89歳でこの世を去ったのは、2017年5月23日のことでした。

       

今宵は彼の出演した007シリーズを観ながら〝3代目ボンド〟の冥福を祈りたいですが、皆さんはどの作品がお好きでしょうか?

私はちょうどその作品のロケが行われた翌年に野球でブラジル遠征し、あのジョーズと死闘(?)を演じたローブウェイに乗ったこともあって、『ムーンレイカー』 がお気に入りなんですが・・・。


       

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