今日は、昭和時代のプロ野球を代表するスラッガーで、181cm・88kgというゴツい身体(失礼!)の割りに笑顔が素敵で、どことなく愛嬌があった
大杉 勝男 選手
の命日にあたります。
大杉選手は終戦直前の1945(昭和20)年3月に、岡山県勝田郡で3兄弟の次男として生まれました。
4歳年上の兄の影響で野球を始めた彼は、関西高校に進学し硬式野球部に入部。
1年生ながらレギュラー捕手となりますが、経済的な理由から軟式野球部に転部を余儀なくされ、それがために甲子園出場はならず。
卒業後、高校の先輩が監督を務める新設の社会人野球・丸井に入りますが、創部二年目に休部。
そこで彼は、1965年に東映フライヤーズの入団テストを受けることに。
球団幹部は難色を示しましたが、当時打撃コーチを務めていたミスター・タイガースの藤村冨美男さんが素質を見抜いて強く推したことで、見事入団。
当時同球団の主力打者だった張本選手も一目置く打撃センスとパワーを早くも開花させ、水原監督は1年目から彼を起用。
入団3年目の1967年、飯島打撃コーチから有名な「月に向かって打て!」というアドバイスを受けて開眼すると、ホームランを量産。
レギュラーに定着し、オールスターでは江夏投手から満塁ホームランを打つなど大活躍。
更に1969年から就任した松木健次郎監督の指導でそれまで多かった三振を減らし、更に確実性も向上。
1970年には打率.339・44本塁打・129打点という自己最高を記録。
この年、喧嘩をさせたら球界一強いと言われた彼は、4月の対西鉄戦で走者のボレスと接触したことからもみ合いとなり、激高した大杉選手が右ストレート一発でボレスをグラウンドに沈めるというKO劇を繰り広げました。
しかし不思議なことに、倒されたボレスが起き上がると大杉選手に握手を求め、かつ両選手とも退場にならなかったそうな・・・。
同年から72年まで3年連続40本塁打以上をマークしましたが、球団の身売りに伴い1975年からヤクルトに移籍。
セ・リーグで9シーズン活躍し、持病の不整脈が悪化して1983年に38歳で引退するまで、19シーズンで通算打率.287、安打数2,228、通算本塁打486(歴代9位)、通算打点1,507(歴代9位)の成績を残しました。
両リーグで1,000本安打を達成し、本塁打もあと1本セ・リーグで打っていれば、両リーグで200本達成という記録を残しています。
最終シーズンで21本も本塁打を放っていたのですから、あと1年現役を続けていれば達成はほぼ確実だっただけに、残念でした。
しかし年代がズレていたことと、現役時代の前半が殆どテレビ中継されなかったパ・リーグだったため、私自身はあまり彼のプレーを見た記憶が残っていません・・・が、2つだけ強烈に憶えていることが。
そのひとつは、以前拙ブログで記事にした、1978年の日本シリーズで放った、〝疑惑のホームラン〟(↓)
そしてもうひとつは、プレーではないのですが・・・大学で野球をやっていた時、スパイクを買うため都内の某有名スポーツ・メーカーの店舗に行ったら、アドバイザリー契約を結んでいた大杉選手のスパイクが展示されていたんです。
当時28.5cmのスパイクを履いていて、なかなか合うサイズが見つからなかった私の目に、そのバカでかいスパイクが目に入り、思わず履いてみたらピッタリ!
「コレ、売ってもらえませんか?」
と聞いたら、店員に、
「ソレ、非売品なんですけど。」
と素っ気なく断られたことを・・・。
そんな思い出のある大杉選手は、引退後野球解説者としてプロ野球ニュースなどで活躍、1990年からは横浜大洋の一軍打撃コーチに就任しましたが、肝臓癌が発見され翌年退団。
闘病生活を送った後、翌1992(平成4)年4月30日に、47歳の若さでこの世を去りました。
自分のスランプより奥さんや家族の健康を心配していたという心優しきスラッガーのご冥福を、その豪快なホームランの動画集を観つつお祈り致します。
店を出ようとする私に、S君はこう言ったのです。
「渡辺様。 私がご自宅までお送り致しますョ。」
正直、私は耳を疑いました。 だって、ディーラーでそんな親切を言われた事、今までなかったんですから。
それどころか、女房に辛い思いをさせた〝ダンボール応急処置事件〟 で新潟の某ディーラーにクルマを持ちこんだ時など、自宅まで遠かったため
「バス停までで結構ですから、送ってもらえませんか?」 と尋ねたら、
「あっ、ご自分でタクシー呼んでください。
電話は使って構いませんから。」
と、冷たくあしらわれて、思わずムッとしたことも。
それとは正反対の意表をつく申し出に、
「それは助かります。 じゃ、お言葉に甘えて・・・。」
と、彼の運転するクルマに乗り込んだ私は、更に驚かされました。
「じゃあ、道を教えるネ。」
と言う私に、S君の返事がフルッていたのです。
「昨日ご自宅の場所を確認させていただきましたから、大丈夫ですョ。」
な~るほど・・・そこで私は納得しました。
昨日電話した時に、彼が私の住所をわざわざ尋ねた理由を。
(こっちが持ち込むって言ってるのに何で住所なんか聞くんだ? 変なヤツ。)
その時そう思ったことを、心の中で詫びた私・・・今まで様々なセールスマンと接してきましたが、ここまで先回りして気が利く若者は初めてでした。
「キミ、歳はいくつ?」
「25歳です。」
「こういうサービスは、社内研修とかで教えてくれるの?」
「いえ・・・自分でいろいろ考えてやってます。」
微笑みながら答え、そして道に迷うことなくしかも最短距離で我が家の玄関前にクルマをつけたS君の見事な段取りに感心してしまい、クルマから降りしなに思わず
「今度買い換える時は、キミにお願いするョ。」
と言ってしまった私。
(な~んて口約束をしたものの、残念ながらその後引っ越してしまったためS君とは疎遠になってしまいましたが。)
まさに一本取られた感じ・・・実に見事なS君の応対に、その日は朝から良い気分で過ごせました。
営業の決め手は、やっぱり〝人〟ですょネ。

新年度に入ってから、早くも1ヶ月が過ぎようとしています。
新社会人は、会社の研修を終え現場に出られている・・・と言いたいところですが、武漢肺炎の影響で自宅待機の方も多いでしょう。
今日・明日は、そんなフレッシュマンに顧客サービスのヒントになる私の体験談をご披露したいと思います。
◆ ◆ ◆ ◆
一昔前、自動車のドア・ガラスはハンドルを手で回して開閉するのが当たり前、スイッチひとつで楽々開閉できる〝パワーウィンドゥ〟は高級車のシンボル・・・憧れのオプション装備でした。
しかし現在では殆ど標準装備され全く当たり前になりましたが、皆さんはコレが故障して困ったことはありませんか?
私は今まで4回、窓ガラスの開閉が出来なくなった経験があります。
しかも何故か、遠出をした時に限って。
女房がエラい目に遭ったのは、3回目・・・それは20年以上前の真冬。
当時新潟に勤務していた私ら夫婦、地元ゴルフ場が積雪でクローズしているため、わざわざ片道300km以上離れた栃木県のゴルフ場に泊りがけで遠征した時のこと。
ラウンドを終えて東北自動車道のICに向かっていた時、ちょっとした段差を通過した瞬間 「ガタン!」 という大きな音が。
(な、なんだ・・・今のは?)
そう思った瞬間、助手席に座っていた女房の 「やだっ、ウソでしょ~!」 という叫び声で彼女の方を見た私は、目を疑いました。
なんと助手席側の窓ガラスがない!・・・いや正確には、段差の衝撃で窓ガラスがドア内部に落ちてしまったんです。
スイッチを操作しても、空回りするモーターの音がするばかり。
慌てて近くのコンビニに入りダンボール箱をもらって目張りしたものの、高速道路を走れば当然隙間風がビュービュー・・・更に磐越道に入ると猛吹雪。
女房は3時間以上に渡って寒風や雪と格闘しつつ、ダンボールを手で押さえ続ける羽目になったのです。
そして私自身が悲惨な目に遭ったのは、その数年後の4回目。
8月のお盆直後に所用で新潟に出かけた私は、日曜日の昼過ぎに帰京すべく北陸自動車道・新潟西ICの料金所でチケットを受け取ろうとパワーウィンドゥのスイッチを入れたところ、やはり 「ガタンッ!」 という音と共に窓ガラスが下に落ちて上がらなくなりました。
(おいおい、またかョ。)
しかしこの時は私1人だけ・・・まさかダンボールを押さえながら運転できませんから、30℃以上の猛暑の中お盆直後で大渋滞の関越自動車道を、熱風と排気ガスを吸い込みながら7時間以上ひたすら運転し続けるしかありませんでした。
翌日以降も車を使う予定だったため、私はすぐに携帯で自宅近くのディーラーの電話番号を104で調べ、連絡を取りました。
応対に出た若手セールスマン・S君に状況を説明して修理を依頼しましたが、その日は結局営業時間中に東京に戻れず。
翌朝9時キッカリにディーラーへ車を持ち込んでメカニックに見てもらうと、やはりモーターなどの部品交換が必要とのこと。
夕方には納車できるとのことなので、「じゃあ、よろしくお願いしますネ。」 と昨日電話で応対してくれたS君に言い残して店を出ようとすると、彼が
「渡辺様、ちょっとお待ち下さい。」
と私を呼び止めるのです。
「えっ、何か?」
と足を止め振り返った私はその後、予想もしなかった彼の言動に心底驚かされることに・・・。
・・・・・To be continued!

老若男女にかかわらず、ピアノを弾き始めた方の多くが、この曲を弾くことを第一の目標にしていることでしょう。
エリーゼのために
L.V.ベートーヴェンがこの作品を書き上げたのが、今から210年前の今日・1810年4月27日だったとされています。
あの厳つい顔(失礼!)のベートーヴェンのイメージからは程遠い(再度失礼!)切なくそして甘美な旋律は、ザ・ピーナツの 『情熱の花』 やザ・ヴィーナスの 『キッスは目にして』 など様々な楽曲にアレンジして使われている、まさにピアノ曲の代表作。
この曲、私にとっても実に思い出深い曲なんです。
6歳からピアノ教室に通い出した私でしたが、野球第一・ピアノは二の次・・・って感じの日常。
当然のことながら赤や黄色のバイエルをチンタラ弾いていた劣等生だったのですが、なぜか小学校3年生になった途端、急にこの〝エリーゼのために〟を弾きたくなったのです。
「どうしても弾きたいっ!」 って駄々をこねまくり、「アナタはまだそれを弾ける段階じゃありません」 とたしなめる女先生に 「いや、ボクなら弾ける」 と大見得を切った私。
結局先生が折れて、教則本を一旦中止してこの曲の練習を許してくれました。
でも人間って、自分からやる気を出すと進歩するもんですねェ。
ピアノピースの楽譜を買い込んで、鍵盤の前に2,3時間向かう毎日・・・結局ものの半月も経たないうちに弾けたんです!
教室で弾き終り、ドヤ顔で振り返った私が見たのは、先生の 「信じられない」 という引き攣った顔。
しかしその後先生との関係は一層ギクシャク、ますます練習に身を入れなくなった私が上達するはずもなく・・・要するに、私のピアノが上達しなかった原因は、この〝エリーゼのために〟にあったのです!
な~んて、結局才能がなかっただけなんですけどネ。
上の写真が、我が家に現存する当時の楽譜。
すっかり黄ばんでますが、ウラを見てみると値段が35円!
半世紀の時の移ろいを感じますネ。
さて、この名曲が捧げられたエリーゼとは誰なのか?
これが長らく音楽界の謎とされてきました。
というのは、ベートーヴェンと交流のある女性にエリーゼという人物が見当たらなかったからなのですが・・・作曲から100年以上経過した1923年に、ドイツ人音楽学者マックス・ウンガーが
「筆跡鑑定の結果、エリーゼ(Elise )はテレーゼ(Therese )と読める」
と論文で発表。
実はベートーヴェン、相当な悪筆で写譜屋泣かせだったことが知られていました。
おそらく出版元の読み違えだろう、というのです。
(※ただし原譜は紛失しており、確認はできません。)
そのテレーゼ・マルファッティは実在の女性で、実際この曲の楽譜は彼女の手紙箱の中から発見されています。
Therese Malfatti
しかも彼女は18歳の時に当時40歳だったベートーヴェンから求婚されたそうな。
曲を捧げたにもかかわらず残念ながら彼はフラれ、テレーゼは後に伯爵夫人の座に収まりました。
こんなエピソードを知ると、イ短調のこの曲のメロディーがより一層哀しく聴こえてしまいますネ。
だからといって、今更曲名を〝テレーゼのために〟に変えようという話は聞きません。
もしこの説が真実だとしたら、ベートーヴェンの心の傷を蒸し返すことになりますしネ。
ところが10年前、ドイツの音楽研究者クラウス・マルティン・コピッツが、
「エリーゼは、ベートーヴェンのオペラ作品にも出演したテノール歌手ヨーゼフ・アウグスト・レッケルの妹で、当時エリーゼと呼ばれていたソプラノ歌手エリザベートの可能性が高い」
という新説を発表。
はてさて、真実は?・・・顔に似合わず(またまた失礼)恋多きベートーヴェン自身に、あの世で聞いてみるしかなさそうです。
それでは最後に、この名曲をお聴きください。
まずは、日本の代表的ピアニスト・園田高弘さんの演奏で・・・。(↓)
もうひとつ、こんな超絶技巧版も見つけました。(↓)
皆さんは、どちらのエリーゼがお好き?
映画『八ツ墓村』のモチーフにもなった、日本において単独犯による最悪の30人もの死者を出した『津山事件』については、拙ブログでも過去にご紹介しました。
しかし上には上・・・いや、下には下があるというべきか、お隣・韓国で今から38年前の今日、僅か一晩で津山事件の倍近い57人(55・56・61人説もあり)の死者を出す猟奇殺人事件が起きました。
犯人は、
ウ ボムゴン
禹 範坤
という、なんと現職の警察官(当時27歳)。
1955年に釜山市で生まれた彼の父親も警察官でした。
その父親の医療費がかさんだことで家は貧しく、1974年に父親が亡くなると家を手放し、彼自身も大学を中退し1976年海兵隊に入隊。
2年後に除隊し警察官試験を受けるも不合格となった彼は酒に溺れ、些細なことで喧嘩をする日々が続いたとか。
この辺り、津山事件の犯人・都井睦雄が徴兵検査に落ちた事とよく似た境遇に陥りましたが、それでも1978年には試験に合格し、念願の警察官に。
ソウル市内の警察署などで勤務した後、先輩の推薦で晴れて青瓦台警備を担当することになりましたが、酒癖が悪く酔って勤務していることが発覚し、慶尚南道宜寧郡という田舎町に左遷されてしまいます。
慶尚南道宜寧郡
そして1982年4月26日・・・例によって酒に酔って帰宅したところ、同棲していた女性が彼の胸に止まったハエを叩いたことで口論に。
激高した禹は警察署に戻って武器庫に入り込んでウィスキーをガブ飲みして泥酔状態になると、午後9時半頃にM2カービン銃2丁と銃弾180発、手榴弾7個を手に外に飛び出します。
そしてまず、犯行の露見を防ぐため警察署近くの郵便局に押し入って電話交換手3人を射殺。
それから近隣の集落5つの家々を次々に襲いもカービン銃を乱射。
また人が集まっていた市場には最初に手榴弾を投げ込み、爆発音に驚いて飛び出してきた人々に銃弾を浴びせ、次々と射殺。
電話交換手が射殺されたこともあり、警察に事件の一報が届いたのは、発生後1時間以上経った午後10時40分頃。
武装警官隊が現場に到着したのは更に1時間以上も後の午後11時50分頃でしたが、既に犯行は終わっていました。
禹は武装警官により山に追い込まれ、翌朝の午前5時半頃、残りの手榴弾2発の安全ピンを抜き、最後の犠牲者となった人質3名を抱きかかえたまま爆死。
犯人が自殺したため動機を含めた真相は明らかになっていませんが、女性に胸を叩かれただけで60名近くも殺害するなんて、尋常じゃありません。
まさに火病の為せる業・・・そう思うのは、私だけではないはず。
また事件後の国内動向も、韓国らしいと言えましょう。
現職警察官による大量殺人に加え、初動捜査の遅れから被害を拡大させたという非難が高まり、当時の劉彰順内閣の責任ばかりか、1980年に軍事クーデターを起こして就任した全斗煥大統領への批判に及びそうに。
世論の沈静化を図るため、徐廷和・内務部長官が事件発生直後に辞任。
そしてその後任となったのが、盧泰愚でした。
これによって彼は政界への足掛かりを掴みも大統領にまで登り詰めましたが、結局退任後に政治資金隠匿の罪で逮捕・有罪判決を受けることに。
また当時の宜寧警察署長が事件発生中に遊興で不在だったことから職務怠慢で起訴・・・ただ彼の場合は最終的に無罪が確定しましたが。
民族性って、そう簡単には変わりませんネ。

今からちょうど40年前の今日、日本中を驚かせた出来事が起こりました。
中高年世代の方なら、今日のブログタイトルで゜ピンときた方もいらっしゃるかも。
この日から一躍注目を集めることとなった人物の名は、
大貫 久男 さん
廃品回収業者として真面目に働いていた当時42歳だった彼が、1980(昭和55)年4月25日、銀座3丁目の道端にゴミと共に置いてあった風呂敷包みを仕事中何気なく拾って帰ったのですが、開けてビックリ!
出てきたのは1万円札が1万枚・・・なんと1億円だったのです。
当時のドリームジャンボ宝くじが3,000万円だったそうですから、それがいかに大金だったかは容易に想像できますが、大貫さんがそれを正直(?)に届け出たことから、〝1億円を拾った男〟として一躍時の人に。
当初は(↑)の写真の如く、笑顔でマスコミの取材に応じていましたが、報道合戦はエスカレートする一方。
連日の取材攻勢に加えて、妬みや興味本位のイタズラ電話が一日中鳴り続けるように。
また、この銀座のド真ん中に置かれていた1億円がどんな金だったのか? が話題となり、株取引のアングラマネー説、政治絡みのウラ金説、麻薬取引説等々様々な憶測が流れ・・・実際に脅迫電話もかかってきた大貫さんは、自費でボディーガードを雇う羽目に陥りました。
結局(予想通り?)落とし主は現れず、半年経過して1億円は大貫さんのモノに。
時効を数日過ぎた11月9日、本人はマスコミの取材を恐れて朝6時にジョギング途中に警察を訪れましたが、待ち構えた報道陣のフラッシュの嵐に会い・・・私は黄色のランニング姿で、顔を硬直させたまま小切手を受け取る大貫さんの姿を今でもハッキリ覚えています。
一時所得扱いでしっかりと3,400万円も税金を引かれ、手取り
6,600万円の現金を手にした大貫さんは家族のためにマンションを購入し、後は貯金したとのこと。
全く予想しない大騒動に発展し疲労困憊だった大貫さんでしたが、その後ドラマ化された時にはご本人も出演、その他の番組にも〝拾得物評論家〟(?)として顔を出されていました。
一度脚光を浴びた方は、その〝味〟が忘れられないのかもしれませんネ。
大貫さんはその後2000年12月6日に62歳でひっそりと世を去りましたが、もしかしたらこの大騒動のストレスが寿命を縮める要因になったのかも。
余談ですが、現在よしもとクリエイティブエージェンシー所属する夫婦漫才コンビ・〝夫婦のじかん〟でご主人とコンビを組んでいる大貫幹枝さんは、彼の孫娘なのだとか・・・ちょっと注目してみてください。
さて皆さんが、もし銀座で1億円を拾ったらどうしますか?
① 大貫さんのように警察に届ける
② 黙ってタンス預金にして、少しずつ使う
③ 慌てて元の場所に戻しに行く
④ 慈善団体に寄付する
「ここの国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は異教徒の間では見つけられない。
彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がない。
驚くほど名誉心の強い人々で、他の何ものよりも名誉を重んじる。
大部分の人々は貧しいが、武士も、そういう人々も貧しい事を不名誉とは思わない・・・。」
1549年、キリスト教布教のため日本にやってきたフランシスコ・ザビエルが、本国に送った手紙である。
それから300年、江戸末期から明治にかけてたくさんの外国人が日本を訪れ、日本と日本人についての感想を残している。
イギリス人女性旅行家で紀行作家のイザベラ・バードは1878(明治12)年5月に来日、東北や北海道を旅行し、こう書いた。
「ヨーロッパの国の多くや、所によっては我が国でも、女性が外国の衣装で一人旅を摩れば現実の危険はないとしても、無礼や侮辱に遭ったり、金をぼられたりするものだが、私は一度たりとも無礼な目に遭わなかったし、法外な料金をふっかけられたこともない。」
Isabella Lucy Bird
1856(安政3)年、売商条約を結ぶために来日したハリス提督は、その日記にこう記している。
「彼らは皆よく肥え、身なりも良く、幸福そうである。
一見したところ、富者も貧者もいない。
これが人民の本当の幸福の姿というものだろう。
私は時として、人を戒告して開国の影響を受けさせることが、この人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。
私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本において見出す。
生命と在策の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。」
1890(明治23)年来日のドイツ人宣教師の記録。
「私はすべての持ち物を、ささなかなお金も含めて、鍵をかけずに置いておいたが、一度たりともなくなったことはなかった。」
フランスの詩人ポール・クローデルは1921~29(大正10~昭和2)年まで駐日大使を務めたが、第二次世界大戦で日本の敗色が濃くなった1943(昭和18)年、パリでこう言った。
「日本は貧しい。 しかし、高貴だ。
世界でどうしても生き残って欲しい民族をあげるとしたら、それは日本人だ。」
Paul Claudel
私たちの祖先は勤勉・正直・親切・謙虚・素直・感謝と言った徳目を規範に、幾世紀も暮らしてきた人たちであった。
外国人たちの証言は、そのことを明らかにする。
さて昨今は・・・隔世の感、と言わざるを得ない。
この日本人の素質を取り戻し、後世に渡さなければならない。
私たち一人ひとりがこの美質を涵養(かんよう=養成すること)し発揮した時、日本は真に豊かな国となる。
富国有徳とは、このことである。
『小さな人生論 4』(致知出版社・刊)より抜粋・編集にて
◆ ◆ ◆ ◆
もし外国人に称賛された時代の日本人だったなら、現在の武漢肺炎騒動時には政府が何度も要請せずとも自分勝手に外出したりパチンコなんかしないでしょうネ。
プロ野球ファンならずとも、ブログタイトルでピンとくる方は多いでしょう。
今日は広島カープの主力打者として長く活躍し、それまで世界記録だったルー・ゲーリックの持つ連続試合出場記録を破った
さち お
衣笠 祥雄 選手
の命日・三回忌にあたります。

衣笠選手は終戦間もない1947(昭和22)年に、アフリカ系アメリカ人兵士と日本人女性の間に京都市で生まれました。
当初は柔道をやりたかったものの、通っていた中学に柔道部が無かったため、やむなく野球部に入ったそうですが、平安高等学校に進学すると3年生の時に春・夏連続で甲子園に捕手として出場し、共にベスト8進出。
翌年広島カープに入団すると、白石勝巳監督の方針により、内野手に転向。
1968年から一塁手としてレギュラーに定着。
※当時から1974年までつけていた背番号が28だったことから、漫画『鉄人28号』になぞらえてつけられたニックネームが〝鉄人〟・・・これがその後の野球人生にピッタリ嵌ったというわけです。
1975年からはルーツ監督の方針で三塁手にコンバートされましたが、常にフルスイングする彼と法政大出身のスラッガー・山本浩二選手とのクリーンアップは、他球団の脅威でした。
そして1970年から始まった連続試合出場記録・・・残念ながらフル出場は1979年に長期スランプに陥りスタメンを外されたことで三宅秀史選手の持つ連続700試合という記録には22試合及びませんでしたが、その後も代打などで連続試合出場記録は続きました。
若かりし頃巨人ファンだった私にとって、衣笠選手は正直目の上のたん瘤的存在でしたが、ある試合を契機に彼のファンとなりました。
それは連続試合出場記録継続中の、1979年8月1日に広島球場で行われた対巨人戦。
巨人の西本聖投手が死球を連発した後、衣笠選手にもぶつけ、乱闘騒ぎに。(↓)
この死球で肩甲骨を骨折した衣笠選手・・・当然翌日の試合は欠場かと思いきや、何と代打でバッターボックスに立ったばかりか、江川投手のボールに踏み込みフルスイングで三振。
そして試合後の
「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のためにスイングしました」
というコメントに、当時大学で野球をやっていた私はシビレました。
そして遂に1987年6月13日、ゲーリックの連続出場試合記録を上回る2,131試合出場の世界新記録を達成。
同月22日にはプロ野球選手としては王貞治選手に次ぐ2人目の国民栄誉賞を受賞。
これを花道として、記録を2,215試合まで伸ばし同年シーズンを以って現役を引退。
とかく連続出場記録ばかりが注目されますが、通算安打数は歴代5位の2,543本、本塁打は長島選手を上回り張本選手と並ぶ7位タイの504本は立派の一言。
そして何より私は、どんなにぶつけられても怒らず淡々と1塁に走っていく姿や、近鉄との日本シリーズでベンチワークに不満を露わにする江夏投手を
「お前が辞めるなら俺も一緒に辞めてやる」
となだめたり、更には対戦相手にまで気を遣う衣笠選手の人間性に敬服したものです。
彼の作った連続出場記録は1996年にカル・リプケンJr.選手に破られたのですが、常々「いつか、誰かにこの記録を破って欲しい。」と口にしていた彼は、その言葉通り渡米してリプケン選手を笑顔で祝福したところは、さすが。
その後は野球解説者やコメンテーターとして活躍されましたが、常に冷静かつ穏やかな語り口と、選手を批判せず好プレーを褒める姿勢には好感が持てました。
しかし如何な鉄人も、病には勝てず。
2018(平成30)年4月23日、上行結腸ガンにより71歳で突然この世を去ってしまいました。
その4日前までテレビ中継の解説をしていたのに・・・。
あらためて鉄人の・・・いや、球界屈指の紳士のご冥福を、お祈り致します。
皆さんが最も感銘を受けた彫刻って、どんな作品でしょうか?
ロダンの 『考える人』 や 『地獄の門』 と仰る方も多いと思います。
もちろん私も彼の作品は大好きなのですが・・・今まで最も鮮烈な印象を受けたのは、この作品なんです。(↓)
実物を観たことはないのですが、小学生の頃教科書でこの 『坑夫』 と名付けられた作品の写真を観た時、私はその荒々しさというか逞しさに、まるで雷に打たれたような衝撃を受けたことをハッキリ憶えているんです。
この忘れ得ぬ彫刻を世に残したのが、
荻原 碌山
今日は、この日本を代表する彫刻家の命日・没後110周年にあたります。
荻原(本名:守衛)氏は1879(明治12)年に我が故郷・信州の安曇野で生まれました。
5人兄弟の末っ子で幼少時から病弱だった彼は、本を読んだり絵を描いたりして過ごしたとか。
そんな彼が17歳の時、相馬黒光(こっこう)さんという女性と運命的な出会いをしたのです。
彼女は同郷の先輩・相馬愛蔵の妻であり、2人は上京後1901年にバン販売店を開業。
1904年にクリームパンを発明して繁盛し、やがて新宿に移転・・・そう、あの新宿中村屋の創業者でありました。
文学や美術に造詣の深い彼女から多くのことを教えてもらった守衛少年は芸術への情熱に目覚め、洋画家を目指します。
1901年に渡米してニューヨークで絵画を学びますが、2年後にフランス・パリを訪れた彼はロダンの 『考える人』 を観て衝撃を受け、一転して彫刻家を志すことに。
その後フランスのアカデミー・ジュリアンで彫刻を学んだ彼は、学内コンペでグランプリを獲得するなど頭角を現しますが、冒頭の 『坑夫』 はその頃に制作されたものでした。
また〝碌山〟の号も、この頃から使い始めたようです。
そして1908年に帰国した彼が偶然新宿にアトリエを構えたことが、またしても黒光夫人との再会を果たさせました。
同郷の若き芸術家を相馬夫妻は歓待するのですが・・・やがて黒光夫人の身の上相談に乗る内、荻原氏は彼女に恋心を抱いてしまいます。
それは当然ながら許されぬ恋・・・でも、その想いは深まるばかり。
その頃パリにいた高村光太郎に宛てた彼の手紙には、「我 心に病を得て甚だ重し」 と書き記していたそうですから、恋の病は相当重かったことが分かります。
夫の不倫に苦しみながらも離婚せず子供の世話をする夫人に想いだけが募る彼は、作品にその激情をぶつけるしかありませんでした。
彼の代表作 『女』 は、その愛情と絶望が合い混じった感情をぶつけた作品と言えましょうか。

黒光夫人はこの像を見て、「胸は絞めつけられて呼吸は止まり・・・自分を支えて立っていることが、出来ませんでした」 と語ったとか。
彼女自身、これが自分がモデルであることを直感したのでしょうネ。
しかしこの力作を製作した直後の1910(明治43)年4月22日、まだ30歳の若さで突然この世を去ってしまいました。
死因については様々な説が取り沙汰されましたが、最近の所見では静脈瘤破裂という医師の調査結果が公表されています。
短くはありましたが、その激情に揺さぶられて優れた作品を遺した荻原氏・・・彫刻家人生に悔いはなかったのかも。 一方の黒光夫人は荻原氏の死後、彼の日記を焼いてしまったそうな。
果たして、その真意は? いや、もう敢えて詮索は致しますまい。
シャワーを浴びて寝間着に着替え、ベッドに入ろうとしたその時でした。 携帯電話が鳴ったのてす。
(こんな夜中に誰だ、間違い電話するヤツは。)
そう思って無視していると、一度切れてすぐまたかかってきたのです。
イヤ~な予感がして画面を見ると、発信元には〝N社長〟の表示が・・・。
「はい。」 と出た途端、怒鳴り声がガンガン聞こえてきました。
「こらァ、ナベ。 お前、誰の許しでオレより先に帰えったんだ、あぁ?
今すぐ店に戻ってこんかいっ!!」
だって社長、起こしても目を覚まさなかったじゃないですか・・・な~んて言えるワケもなし。
脱いだばかりの下着とワイシャツを再び身につけ、玄関を出た私。
さっき歩いてきた道を駆け足で戻って店のドアを開けると、N社長が鬼の形相でお待ちかねでした。
「お前、俺より先に帰るたァ、いい度胸してるな。」
「あっ、いや、その・・・。」
任せといて、と言っていたママに視線を送ると、カウンターの奥で知らん顔。 こりゃあダメだと観念して、
「どうもすみませんでした~。」
と絨毯の上で土下座。
「おぅ、素直でよろしい。 お前だから特別に許してやる。」
意外にもアッサリ許してくれたのですが・・・
「じゃあ、もう一軒行くかっ。」(えぇ~、アナタは不死身ですか?)
そして終点の寿司屋に戻ったのが午前3時、再び自宅に戻ってきたのは東の空が白み始めた午前4時過ぎのこと。
そしてそれから16時間後、私は同じ寿司屋のカウンターにN社長と一緒に座っていました。
この土下座事件以降、私より一回り年上だったN社長はスナックでしばしば眠り込むようになりましたが・・・目を覚ます前に私が店を出ることは、決してありませんでした。
◆ ◆ ◆ ◆
私がここの支社長を務めたのは4年間に及びました (※ちなみに私の後任支社長はN社長について行けず、僅か1年で異動)が、定期健康診断では血圧が毎年10ずつ確実に上昇、中性脂肪・尿酸値その他の項目も軒並み危険水域に。
女房には 「こんな生活してたら、アンタ死ぬわョ。」 と言われましたが、あながち冗談では済まなかったかも。
私がその後転職を決意した時に彼女があっさり賛成したのは、この支社での経験が下地にあったのかもしれません。
〝夜の営業〟をしなくなってからは、おかげさまで健康診断の数値が全て安全圏に下がった私。
葬儀屋を始めて健康を取り戻す・・・という、何とも皮肉な結果になりました。
えっ、N社長はその後どうなったかって?
その後も無茶な生活は続いたようで、私が転勤で支社を離れた数年後・・・身体を壊し、50歳代半ばで亡くなられました。
人間、年相応の飲み方をしなきゃいけませんょネ。
「アンタはいいわネ、外でお酒ばっかり飲んで!」
とイヤミを言う奥様がいらっしゃるそうですが、決して旦那さんは楽しいお酒ばかり飲んでいるわけじゃないってことを、どうか理解してあげてくださいまし。