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【特別増刊】 英 断

今から25年前の今日、朝8時15分過ぎ。


当時サラリーマンだった私は、出勤のため地下鉄有楽町線に乗っていました。


・・・と、走行中に電車が突然止まり、しばらくして 「先程、築地駅で走行(運行?)障害が発生しました。」 というような車内放送が流れたのです。


普段 「車両点検により・・・」 とか 「人身事故により・・・」 等々の案内は時々耳にしますが、そんなアナウンスは初耳。


(一体、何があったんだ?)


という、何とも言えぬ胸騒ぎというか、イヤ~な予感がしたことを憶えています。


出社してすぐにクルマで営業に出かけた私は、やたらに走り回るパトカーのサイレンを耳にする異様な雰囲気の中ラジオから流れてくる臨時ニュースを聞き、初めて車内アナウンスが何を意味していたのかを知ることに・・・。


それが1995(平成7)年3月20日、オウム真理教によって引き起こされた


 地下鉄サリン事件


でした。


12名の死者、そして約6,000名もの重軽傷者を出したこの事件そのものについては、あらためてここで説明する必要はないと思います。


      


しかしこの事件が起きた日、3名の医師による 〝英断〟が多くの人命を救ったことについて、当時は殆ど報道されませんでした。


最も多くの被害者を出した地下鉄日比谷線・築地駅。


あまりの被害者の多さに、病院に連絡を取る余裕もないまま救急隊員によって続々と搬送される被害者を見て、 


◆ 外来患者を断り、事件の被害者治療を最優先。
◆ 全ての搬送を受け入れる。


これを即時決断したのが、当時の聖路加国際病院々長・・・2017(平成29)年7月に105歳で大往生を遂げられた日野原重明


ベット数が足りず、礼拝堂を開放して軽症患者を運ぶよう指示したのも日野原院長だったそうです。


        ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-日野原重明先生

                 故・日野原重明先生


一方事態が掌握できなかったため当初は農薬中毒という見方が大勢だったものの、瞳孔収縮等それでは説明できない症状がみられ、治療方法を確定できなかった医師団のもとに一本の電話が入ります。


電話の主は、信州大学付属病院の柳沢信夫医師。(現・信州大学及び東京工科大学名誉教授)


9ヶ月前に起きた 『松本サリン事件』 で被害者治療の指揮を執った方でした。


たまたま観ていたテレビで事件を知り、その被害者の特徴的な症状から 「サリン中毒に違いない」 と確信。 


すぐに自ら聖路加病院に直接電話をかけ、特効薬・治療法などをFAXで伝えたのでした。


その電話を受け、最終的に特効薬 ・プラリドキシムヨウ化メチルPAM ) の投与を決断したのは、同病院救命救急センターの石松伸一医師(現・聖路加病院副院長)。


サリン中毒でなかった場合、この薬の持つ強い副作用で被害者が死亡することも有り得る・・・という状況下での、ギリギリの決断だったそうです。


◆もし聖路加国際病院が全被害者の受け入れを拒否していたら?

◆もし柳沢医師が直接病院に電話せず厚生省等に連絡していたら?

◆もし石松医師によるPAM投与の早期決断がなかったら?


後日アメリカ国防総省から、「死者が70~80名出てもおかしくない無差別テロにもかかわらず、どうして被害を最小限に食い止めることができたのか?」 と日本政府に照会があったとか。


その答えは3人の医師による英断と、救出にあたった警察・消防の方々、また特効薬 “パム” の配送に携わった製造元・スズケンや住友製薬の社員さん、そして非番にも関わらずテレビを見てすぐさま病院に急行し治療に加わった看護士の方々など、多くの人々による献身的な救命活動の集積だった、といえるでしょう。


政治家の優柔不断・実行力不足が目立つ昨今。


国会等で上っ面の空虚な言葉を並べ立て批判や個人攻撃など枝葉末節に拘っている彼らは、非常時に勇気ある決断を下した3人の医師たちの行動を見習うべきでしょう。


そして25年経過したということは、この事件を全く知らない若者が成人になる・・・いや、実質的には現在30歳未満の若者には殆ど実感がないはず。

2018年に松本被告ら当該事件に関わったオウム信者らが死刑になったものの、
この教団が名称を変えて存続していることを含めて、


日本国内で起きた未曾有のテロ事件を、絶対に風化させず次世代に語り継がなくてはなりません。 


最後になりましたが、この事件で不運にも尊い命を奪われた犠牲者の皆様のご冥福と、今なお後遺症に苦しんでいらっしゃる多くの被害者の一刻も早いご回復を、心よりご祈念申し上げます。


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だめだこりゃ

若い世代には、『踊る大捜査線』シリーズでの渋い刑事役のイメージが強いでしょうが・・・昭和世代の私にとって、彼は毎週土曜日午後8時に、ハッピ&鉢巻姿でブラウン管に登場する元気のいいおじさん。


今日は、そのザ・ドリフターズのリーダーであった


 いかりや 長介 さん


の命日・十七回忌にあたります。


       


いかりや(本名:碇矢 長一)さんは、1931(昭和6)年に現在の東京都墨田区で生まれました。

4歳の時に母親を亡くし、疎開先の静岡で終戦を迎えたいかりやさんは、東京の高校を中退後静岡の製紙工場に勤める傍ら同僚らと  「女性にもてたい」 一心(?)でハワイアンバンドを結成。


1959年にミュージシャンを目指して上京、クレイジーウェスト・ジミー時田とマウンテンボーイズに所属。

しかし1961年の大晦日に交通事故を起こしたことで所属事務所との関係が悪化。

翌年、桜井輝夫とザ・ドリフターズに加藤茶さんとほぼ同時期に参加。


1964年には仲本工事さん、高木ブーさん、荒井注さんが加わってザ・ドリフターズを再結成しナベプロに所属。


当時人気絶頂だったハナ肇とクレイジーキャッツの後輩として大々的に売り出されました。

※いかりやさん始めドリフ・メンバーの芸名は、全てハナ肇さんが名付け親。


    


純粋(?)なバンド活動として最も注目を浴びたのは、1966年に来日したビートルズの日本武道館での公演で前座を務めた時でしょうか。


しかしドリフといえば、やはり1969~1985年まで毎週土曜日に放映された 『8時だョ!全員集合』。


私が小学生の時から社会人になるまで続いた長寿・人気番組でした。


毎週笑わせてもらいましたが、そのネタ作りは実に熾烈なものだったことを、彼の著書 『だめだこりゃ』(新潮文庫・刊)で知りました。


       


平均視聴率27.3%、1973年4月に叩き出した最高平均視聴率が50.5%というこのお化け番組は、驚くべきことに殆ど毎週生放送。

ゆえに本番中停電したり火災が発生するなど様々なハプニングがありました。

しかしもっと大変だったのは、本番前。

オンエアの2日前・木曜日に毎週ネタの打ち合わせ会議をしたそうですが、そこでリーダーのいかりやさんがネタを思いつくまで室内は重い沈黙が支配。

当時番組制作に参加していた作家の高田文夫さんは、あまりの重苦しさに耐えきれずその場から逃げ出したことさえあったとか。

その生みの苦しみを15年以上繰り返し、また60歳過ぎても水を被ったり一斗缶や洗面器で頭を殴られたりという身体を張ったコントを続けたのですから、頭が下がります。

『全員集合』 が終了した2年後、1987年にNHK大河ドラマ 『独眼竜政宗』 に出演したことがキッカケで、本格的に俳優業へと転身。


全員集合時代のいかりやさんを知らない若い世代までもが、『踊る大捜査線』 シリーズでの刑事役を高く評価したのも、コント時代の苦労が演技に生かされていたからでしょう。


長く芸能人として活躍したいかりやさんが、原因不明の頚部リンパ節がんで緊急入院したのが2003年5月。

7月には一旦退院し、テレビ出演などの仕事をこなしましたが、翌2004(平成16)年3月15日に転移が見つかり再入院。

その僅か5日後の3月20日に、72歳で天に召されました。

PTAからは子供に見せたくない番組のトップクラスに名を連ね続けた 『全員集合』 でしたが、私にとっては忘れられない思い出の番組。


その中で常に中心で活躍していたいかりやさんは、その後の俳優業と合わせテレビを通じて最もお世話になった芸能人だったと断言できます。

そんな私にとって、最も印象的ないかりやさんの姿は・・・2000年に亡くなったドリフのメンバー、荒井注さんの葬儀で弔辞を読み上げた時。

「出発間際の忙しい時に、とアンタは怒るかもしれないけど、ちょっとお話しましょうや。」


そう言って始まった彼の弔辞は、まるでそこにチューさん本人がいるかのような語りかける口調で淡々と・・・しかしその中身は、かつて黎明期から絶頂期へと向かうドリフターズで共に頑張った戦友ヘの惜別の言葉。


思わず聞き入る、素晴らしい別れの言葉でした。


そのいかりやさん、今は天国で注さんと2人でまたネタ作りに励んでいるのかも。

最後に、いかりやさんが元来ミュージシャンであったことを彷彿とさせる、この撮影時のスチール写真が葬儀の遺影に使われたキリン・ビールのCMを観ながら、昭和時代を代表するコミックバンドリーダーのご冥福をお祈り致します。


いかりやさん・・・ちっともだめじゃなかったですょ!笑2


 


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