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漂 着

今からちょうど420年前の今日、日本史に少なからず影響を及ぼすこととなる船が豊後国(現・大分県)の黒島に漂着しました。


    

それは、日本に初めてやってきたオランダ船の


 リーフデ号

 De Liefde


オランダ語で〝愛〟というシャレた名前を付けられた同船は他の4隻と船隊を組み、極東を目指して1598年9月にロッテルダムを出港。

しかし航海は時化に見舞われるなど惨憺たる状況となり、2隻は他国に拿捕され、2隻は沈没。

ただ1隻残ったリーフデ号も、食糧補給のために寄った港々で赤痢が蔓延したり地元民に襲撃されたりで、出港時110人いた乗組員は、1600(慶長5)年3月16日に漂着した時は、僅か24人に減っていました。(漂着後、更に3人が死亡。)

その中にいたのが、後に日本と大きく関わる・・・というか貢献することとなる、ウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンでした。

ウィリアム・アダムスは1564年のイングランド生まれ。
父親が船員だった彼は、船大工の棟梁に弟子入りするも、やはり航海に関心があり海軍に入隊。


結婚して子供も設けましたが、除隊後も民間会社の航海士・船長として海に出てばかりいた彼は、前述のオランダ船隊で航海士を探しているという話を聞きつけ、弟のトマスと共に乗船。

トマスは航海途上にインディオに襲撃され死亡したものの、ウィリアムは初めて日本に上陸したイギリス人に。


        

                    William Adams


長崎奉行は船員を拘束し積んでいた大砲や火縄銃等の武器を没収。

更にアダムスやヨーステンら船員を五大老首座・徳川家康の指示により大阪に護送し、リーフデ号も回航させました。


当初彼らを海賊だと思い込んでいた家康は、同年5月に彼らを引見して航海の目的やオランダ・イングランドらプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との対立を話したことから気に入ります。

※家康や彼らにとって幸運だったのは、漂着したのが関ヶ原の戦い直前だったこと。

同合戦に於いて家康は
リーフデ号の備砲や砲員・甲冑を利用したそうですし、その功績もその後の乗組員の好待遇に繋がったはずですから。


そして執拗に彼等の処刑を求める宣教師らの訴えを退け、その後も何度か引見を繰り返した後、彼等を釈放して江戸に招聘。

当然の如くアダムスは帰国を願い出ましたが、家康はそれを許さず。

米や俸給を与え、外国使節との対面・外交交渉する際に通訳をさせたりアドバイスを求め、また幾何学・数学などの知識を得たといいます。

そして江戸湾に係留させていたリーフデ号が沈没すると、船大工の経験を買われて西洋式の帆船建造を要請。

アダムスは伊東に日本初の造船ドックを設営して、80トンの帆船を1604年に建造。

更に家康の要請に応えて、1607年には120トンの帆船をも完成させます。

この功績に対し、家康は彼を外交顧問として250石の旗本に取り立てて帯刀をも許し、相模国逸見に采地も与えて三浦按針という日本名を名乗ることを許しました。
(三浦は領地のある三浦郡から、また按針は水先案内人の意)

1602年に日本人女性と結婚しジョセフとスザンヌという子供をもうけた彼は、1613年にイギリス東インド会社のクローブ号が日本に来航した際、一行に付き添って家康らとの謁見を実現させ朱印状を取り付けるなどしましたが、その後も日本に滞在。

しかし信頼を寄せた家康の没後は幕府の方針転換により交易は長崎・平戸に限定され、彼自身も平戸で天文官という閑職(?)に追いやられた末に、1620年5月に55歳で平戸にて死去。

また東京・八重洲の地名の由来となった〝耶楊子(やようす)〟という日本名を賜ったヤン・ヨーステンも、日本人女性と結婚。

彼はアダムスと違い東アジア方面で朱印船交易を行いつつ帰国交渉をしたものの上手くいかず。

1623年に仕方なく日本へ帰る途上、船が座礁し溺死してしまいます。

 ※ヤン・ヨーステンに関しては、こちらの過去記事で。

 


図らずも異国の地に流れついたことで運命が大きく変わったこの2人・・・やはり本国に帰りたかったんでしょうネ。

現在、長崎のハウステンボスにリーフデ号のレプリカ船が係留されています。

訪れた方は、是非アダムスやヨーステンに思いを馳せつつ見学してください。

       


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