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最多勝

あと2週間程でプロ野球が開幕しますが、ここでクイズです。

「日本プロ野球に於いて、最多勝監督は誰?」

多くの方は、不滅のリーグ9連覇を成し遂げた川上哲治氏の名を出すかもしれませんが、残念ながら不正解。

川上氏は通算15シーズン・1,066勝で、歴代11位。
意外にも、ベスト10にすら入っていないんです。

因みに長嶋茂雄氏が通算15シーズンで1,034勝(歴代12位)。
王貞治氏が通算18シーズンで1,315勝(歴代8位)。
ID野球の野村克也氏でも通算24シーズン・1,565勝(歴代5位)。


彼らの遥か上を行く1,773勝で文句なく歴代1位、しかも300試合以上采配を振るった監督で唯一人勝率6割を超えている(.609)のが、

 鶴岡 一人 監督


今日は、南海ホークス (現・福岡SBホークス) の監督を23年に渡って務めた、この名監督の命日・没後20周年にあたります。


    


鶴岡氏は、1916年の広島県呉市生まれ。


広島商業学校時代には選抜中等野球大会で全国制覇するなど早くから頭角を現し、法政大学では1年生からレギュラー三塁手として活躍。


法政大学初の六大学リーグ連覇に貢献し、花形スターとして新聞紙上をにぎわしました。


1939年、大学卒業と同時に当時まだ世間に認知されていなかったプロ野球・南海軍に入団。 その動機は当時戦争体制にあった日本で、


「徴兵されたら生きて帰れるかどうか分からない。 それまで好きな野球をやりたい。」


という強い思いだったとか。


翌年に召集されて陸軍高射砲連隊に入隊し、5年間在籍。


選手として最も脂が乗った時期を兵役に費やすという不運に見舞われましたが、一方で200人もの部下を率いた経験が後に監督を務めた際の人心掌握術に大きく役立ったとか。


1946年に復員後、29歳で監督就任。 


その後7年間選手兼任監督を務めたのですが、選手たちの面倒見もよく、この若さで早くも〝鶴岡親分〟と慕われたといいますから、監督・リーダーとなるべき天賦の才があったようです。

1・2番打者に俊足の選手を置いて盗塁などでかき回しクリーンナップで返すという機動力野球や、自身のコネを駆使したスカウティング、また元新聞記者を初めてスコアラーとして採用したデータ野球などは、全て鶴岡氏が初めて導入したものばかり。


一方選手育成においても、野村克也・岡本伊三美両選手らのテスト生上がりや、飯田徳治・皆川睦夫らの無名選手を育て上げ、一方では東京六大学で活躍した大沢啓二・杉浦忠選手などを獲得。


「グラウンドにゼニが落ちている」 という名文句がつとに有名ですが、以下に鶴岡氏の人心掌握術の巧みさを物語るエピソードを2つご紹介しましょう。


まず一つは、ある試合でアンパイアが明らかな誤審を犯した時のこと。


ベンチからツカツカと主審に歩み寄る鶴岡監督・・・選手や観客が 「スワ、暴言・退場劇か?」 と緊張する中、彼は一言ボソッと呟いただけでベンチにトンボ帰り。


観ている側は肩透かしを食らった形でしたが、この時の呟きこそが名監督たる証だったのです。 その一言とは・・・


「キミ、ひとつ貸したで。」


名監督にこう言われたアンパイアは体面を保てた反面、猛抗議を受けるより遥かに心理的圧迫を受けたはず。


やたらに審判につっかかる監督と、どちらが上か・・・明白ですょネ。

そしてもう一つは、監督退任後NHKで解説していた時のこと。

現在もスポーツ専門チャンネルでフリーとして活躍されている元NHK・島村俊治アナウンサーが鶴岡氏と組んで中継していた時、エラーをした二塁手を厳しく批判したそうな。

その時は 「そうやなァ」 としか言わなかった鶴岡氏が、試合が終わって酒を酌み交わす段になって、

「あんたが言ったことは、間違っておらん。 

だが、あの選手には妻も子もおるんやで。」

と、しみじみ仰ったのだそうです。

        

選手への思いやりと、それを生放送中に言わず島村アナの顔を潰すことなく諭したところは、さすが最多勝を挙げた名監督の心配りだと思います。

人の上に立つ指導者なら、かくありたいものですょネ。

散歩中だった1歳7ヶ月の長女を南海電車の踏切事故で亡くすという不幸にもめげず、南海のために尽くした鶴岡氏が心不全により83歳でこの世を去ったのは、2000(平成12)年3月7日。


プロ野球に一時代を築いた名将のご冥福をお祈り致します。笑3


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