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抜 擢

時代劇でお馴染み、大岡忠相と並んで人気の名奉行といえば、〝遠山の金さん〟こと

 遠山金四郎景元

彼が水野忠邦の抜擢により北町奉行に就任したのが、今からちょうど180年前の今日のことでした。


       


景元は1793(寛政5)年、長崎奉行を務めた遠山景晋の長男として生まれました。

若かりし頃は、養子問題等複雑な家庭事情もあってか町屋近辺で放蕩生活を送ったようですが、1814年に知行4,200石の堀田一定が娘・けいと結婚。

そして1824年に養父・景善が亡くなったことにより翌年から江戸幕府に出仕、江戸城西丸の子納戸勤務となり役料300俵を賜り、当時世子であり後に第12代将軍となる徳川家慶の世話を務めます。

そして4年後に実父・景晋の隠居に伴い家督・知行500石を相続すると、トントン拍子に出世。

1838年に勘定奉行に任命されると、その2年後の1840(天保11)年3月2日、老中・水野忠邦の抜擢により北町奉行に就任。


しかし水野忠邦と目付・鳥井耀蔵が推進する天保の改革の内容があまりに庶民に対し厳しいことから、景元は彼らと対立。

1841年11月
、水野が鳥居の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとした際、景元はこれに反対し、小屋の移転だけに留めました。

この景元の動きに感謝した関係者がしきりに景元を賞賛する意味で、『遠山の金さん』 ものを上演したことが、後の金さん人気につながったとか。

それをやっかんだのか、1843年には鳥井の策謀によって景元は北町奉行を罷免され、実質的には閑職の大目付に。

ところが失脚した水野が復職すると、今度は彼を裏切った鳥井が失脚。
更に水野が再度失脚したことで彼が引き上げた南町奉行も異動となり、その後釜として景元が復帰。

歴史上、北・南両奉行を務めるのは異例だったそうな。

 ※水野・鳥井両名に関する過去記事は、こちら。(↓) 



在任中は水野の後任・阿部正弘に重用され、株仲間の復興や寄席の復活などを実行。

 ※阿部正弘に関する過去記事は、こちら。(↓)


  https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12193655323.html


1852年には、家督を嫡男に譲ると剃髪して帰雲と称し隠居。

(上の肖像画は、その晩年の時のもの。)


そして1855(安政2)年に、61歳の生涯を閉じました。

さて、遠山の金さんといえば、トレードマークは〝桜吹雪〟の入れ墨。


       


放蕩時代に博徒と交遊があり、その時に入れたともいわれていますが、入れ墨を知れていたという正式な資料は見当たらないそうな。

ただ奉行時代しきりに袖を気にして、めくれ上がるとすぐ下ろす癖があったそうですから、肘の辺りまで入れていたのかも。

ドラマではお白州で自ら片肌脱いで入れ墨を見せていますから、実際とは真逆?

もっとも史実(?)に忠実なドラマを作ったら、視聴率は全く上がらないでしょうけどネ。


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