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合 併

今からちょうど50年前の今日、我が国でかつてない大企業同士の大型合併が実現しました。


資本金2,293億円・従業員82,000人・粗鋼生産能力4,160万トンは資本主義国でトップという国内偉大の企業としてスタートしたのが、

 新日本製鐵株式會社


俗にいう、〝新日鐵〟でした。


       

      2009年まで本社が置かれていた旧新日鐵ビル(現JXビル)


この八幡製鐵と富士製鐵両社の合併は、実現の2年前・1968(昭和43)年5月に発表されました。


        


設備の大型化や重複投資の解消、国際競争力の強化を目的として両社が歩み寄ったものですが、政府や財界は概ね賛成。


野党の日本社会党や日本労働組合総評議会(総評)は反対でしたが、全日本労働総同盟(同盟)と両社の労組は反対せず、翌年3月に合併契約書が調印されました。


しかしその契約書調印後、公正取引委員会が独禁法違反の疑いがあるとして審査を開始。

まぁ鉄鋼業界のトップを争う2社が合併するのですから、公取委が動くのは当然でしょう。

そして公取委から5月に合併否認勧告が出されましたが、両社の合併意志は変わらず。

公取委から指摘された独禁法抵触の恐れがある鉄道用レールや食缶用ブリキ、鋳物銑などについては他企業に譲渡するなど少なからぬ出血をして、6月に合併実行が決定しました。


これにより新日本製鉄は1970(昭和45)年3月31日に合併・・・日本で初めて売上高1兆円企業の誕生となりました。

初代社長には、八幡製鉄社長だった稲山嘉寛氏(1904-1987)が就任。

       



氏は同社会長在任中に土光敏夫氏の後任として1980~86年まで第5代経団連会長も務め、またその後任の第6代会長(1886-90)に斎藤永四郎氏、第9代会長(1998-2002)の今井均氏と、3人も財界トップに。

まさに重厚長大産業の代表格として、日本経済界を牽引しました。

ただその反面、稲山社長が韓国浦項総合製鉄(現・ボスコ)の社長を可愛がるあまり新日鐵の培った製造技術を開示してそれを盗ませてしまい、後に日本の製鉄業会を苦境に立たせてしまった負の遺産も残しましたが・・・。

その後同社は2012年に住友金属工業を吸収合併して新日鐵住金に、そして昨年4月に日本製鉄に社名変更。

これまでの製鉄業界の流れを見ると、日本製鉄という社名が先祖返りしていることが分かります。

    

果たして伝統ある社名を復活させた同社の未来は、溶鉱炉のように眩しいくらい明るくなるのでしょうか?


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打 電

2日後には新年度に突入・・・入社式など節目の機会に祝電を打つ機会があるかもしれませんが、皆さんはご自身で祝電や弔電を打ったことがありますか?


友人や親戚宛てに打つ場合もあれば、上司から依頼されて会社名義の打電をした経験のある方もいらっしゃるかと思います。


その場合、どんな文面にされたでしょう?


「ご尊父様のご逝去を悼み、謹んでご冥福をお祈り致します。」


などという、NTTの例文をそのまま使った方、意外と多いのではないでしょうか。


私は葬儀屋時代、殆どの告別式の際に 『弔電奉読』 をしましたが、近年はそういった〝定型文〟だけの弔電ばかりで、オリジナルの電文を目にするケースがめっきり減った気が。


故人様や喪主様、あるいはご遺族の勤務先からいただく弔電などは、ほぼ100%定型文といってよろしいかと。


確かにいただく方がありがたいとは思いますが、あまりに儀礼的な電報って如何なものでしょう。


漆塗り調の高価な台紙を使うと5,000円前後もする弔電でも、決まりきった電文ではちょっともったいない・・・そう思うのは、私だけなのでしょうか?


        ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


大企業の場合、発信人は社長であっても実際に電報を打つのは故人様や喪主様の同僚であることが多いと思いますし、また中小企業の場合は社長自らが当事者をよくご存じのはず。


ならば、その人となりを慮った文章を一行でも付け足していただければ、受け取る側の気持ちは全く違うと思うのです。


「一日も早く悲しみから立ち直り、いつも通りの元気な姿を職場に見せてください。」 とか、「御尊父様の遺志を継ぎ、これからもお身体に気を付けて頑張ってください。」 とか・・・。


きっと受け取られた方に、その想いは通じるはずです。

告別式には、往々にして発信者である社長らご本人が参列され、その弔電奉読を聞かれます。


数が多い場合、定型文だけだと社名しか読まれない場合もありますし、キラリと光るオリジナル文章ならば全文を読まれる可能性は大。


それが社名 (や社長名) と共に読み上げられれば社長ご本人も満足されるでしょうし、弔電を打った方の株も上がるはず。


是非ちょっとした心配りをお願いします。


心配りといえば、もうひとつ。


社名はともかく、代表者の方のお名前にはフリガナをお付けください。


せっかく弔電をいただいても、お名前の正しい読み方が確認できないものは原則的に読みませんし、意外とご喪家も勤務先や取引先の社長・役員名をフルネームで知らないもの。


フリガナつきの弔電を目にすると、「おっ、さすが!」 と私自身その会社名を憶えてしまいますし、受け取る側の記憶にも残るはず。


こういうちょっとした気配りも、間接的な会社の宣伝になること請け合いですョ。笑3


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イージー・リスニング

今日は、昭和世代には懐かしいイージー・リスニングの王者、


 アンヌンツィオ・パオロ・マントヴァーニ

Annunzio Paolo Mantovani

の命日・没後40周年にあたります。

       

マントヴァーニは1905年、ヴァイオリニストだった父親の息子としてイタリアのヴェネツィアで生まれました。


彼が4歳の時に一家でロンドンに移住すると、同地のメトロ・ポール・ホテルのサロン・オーケストラを率いてプロの音楽家としてのキャリアをスタートさせました。

そして1930年代に彼の名を冠したマントヴァーニ・オーケストラを結成。

当初は小規模でしたが、やがて42名を擁する楽団に成長。

しかも42名の2/3にあたる28名を弦楽器で占めるという、当時としては革新的な編成。

それを3つに分けて高音から低音へと音を重ねながら滑らせるという、所謂〝カスケイティング・ストリングス奏法〟を確立。

それによってメロディーの美しさを際立たせロマンチックな音色を生み出すことで、人気を博しました。

それではまず、皆さんが一度は耳に下であろう、その楽団の特徴がよく表れているこの曲・・・『シャルメーヌ』をお聴きください。




如何でしょう?  ストリングスの美しい響きが心地良いですょネ。

1940年にイギリスのレコード会社デッカと契約し、以後マンドヴァーニが1980年3月29日、老衰により74歳でこの世を去るまでの40年間に、延べ767曲も録音。

シャルメーヌの他にも、『グリーンスリーブス』 や 『ムーランルージュのテーマ』 など数々の大ヒット曲を生み出しました。


同楽団はリーダーの死後も解散せず現在でもムードミュージック分野で高い人気を誇っていますが、その結束の固さもマントヴァーニの力量・人格の為せる技なのかもしれません。

それでは最後に大ヒット曲のひとつ、『80日間世界一周』を聴きつつ、彼の冥福を祈りたいと存じます。




昭和世代の方は、『兼高かおる世界の旅』を思い出したでしょうネ。

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代表的日本人

かつて第35代アメリカ大統領にジョン・F・ケネディが就任した時、日本の新聞記者が日本で最も尊敬する政治家は誰か? と質問した際、

「それは上杉鷹山だ」

と彼は即答したのですが、逆に日本の記者たちでその名を知る者は誰もいなかった・・・という逸話は有名です。

日本でもあまり知られていなかった、この江戸時代に生きた米沢藩主を、なぜケネディが尊敬し影響を受けたのか? それは


 内村 鑑三

の著書を読んでいたからだ、と言われていますが・・・今日はケネディ大統領にまで影響を及ぼした、このキリスト教思想家の命日・没後90周年にあたります。

       


鑑三は1861(文久元)年に、高崎藩士・内村宜之の長男として江戸・小石川の武家長屋で生まれました。

幼少期に父から儒学を学んでいた彼でしたが、明治維新の廃藩置県によって父親が隠居すると英学校に入り、英語に親しむように。

そして1874年に東京外国語学校(後の東京大学予備門)に入学すると、そのまま在学すれば東京大学卒となるところを、学費の問題で官費生の特典が受けられる札幌農学校へ。

この間、新渡戸稲造や宮部金吾と同級だった彼は、入学後揃って(半ば強制的に?)洗礼を受け、キリスト教徒に。

       

       札幌農学校時代の左から新渡戸・宮部・内村(1883年)


卒業後、開拓使御用係、農商務省農務局水産課勤務を経て退職。

その直後に結婚したものの僅か3ヶ月で離婚した彼は、私費でアメリカに留学しアマコスト大学で回心(
自らの罪を認め、神に立ち返る個人的な信仰体験)。

帰国後、第一高等中学校(現・東京大学教養部他)で教鞭を取りましたが、その最中の1891年に、講堂で行われた教育勅語奉読式に於いて、彼が明治天皇親筆の署名に対し最敬礼をせず敬礼したのみで降壇したことを同僚・生徒らに非難されてしまいます。


間が悪いことに、ちょうどその頃悪性の流感に罹って寝込んでいる間に事態は悪化し、これが『不敬事件』として世間を騒がせるまで話が大きくなり、結局辞職することに。

しかしそれが却って彼の執筆活動を活発化させました。

後に『余は如何にして基督信徒となりし乎』として翻訳された“HOW I BECAME A CHRISTIAN”など多くの著作を発表。

1897年には新聞社に入社して 『万朗報』 英文蘭主筆となり、幸徳秋水らと共に社会評論家として頭角を現すと、足尾鉱毒事件の反対運動に参画。

しかし日露戦争直前から〝非戦論〟を展開したことで 『万朗報』 を退社。

その後は社会運動からキリスト教の活動に重点を置くように。

1900(明治33)年9月に 『聖書之研究』 を、また1901年に 『無教会』 を創刊し、無教会主義を創唱。


生涯、平信徒として聖書の研究と執筆活動を続けた彼が69歳の誕生日を迎えた直後に天に召されたのは、1930(昭和5年)3月28日のことでした。

さて、冒頭ご紹介したケネディ大統領が読んだとされる彼の著作は、(日清戦争中の1894年に刊行された“Japan and the Japanese

とそれを改訂して)1908年に再版された“Representative Men of Japan ”。

もちろん英語で書かれたものですが、これが後に和訳され 『代表的日本人』 として出版されました。

        

西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の5人を取り上げており、新渡戸稲造の『武士道』と並び広く世界に日本(人)を紹介した名著ですので、是非ご一読をお勧めします。

今宵は、かつてケネディ大統領が読んだであろう上杉鷹山の項を久しぶりに読み返しつつ、著者の冥福を祈りたいと思います。
笑3


ところで、皆さんが 「日本を代表する5人を選べ」 と言われたら、誰の名を挙げますか?

私なら・・・昭和以降自分が存命中を知る人物であれば、松下幸之助・安岡正篤・田中角栄・東山魁夷・王貞治の各氏でしょうか。


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【本日増刊】 武 人

今日は、かつて文部省唱歌にまでなったにもかかわらず、戦後教育では全く教科書に記載されなくなった大日本帝国海軍軍人、


 広瀬 武夫 中佐


の命日にあたります。


       

1868(慶応4)年に現在の大分県竹田市に武家の次男として生まれた武夫少年は、母と7歳の時に死別・・・祖母に厳しくサムライ教育を施されました。


9歳の時に西南戦争で生家は消失し、かつて坂本龍馬と盟友であった父親が裁判官として単身赴任していた飛騨高山に転居。

同地の小学校を卒業後そこで代用教員となりましたが、退職後海軍兵学校に入校し講道館で柔道を学び4段の腕前に。


        

                                   16歳の広瀬青年


兵学校卒業後は海軍少尉に任官され、海門・比叡・筑波・扶桑 に乗船して太平洋での遠洋航海を体験、その間清水港では豪傑ぶりで鳴らした清水次郎長との交友エピソードも残しています。


日清戦争に従軍後、1985(明治28)年には海軍大尉に昇進。


必ずやロシアと戦う時期が来ると考えた彼は、敵国を熟知する必要性を痛感し独学でロシア語を学び始めます。


その努力を評価され2年後にロシア留学生に抜擢されると、ロシア語を学ぶ傍ら軍事施設を見学するなどして同国の情報を収集。


1899(明治32)年には駐留武官となってドイツ・フランス・イギリスを視察。


3年後の帰国時わざわざイルツークまで鉄道に乗って輸送能力を調べ、更にそこからは酷寒のシベリアを馬ゾリで横断し実情を探索。


ちょうどその頃、日本ではあの八甲田山の陸軍遭難事故があったのですから、それよりも過酷な条件の中16日で約2,000kmを走破したことは、実に驚くべき離れ業です。


そして彼の予想通り、やがて日露戦争が勃発。


戦艦 ・朝日の水雷長として出撃した広瀬大尉は、1904(明治37)年3月27日・・・ロシア艦隊の停泊する旅順港の入口に船を自沈させて動きを封じる決死の作戦実行部隊に志願。


第2回目の閉塞作戦は4隻の船を沈める計画であり、その中の一隻・福井丸の指揮官となって出撃。


そして一旦船を離れたものの、行方不明となった杉野孫七上等兵曹捜索のため帰船。


3度も船内を捜索したものの見つからず、仕方なくボートで離船した際に敵砲弾の直撃を受け戦死・・・まだ35歳という若さでした。


生涯独身で、部下への体面から女性とデートしても一切手を出さなかったという超硬派。


次郎長との付き合いや横綱・常陸山と義兄弟の契りを交わしたことからも、気骨ある人柄が偲ばれます。


その生真面目で職務に忠実な性格、そして我が身の危険を顧みず部下を探し回ったということで、彼は2階級特進で中佐となり日本軍初の〝軍神〟として崇め奉られました。


彼の壮絶な戦死はヨーロッパにも軍人の鑑として伝えられ、イギリス・ドイツでは絵葉書にもなり海軍士官教育の模範になったといいます。


また亡くなった後にロシア海軍軍人の娘・アリアズナ嬢との文通が明らかになりましたが・・・彼女は愛する異国人の悲報を聞きその場で卒倒、しかも以後生涯にわたって胸につけた喪章を外さなかったとか。


         


敵国の白人女性をそこまで惚れ込ませた広瀬中佐の人間的魅力は、その言動や逸話の数々から容易に想像できますが、その彼の生涯については、この本によって詳細を知ることが出来ます。(


  『 広瀬武夫  旅順に散った「海のサムライ」   
                     (櫻田 啓・著 PHP研究所・刊)


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


私は常々不思議というか、不満があるのですが・・・なぜ現代の学校教育では、ケネディ大統領やチャーチル首相などの外国人や信長・秀吉・家康など中世の有名人・天下人を扱っても、広瀬中佐のように国の行く末を案じ部下を救うために自らの命を賭けた素晴らしい日本人を取り上げないのでしょう?


ただ軍人だから、と言う理由で除外するのはおかしいと思うのです。


伝説に近い有名人だけでなく、人の道を貫き私たちと同じ世紀を生き抜いた人物とその生き様をこそ、未来を担う子供たちに教えるべきではないでしょうか? 


以前拙ブログでご紹介した、400名以上の溺れかかった敵兵を救助した工藤俊作中佐など、学校で教えない誇るべき先達の逸話を、私たちは子々孫々に語り継がねばなりません。(↓)


いい加減自虐教育から逸脱しなければ、子供たちが自分の国に誇りを持てなくなってしまいます。


最後に、お祖母様が広瀬少年に叩き込んだ 〝八か条〟 をご紹介致しましょう。


 ◆ 他人の悪口を言ってはなりません
 ◆ 嘘をついてはなりません
 ◆ 弱い者いじめをしてはなりません
 ◆ 人を軽蔑してはなりません
 ◆ 愚痴をこぼしてはなりません

 ◆ 人をねたんではなりません

 ◆ 約束は守らねばなりません

 ◆ 口にしたことは実行しなければなりません


・・・嗚呼、耳が痛い。ダメだぁ顔


同郷の作曲家・滝廉太郎にとっても憧れだったという武人・広瀬中佐のご冥福を、尊敬の念と共に衷心よりお祈り申し上げます。


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悪 女

『三代目が身上を潰す』 という格言がありますが、これは洋の東西を問わない・・・いや世界的に有名な企業にも当て嵌まるようです。


〝G〟を2つ並べたロゴマークでお馴染みのブランドといえば、


グッチ

これはグッチオ・グッチ(Guccio Gucci ) が1923年に皮革製バッグの製造・販売する会社として立ち上げたのが始まりでした。

       

そして1953年に創業者グッチオが亡くなると、三男アルドが経営を引き継ぎ、女性服や靴・香水など扱い品目を増やして1970年代に事業を拡大させました。

しかし、良かったのはここまで。

80年代に入ると、アルドの息子即ちグッチオの孫・パウロが高級化路線に反発し独断で低価格ブランドを立ち上げます。

これに激怒したファミリーは、パウロを追放。

パウロは仕返しとばかりに1982年にテレビ番組で内情を暴露し、父親を脱税で告発・・・アルドは逮捕されてしまいます。

ここで後継者として白羽の矢が立ったのが、アルドの弟でグッチオの五男・ロドルフォの一人息子・・・つまりバウロの従兄弟にあたるマウリツィオでした。

(ロドルフォは元々俳優志望でハリウッドで働いていた時期がありましたが、そのコネでグッチ製品を映画の小道具として使わせ、これがアメリカの女性に好評を博したことからエリザベス・テーラー、オードリー・ヘップバーンらハリウッドスターやジャクリーヌ・ケネディら世界のセレブ御用達にした功労者。)

真面目な仕事ぶりを評価されていたマウリツィオでしたが、問題はその妻・パトリツィア。

実は彼女、将来ルドルフォが亡くなればその財産をマウリツィオが相続することを見込んで、彼に色仕掛けで接近したのです。

       


ロドルフォはそれに気づき、息子との結婚に猛反対。

しかしマウリツィオは美しきパトリツィアの誘惑に勝てず、父親の反対を押し切って結婚。

そして彼女の思惑通り、ルドルフォが亡くなり遺産を相続しましたが、野心家の彼女はそれだけで満足せず、社長夫人になることをアルド家のゴタゴタに乗じる形で画策します。

夫をけしかけて父親と衝突していたパウロから株式を買い取らせ、総株式の50%以上を手中に収めると、三代目社長に就任させることに成功。

見事社長夫人の座を射止めた・・・までは良かったのですが、その後彼女は勝手に自らデザインしたバッグを作らせるなど女帝ぶりを発揮。

その本性にようやく気付いたマウリツィオは、1993年に彼女と離婚。

そして真面目なだけで元々経営手腕の無かった彼が指揮するグッチの業績は低迷し、結局彼は離婚した年に全株式をアラブ資本に売却し、グッチの経営から離れることに。

さて、収まらなかったのがパトリツィア。

社長夫人の座を追われた彼女は、その復讐を果たすべくマフィアに元夫の殺害を依頼。

マウリツィオは今からちょうど25年前の今日・1995年3月27日・・・多くの人が行き来する路上で射殺されてしまったのです。


パトリツィアはマウリツィオ暗殺のわずか数時間後に裁判所に行き、マウリツィオの住宅などの差し押さえの申請をしたといいますから、何とも・・・。

犯人が分からぬまま数年が経過しましたが、暗殺の報酬(7千万円)に対する不満から実行犯が警察にチクッだことで事件の真相が発覚。

パトリツィアは逮捕され、懲役29年の判決を受け服役しました。


    

その彼女、実は10年ほど前に 「外に出ても働きたくないから」 という理由で、保釈を拒否すると発言。

更には「グッチ一族の一員として戻るのが夢」とも・・・呆れてモノが言えません。

世の男性諸氏、伴侶を選ぶ時はくれぐれも慎重に・・・って、私のような平民にそんな女性は近寄ってこないでしょうけど。


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分離独立

早速ですが、皆さんはこの日章旗の色違いのような国旗がどこの国のものか、ご存知でしょうか?

       

国土面積は日本の約40%の14万7千㎢ながら、人口は逆に日本より40%程多い約1億7千万人を有する東南アジアに位置する・・・そう、


バングラデシュ人民共和国

 People's Republic of Bangladesh


同国がパキスタンからの独立を宣言したのが、今から半世紀近く前の今日のことでした。


       

16世紀からムガール帝国の下で商工業の中心地として発達してきた同(ベンガル)地域は、18世紀末にイギリスの東インド会社によって植民地化。

その後インド同様に民族独立運動が盛んになると、イギリスは1906年に 『ベンガル分割令』 を発布し、
ヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルに分割。

これが1947年にインドとパキスタンの分離独立に繋がることとなり、東ベンガルはパキスタンにつき、ここで東西バキスタンが誕生。

しかしインドを挟んで1,000km以上も離れている上、宗教や言語が違うため、同じ国家として存続するには無理がありました。


そして政治的中心だった西パキスタン重点の施策に不満がくすぶる中、1970年11月にサイクロンによる大きな被害が発生。

その翌月に行われた
選挙で人口に勝る東パキスタンのアワミ連盟が大勝。

すると西パキスタン中心の政府は翌1971年3月に軍事介入を行って東パキスタン首脳部を拘束。

これによって東西対立は決定的となり、東パキスタンの指導者シェィク
・ムジブル・ラーマンが49年前の今日・1971年3月26日に西パキスタンからの分離独立を宣言したのです。

       

                   Sheikh Mujibur Rahman


その直後から東西バキスタンは内乱状態(バングラデシュ独立戦争)となりましたが、東パキスタンを支持し西パキスタンと対立していたインドが第三次印パ戦争に勝利したことで、同年12月にバングラデシュの独立が確定しました。

バングラデシュはベンガル語で〝ベンガル人の国〟と言う意味であり、国父であり初代首相に就任したラーマンが国旗制定の際に日の丸を参考にしたそうですから、似たのは必然的。

(因みに赤い円は昇りゆく太陽と独立戦争で亡くなった国民の血を、地の緑色は豊かな大地を表すそうな。)


しかし独立後も、同国の政情は不安定。

内戦や洪水による経済状況の悪化により、1975年には
国軍将校によるクーデターが起きてラーマンが暗殺され、その後しばらくは軍事政権が続きました。

その期間中の1977年に、同国の首都・ダッカで日航機ハイジャック事件が起きたことをご記憶の方もいらっしゃるでしょう。


 ※同事件に関する過去記事は、こちら。(↓)


しかし軍事政権が倒れ、1991年の憲法改正により大統領制から議院内閣制へと移行して以降は、原則的に5年毎に総選挙が実施されており、現在はラーマンの娘シェィク・ラシナが首相を務めています。

       

国旗が似ているせいもあってか親日国であるものの、ここ数年は支那が接近しているバングラデシュの今後に、私たち日本人も注目すべきでしょう。


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男 装

女スパイ、男装の麗人・・・といえば、マタ・ハリが有名。(↓)



しかし、日本にも〝東洋のマタ・ハリ〟と言われた女スパイが実在していました。 今日はその

よしこ
 川島 芳子

の命日にあたります。


          


日本名がつけられていますが、実は彼女、日本人ではありません。

本名を愛新覺羅顯
(あいしんかくら けんし)といい、父親は清朝最後の皇族であった第10代粛親王・善耆(ぜんき)。

彼には
正妃1人と側妃4人がおり、彼女らとの間に王子21人・王女17人をもうけましたが、
は一番若かった4番目の側妃の長女・第十四王女として1907年に生まれました。


しかし1911年に辛亥革命が勃発すると、清朝廷内は主戦派と講和派


に分裂。

隆裕皇太后が講和派の主張に傾いて1912年2月に皇帝退位を決断すると、それに反対する粛親王善耆らの皇族は復辟運動を行うため北京を脱出・・・当然ながらも同行しました。


粛親王善耆および家族は日本軍参謀本部の保護を受けて旅順に数年間滞在。

日本政府と復辟運動交渉をするために代理人として指定したのが、義和団の乱以降通訳官として現地入りし、粛親王と親交を結びそのまま現地に残って警務学堂の総監督として清朝に雇用されていた川島浪速(なにわ 1866-1949)でした。


       

               川島浪速(左) と  粛親王


そしてその身分を補完すべく、粛親王は8歳のを彼の幼女とし、川島芳子という日本名がつけられました。

※ただし浪速は籍を入れず、故に彼女は日本国籍未取得のまま。


1915年に来日した彼女は、東京・赤羽の川島邸から豊島師範付属小学校に通い、卒業後は跡見女学校に進学。

その後川島家が郷里の長野県松本市に転居すると、松本高等女学校(現・松本蟻ケ崎高校)に聴講生として通学しますが、1922年に父・
粛親王が死去。

葬儀参列と遺産分配交渉のため帰郷し長期休学を余儀なくされましたが、復学は認められず松本高女を中退。


17歳の時にピストル自殺未遂事件を起こしたり、断髪・五分刈りにして男装するように。 (その原因として川島浪速が肉体関係を迫ったとか恋愛のもつれが原因とする説あり。)

その断髪直後に 「女を捨てる」 という決意文書を認め、それが新聞に掲載されたことで彼女の断髪・男装はマスコミに広く取り上げられ、〝男装の麗人〟と呼ばれました。


端正な顔立ちや清朝皇室出身という血統の良さから高い関心を呼び、彼女の真似をして断髪する女性が現れたり、ファンが押しかけてくるなど、ちょっとした社会現象を巻き起こしたとか。


それから2年後、彼女は関東軍参謀総長・斎藤恒の媒酌により、旅順のホテルで蒙古族の巴布扎布(バブチャップ)将軍の二男と結婚。

        


しかし性格不一致や相手親族との不和が原因で、僅か3年後に離婚。

その後上海に渡った彼女は、そこで駐在武官・田中隆吉と交際し始めると日本軍の工作員として諜報活動に従事。

1931年に満州事変が勃発した際は愛新覚羅溥儀の皇后を天津から旅順に逃す護送に関与。


また第一次上海事変の勃発工作に加担した・・・と言われていますが、それを証言したのは田中隆吉のみで、真偽は不明。


1932年に満州国が建国されると、彼女は小説 『男装の麗人』 の主人公として再び脚光を浴びることに。

〝東洋のマタ・ハリ〟〝満州のザンヌ・ダルク〟などと持て囃され、ラジオ番組に出演したり歌をレコーディングするなど、ちょっとした芸能人並みの注目を集めました。

       


しかし1934年頃から講演会などで関東軍の振る舞いや日本の政策を批判したため軍部から目を付けられるようになり、そのストレスからか薬物を常用するように。

1937年7月に日本軍が天津を占領すると、彼女は同地で料亭を経営し、女将に。

その頃、笹川良一や李香蘭とも交際があったそうですが、1945年に終戦を迎えると、彼女は各地に潜伏。

しかし同年10月に国民党軍に逮捕され、漢奸(売国奴)として訴追され、1947年10月に死刑判決が下されました。

日本で助命嘆願運動が起きたものの、その願いは叶わず・・・1948(昭和23)年3月25日、彼女は北京で銃殺刑に処され、40歳でこの世を去りました。

(死刑になったのは、彼女が日本国籍を持っていなかったから・・・とする説、また処刑されたのは替え玉で実は存命だったとする説も。)


一時交流があったものの、程なく疎遠になった李香蘭宛に、彼女からこんな文面の手紙が届いたそうな。


<「すっかり君も大スターになったな。 もう君と会うことは無いだろう。

君は自分の好きなこと、信じることだけをやりなさい。

僕のようになってはいけない。 今の僕を見てみろ。

利用されるだけされて、ゴミのように捨てられる人間がここにいる。」

世間に注目されながらも、孤独だったのかもしれませんネ。

そんな彼女に興味のある方には、その生涯を丹念に辿ったノンフィクションのご一読をお勧めします。


   『男装の麗人 川島芳子伝』  

                   (上村冬子・著 文藝春秋・刊)

       


久しぶりに同書のページをめくりつつ、寂しき〝男装の麗人〟の冥福を祈りたいと存じます。笑3


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入 水

今から835年前の今日・1185(文治元)年3月24日、源平の最終決戦・『壇ノ浦の戦い』が行われ、ここで平家が滅亡しました。

  


その時に武将だけでなく多くの女性も命を落としましたが、その中で最高位だったのが平清盛の正室、

 平 時子


でした。


彼女は中級貴族だった平時信の娘として1126(大治元)年に生まれました。

宗盛を産んだ1147年に、武家であった平清盛との政略(公武合体?)結婚により正室となったようですが、清盛には前妻がいて2人の間には既に重盛・基盛の2人の男子がおり、清盛にとって宗盛は三男、時子は後妻でした。

 ※平清盛に関する過去記事は、こちら。(↓)



その後二条天皇の乳母となった彼女は、長女・徳子(後の建礼門院)が高倉天皇に入内すると彼女の出産に立ち会うなど清盛一門と皇室の関係を深くする役割を果たします。

1180年に徳子が生んだ外孫が安徳天皇として即位すると、清盛と共に従三宮の宣旨を受け、また清盛が長男・重盛ではなく三男・宗盛を後継者とする意志を強くしたため、時子の出自が嫡流となりました。

そして1181年2月に清盛が亡くなると、彼女は剃髪し〝二位の尼〟と呼ばれ、平家一門の家長的存在に。

しかしその後の源氏との戦いで徐々に追い詰められた平氏は、壇ノ浦の戦いで滅亡したのですが、その際に時子は

「私をどこへ連れて行こうとするのですか?」

と問いかける、まだ6歳だった孫の安徳天皇を腕に抱き、

「心憂き世を去り、極楽浄土に案内致す。
浪の下にも都のさぶろうぞ。」

と答え、共に入水し自害を遂げました。

※この時、安徳天皇の母・建礼門院も入水しますが、源氏将兵の熊手によって引き上げられ、京に送還された後出家。 

大原寂光院で安徳天皇と平一門の菩提を弔い、1214年に59歳で没したとされています。 


この入水時に、彼女は〝三種の神器〟をも手にして海中に没し、神璽と神鏡は源氏軍が確保したものの、宝剣は見つからなかったと言われています。

       

           『安徳天皇入水像の碑』 山口県下関市・みもすそ川別館


それにしても、目に入れても痛くないはずの孫・・・しかも天皇を自らの手で海中に沈めるなんて、現代ではとても考えられない事。

そうしたのは、可愛い孫の行く末を案じ憎き源氏の手に渡すくらいなら・・・という、祖母としての愛情、あるいは平氏の総帥としての意地だったのか?

この辺りの心情、是非女性の皆さんに伺いたいところです。


もし貴女が時子の立場だったら、かわいい孫を水に沈められるでしょうか・・・と。


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超長期

「平時は合議制民主主義でも良いが、有事の際は強いリーダーの登場が望ましい」

とよく言われます。

日本ではその好例として織田信長の名が出ますが、彼の場合は天下統一の志半ばで亡くなってしまいました。

しかしこの方は、第二次世界大戦後に祖国の独立を果たすと同時に初代首相に就任、その後30年余りにわたってその地位を守った、まさに強烈なリーダーシップの持ち主。

今日は、そのシンガポールの


  リー・クアンユー  元首相
  Lee Kuan Yew


の命日・没後5周年にあたります。


        


にこやかながらも強い目力を感じさせる彼は、1923年生まれ。

曽祖父が広東省からイギリスの海峡植民地だったシンガポールに移民した客家系華人の4世にあたり、英語を話す上流階級の出だったそうですが、逆に中国語は話せなかったとか。

ラッフルズ大学に進学したものの、大東亜戦争時に日本軍のシンガポール占領によりイギリス植民地政府が崩壊したため学業を中断。

その後闇市で接着剤を売ったり、シンガポール華僑粛清事件が起きた際は危うく難を逃れると、1943~44年には日本軍に協力して連合軍の通信傍受・翻訳業務に従事。


終戦後はイギリス・ケンブリッジ大学のフィッツウィリアム・カレッジに留学して法律学を学び1949年に首席で卒業すると、同年に帰国後弁護士資格を取得し法律事務所に勤務。


その勤務先の上司が親英政党・進歩党の候補者として立法審議会選挙に立候補。

その運動員を務めたことが、彼の政界入りのキッカケに。


労働組合や学生自治会の法律顧問を務めた際、華人系の住民と繋がりを持つようになり、労働組合の運動指導者にまでなった彼は、1954年11月に人民行動党を創設し党書記長に。


1957年にシンガポール市民権法が成立し、1959年6月に行われた総選挙で同党は51議席中43議席を獲得。

国内の自治権を獲得したシンガポールの初代首相に就任したクアンユーは、イギリスから独立を果たしたマラヤ連邦との合併を画策。

1963年にはマレーシアの一部となりましたが、マレー人と華人との人種対立が激化。

1965年8月9日にマレーシア議会がシンガポールとの関係断絶決議を可決したため、シンガポールは独立国家に。

しかし天然資源や水源が乏しく、また軍事力も脆弱な同国の船出は、多くの難問が山積していました。

 

この国難を乗り越えるべく、シンガポールは独立翌月には国際連合に加盟し、1967年8月には東南アジア4ヶ国と共にASEAN(東南アジア諸国連合)を設立。

また税制優遇措置を実施し、外国資本誘致による輸出志向型工業化戦略を打ち出すことにより、雇用も促進。

その一方で観光局を設置して観光事業に力を入れ、観光立国化にも成功、外貨獲得の有力な柱となりました。

クアンユーは1990年に退任するまで30年余りにわたって首相に在任し、不本意な独立から国土面積が東京23区程のシンガポールを、見事東洋有数の安定国家にしたのです。

退任後も上級相や政府顧問として隠然たる力を誇示したクアンユーが肺炎から合併症を引き起こし、91歳でこの世を去ったのは、2015年3月23日。

没後TIME誌が若き日のクアンユーの写真を表紙に掲載したことからも、その影響力の強さが偲ばれます。

        

現在国難を迎えていると言っていい日本にも、彼のような強烈なリーダーシップを持つ指導者の登場を期待する国民は少なくないでしょうが・・・果たして?


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