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難 癖

最近は、特定野党議員が新聞・週刊誌のネタで重箱の隅をつつくように閣僚を批判し政権叩きをする光景を、国会中継等で少なからず目にします。

そんなくだらない粗探しをすることは国会議員の仕事じゃないだろう・・・とツッコミたくなるのは私だけではないと思いますが、これは何も今に始まったことではありません。

戦前にも、そんなことが行われていました。

今から86年前の今日、軍部出身議員らの猛烈な批判を受けて辞任に追い込まれたのが


 中島 久万吉 商工大臣 (1873-1960)


でした。


        


父・中島信行は、土佐藩を脱藩した尊王志士で海援隊に所属したこともあり、明治政府の高官から下野して自由民権運動に参加し自由党の副総理や初代衆議院議長を務め、その勲功により男爵となった人物。

また母親も陸奥宗光の妹という、まさに名士の家庭の長男として生まれ育った彼は、父親から男爵を襲爵し、岩倉具視氏爵の娘と結婚。

明治学院では島崎藤村と同窓で、文学雑誌を主宰して島崎が文学者になる道筋をつけた後、1897年に高等商業学校(現・一橋大学)卒業後、東京株式取引所・三井物産などを経て、桂太郎・西園寺公望の首相秘書を務めた後、1906
(明治39)年に古河財閥入り。

3代目当主・古河虎之助の補佐役を務めるかたわら、横浜護謨(ゴム)・古河電工などの社長を歴任、1916年には日本工業倶楽部創立と同時に専務理事となり、昭和初年の産業合理化運動に尽力しました。

そして男爵議員として貴族院議員(公正会所属)をも務めた彼が、斎藤実内閣の商工大臣となったのは、五・一五事件直後の1932年5月26日。

2年余り無難に務めた中島大臣が突然スキャンダルに巻き込まれたのは、1934(昭和9)年2月のこと。

雑誌 『現代』 2月号に、中島大臣の足利尊氏に関するエッセーが掲載され、その中身について野党議員が噛みつきました。

       

当時、足利尊氏は後醍醐天皇に背いた逆賊とされており、そういう人物を現職大臣が評価するのはけしからん、というのです。

しかし、そもそもこのエッセーは、中島氏が1921年に静岡市にある清見寺に安置されている〝木造足利尊氏座像〟を拝観し、その感想文を俳句同人雑誌 『
倦鳥』 に投稿したもの。

       

それが13年後に転載されたもので、しかもその内容は辻善之助という歴史家の見解をほぼなぞった、尊氏と足利(室町)時代を再評価すべき、という主旨。

現代なら全くの言いがかり・難癖の類であり、ネット時代の現代なら逆に批判した方が世間から叩かれそうなものですが、軍部が絡んでいたからたまりません。

一旦は中島大臣が転載を知らなかったと陳謝して収まりかけたのですが、軍部出身者が多い貴族院では軍縮を目論む斎藤内閣とそれに賛同する中島大臣を更に叩きます。

批判の先頭に立ったのは、予備役の陸軍中将であった菊池武夫・貴族院議員。

この方、尊氏と敵対した南朝の功臣・菊池氏の子孫だったそうですが、
室町時代には足利氏より肥後国守護職に任じられており、逆賊・足利氏の家来でもあったそうな。

ある意味、先祖の恩を仇で返すような所業ですが、その菊池議員が


「逆賊尊氏を礼賛することは輔弼(ほひつ=天皇の補佐)にあたる大臣の任に堪えない」


として、斎藤首相に中島大臣の罷免を要求。

首相は先の陳謝で決着済みと突っ張ねたものの、野党議員は更に中島大臣の爵位辞退までも口にして首相の政治責任を追及。


マスコミがこれを大々的に取り上げたことで宮内庁にまで批判の投書が殺到したため、中島大臣はやむなく2月7日に大臣を辞任したのです。(爵位は辞退せず)

そして結果的にこの辞任が、議会における軍部の台頭を許す端緒になりました。

中島氏はその後も日本貿易会々長や文化放送会長も務め、経済界の発展に貢献しましたから、有能な人材を実に下らない言いがかりでひきずり降ろしたことは、残念至極。

最近は同様の言いがかりを続ける特定野党や隣国の蛮行が目立ちますが、理不尽な攻撃に頭を下げたら相手はますます増長するだけ。

毅然と反撃する姿勢こそが国民から信頼を受けることを、肝に銘ずべきです。


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