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放 火

〝火事と喧嘩は江戸の華〟と言われますが、江戸時代には3回の大火が起きています。

それは1657(明暦3)年に起きた〝振袖火事〟とも言われる『明暦の大火』、1806(文化3)年に起きた『文化の大火』、そして今から248年前の今日・1772(明和9)年2月29日に起きた


 明和の大火


※振袖火事に関する過去記事は、こちら。(↓)



この別名『目黒行人坂大火』とも言われる大規模火災の火元は、その名の通り目黒行人坂(現・目黒区下目黒)にある大圓寺。


       


午後1時頃に出火すると、折から吹いていた南西の風に煽られて麻布・京橋・日本橋へと延焼。

老中になったばかりの田沼意次の屋敷を含め、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、火の手は神田・千住など下町にまで。

一旦は鎮火したものの、午後6時頃に本郷から再び出火。
更に2日後、馬喰町からも出火して日本橋地区は壊滅。

死者14,000人余り、行方不明者4,000人超という大きな被害を出しました。


 

                 写真図説日本消防史より


延焼地域の地図を見ると、その被害地域の広さがよく分かります。

※見やすくするため、画像は上地図と同じ方向に回転させています。
  左下・黒点が大圓寺、矢印が風向。


    


死者10万人以上ともいわれる明暦の大火に次ぐ大きな被害をもたらした大火災の出火原因は、真秀という大圓寺(を破門された?)の僧侶による放火でした。


当時36歳だったというこの生臭坊主は、女性関係を咎められたこと、あるいはお布施を懐に入れて破門されたことを逆恨みしての犯行だったようですが、昔からこういう自分勝手な人間はいたようで・・・。

犯行後1ヶ月程経った同年4月、火付盗賊改長官・長谷川宣雄(長谷川平蔵の父)の配下によって捕らえられた彼は、同年6月に市中引き回しの上、小塚原(現・荒川区南千住)で火刑に処せられました。

その処刑の直前にも、当今はご倹約流行りだから、景気づけに5軒ほど焼くつもりだったが、大火事になってしまった」 と嘯いたそうですから、もう話になりません。


それにしても、明暦の大火の教訓から道幅を広げるなど防火策を打ち、1718年には町火消を組織していながら、なぜこれだけ延焼したり2度も再出火したのか?

個人的には、材木問屋とか大工の陰謀があったようにも思えるのですが・・・。うー


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再 審

我が国における〝四大死刑冤罪事件〟・・・皆さんはスラスラ名前が出るでしょうか?

免田事件・松山事件・島田事件と、そして今からちょうど70年前の今日起きた


さいたがわ

財田川事件

ですが、この中で最も有名なのは初めて再審無罪が確定した免田事件でしょうか。

 ※免田事件に関する過去記事は、こちら。(↓)



しかし、再審決定という画期的な判断を初めて最高裁が下したのは、この財田川事件の方でした。

       

闇米ブローカーで独り住まいの男性(63歳)が、自宅の寝室で寝間着姿のまま30ヶ所以上を刺されて殺害され、現金13,000円(現在の約10万円)を奪われるという当該事件が香川県三豊(みとよ)郡財田村(現・三豊市財田町)で起きたのは、1950(昭和25)年2月28日のこと。

 


警察は同業者を含め約100人から事情聴取したものの、事件発生から1ヶ月経過しても容疑者が浮上せず。

そんな中、同年4月1日・・・隣町の三豊郡神田村で2人組による強盗事件が発生。



当該事件の犯人として谷口繁義さん(当時19歳)ともう一人が逮捕されたのです。

この2人は当時地元で〝財田の鬼〟と恐れられていた不良仲間でしたから、警察は2月の事件も2人の犯行と睨んで厳しい取り調べ(拷問)を行い自白を引き出そうとしました。

もう一人の方にはアリバイがあることが証明されたため釈放となりましたが、谷口さんのアリバイは釈然としなかったため、取り調べは彼に集中。

約2ヶ月の尋問の末に彼が犯行を自供したため、同年8月23日に起訴されました。

しかし同年11月から始まった高松地裁丸亀支部での裁判で、被告側は拷問による自白だと無罪を主張。

一方の検察側は、取り調べ時に出てこなかった血痕付きのズボンを証拠として提出。


その血液鑑定結果から、裁判所は自白が信用できるとして一審は死刑判決。

控訴したものの二審・最高裁とも上告を棄却し、1957年に死刑が確定しました。

谷口さんは新聞記事から血液鑑定技術が進歩したことを知り、ズボンに付着していた血液の再鑑定を要望する手紙を提出。

そして何人かの引継ぎを経てこの事件の再審請求担当となり、その手紙を差し出されてから5年後の1969年に発見したのが、当時高松地裁丸亀支部長だった矢野伊吉裁判長でした。


       


小学校しか出ておらず漢字も満足に書けなかった谷口さんの手紙は殆ど平仮名で書かれており、裁判で提出されていた谷口さんの犯行を認める5通の手記は到底同一人物が書いたとは思えませんでした。

矢野裁判長は、その手記が第三者によって偽造されたと判断し、その他の疑問点を含め再審の手続きを進めましたが、「たかが手紙ごときで・・・」という反対運動に晒され、共に再審を検討した2人の裁判官も土壇場で言を翻してしまいます。

普通なら自分の地位・立場を考えて請求を引っ込めそうなものですが、矢野裁判長は違いました。

なんと30年余り務めた裁判官を1970年に辞職し、弁護士になって再審請求をしたのです。

矢野弁護士が指摘したズボンの血液の偽造など、自白に対する〝3つの疑問と5つの留意点〟を最高裁が採用し、1976(昭和51)年10月12日高松地裁に差し戻しを指示。


1979年11月6日に再審を決定した高松地裁丸亀支部は、1984(昭和59)年3月12日に自白に信用性がないこと及びズボンも証拠にならないとして無罪を言い渡し、谷口さんは34年ぶりに釈放されました。

       


しかし彼の冤罪を晴らすために裁判官を辞め、活動中も高松弁護士会から懲戒処分を受けるなどの妨害を受けながら頑張った矢野弁護士は、残念ながらこの判決が出される1年前に71歳で亡くなられていました。

その矢野弁護士自身が、1972年に脳卒中で半身不随になりながらも当該事件について上梓した本がありますので、興味のある方は是非ご一読ください。


 『財田川暗黒裁判』 (立風書房・刊)

       

同書の〝むすび〟で、矢野弁護士は

「谷口の無罪を証明することは、とりもなおさず、警察官を、検事を、先輩の裁判官の落ち度を摘発し、それを暴いてしまうことになる」

と逡巡したことを吐露しながらも、

「だが、自分の生活の平和を護るために、無実の者を見捨てることは、私にはどうしてもできなかった」

と述べておられます。


当時の警察の卑劣な取り調べや証拠の捏造などには腹が立ちますし、その捏造を下関係者が罪に問われていないのは釈然としませんが、自ら職を辞して法の正義を守ろうとした矢田弁護士の信念と行動には頭が下がるばかり。

ちなみに釈放された谷口さんは地元でその後静かに余生を送り、2005年7月に74歳で亡くなっています。

確かに冤罪で長く監獄暮らしを余儀なくされたことには同情しますが、元はと言えば10歳代で悪事を散々働いたことが罪を被せられる遠因になったことは確か。

因果応報・・・とは、言い過ぎでしょうか。


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名 門

中学生時代にバスケットボールに熱中していた私は、日本リーグの試合に飽き足らず、どうしてもアメリカのプロバスケットボール・NBAの試合が観たくて仕方ありませんでした。

ところが当時NHKはもちろん、郷里・長野で唯一の民放・SBC(信越放送)でも一切放映しておらず、唯一中継していたのは東京12チャンネル(現・テレビ東京)。

そこで私はオヤジを拝み倒して東京のテレビ電波を拾える特殊なアンテナを屋根に取り付けてもらい、ザラザラな画面を目を細めながら観戦したものでした。

その12チャンネルの番組では 『NFLフットボール・アワー』 も楽しませてもらいましたが、もうひとつ欠かさず観ていたのが、1968~1988年まで放送されていた 『三菱ダイヤモンド・サッカー』。

3年前に逝去された岡野俊一郎さんが解説を務めていたこの番組でヨーロッパ・サッカーのレベルの高さを知ったのですが、私が観ていた1970年代前半にドイツのブンデスリーガだけでなくヨーロッパ・サッカー界の頂点に君臨していたのが

  バイエルン・ミュンヘン

  Fußball-Club Bayern München e.V.


このドイツが誇るサッカークラブが創設されたのが、今からちょうど120年前の今日・1900年2月27日のことでした。


     

フランツ・ヨーン監督が11人の選手を集めて結成された同チームは、1932年に全国タイトルのドイツ・チャンピオンシップで初優勝。

しかし1963年に発足したブンデスリーガには初年度に参加を認められませんでした・・・が、加入以降は今季まで1度も2部リーグ降格しておらず、同リーガで通算26勝という歴代最多を誇る、まさに名門。

私がダイヤモンドサッカーを観ていた1970年代前半は、そのままドイツ代表チームの主力であった〝皇帝〟フランツ・ベッケンバウアーと〝爆撃機〟ゲルト・ミュラーが大活躍。

 
          Beckenbauer               Müller


彼らの全盛期であった1971~72年シーズンから、ブンデスリーガ3連覇。

1973~74シーズンからUEFAチャンピオンズカップ3連覇と、まさに黄金時代を私は観ていたわけです。

更に1980年代にもルムメニゲを擁して3連覇と2連覇を達成。

一時的な低迷期もありましたが、2012~13シーズンから昨シーズンまで、ブンデス・リーガ7連勝を達成・・・名門の地位は少しも揺らいでいません。

それどころか、銀河系軍団レアル・マドリードやバルセロナ、マンチェスター・ユナイテッドと共にヨーロッパ屈指の同クラブは、これからもリーガ牽引の重責を担っていくはず。

かつてのスター選手だったベッケンバウアーが元会長、そしてルムメニゲが現会長を務め、創設以来の無借金経営を続けている名門チームのレギュラーとして日本人選手が活躍する姿を、この目で観たいものです。扇子


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史上最辛

先日、あるブロ友さんから

「是非コレを激辛党の渡辺さんに試食してもらいたい」

という依頼(?)メールが届きました。 それは


 ペヤング 獄激辛焼きそば

今月17日からコンビニで先行販売され、一昨日・24日から一般販売が開始された新商品。

ペヤングの激辛やきそばについては、過去に何度か拙ブログでレポートしてきました。

直近では、約1年半前。(↓)




〝END〟と銘打たれたものの私にはあまり辛くなく、激辛唐辛子をかけてちょうどいい塩梅って感じでしたが、今回の〝獄激辛〟はこの3倍の辛さとのこと。

情報を下さったブロ友さんも辛さに強い方なのですが、コレを食べたら舌が痛くなり胃にもきたとか。

ならば、激辛党員として挑戦しなければなりますまい・・・ってことで、早速コンビニでゲットし、昨日試食致しました。

〝獄〟と銘打っただけのことはあって、パッケージには閻魔大王(?)が描かれ、恐ろし気。

     

入っていたソースのパッケージも、いかにも〝毒入り危険〟って感じ。

       

通常のカップ焼きそばと同じでお湯を注いで3分間待ち、湯切りしてから混ぜ合わせると・・・。

     

パッと見、特に辛そうじゃないですが・・・まずは、一口。

う~ん、やっぱり大して辛くない。 いや、むしろ甘さすら感じる・・・と思っていたら、ジワジワッと辛さが増してきました。

とは言え舌が痛いとか食べられない、という程ではありませんが。

ってことで、〝END〟の時と同じく激辛唐辛子 『舞妓はん ひぃ~ひぃ~』 をかけてみました。

     

しかし〝END〟と違い、辛味に違いを感じられず。


ってことは、それだけ辛い・・・つまり激辛カップ麺系では、メーカー・まるか食品さんの言う通り過去最辛であることは間違いないでしょう。


私の舌は味蕾細胞が壊れているんで水なし・一気食いできましたが、メーカーさんの名誉のために申しますと今までになく額に汗をかき、鼻水も出ました。あせあせ


幸いにも胃や腸にダメージはありませんでしたし、トイレでヒリヒリすることもありませんでしたが・・・。

    

過去の激辛リポートでは、夫婦喧嘩の憂さ晴らしや罰ゲームにご利用を・・・なんてオススメしていましたが、この獄激辛は止めといた方がいいかも。

パッケージに書いてある通り泣くほど辛い、というより 「何でこんなもの食べさせたんだ~!」と逆ギレされたり、下手したら心臓麻痺を起こす可能性もありますから。

〝END〟で打ち止めだと思っていたら、更に辛い商品を出してきたペヤング・・・果たして今後、私があまりの辛さに泣くような超激辛焼きそばを開発してくれるのでしょうか?

って、そんなもの食べる人は殆どいないでしょうけど。

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恵比寿

我が国で、ビールの醸造が始まったのは、いつ頃だと思いますか?

大正時代? いやいやもっと古くて明治時代?


正解は、何と江戸時代の1853年なんだそうです。驚き顔 ヘェ~


その後1886年には船来ビールの輸入量を国産ビールの製造量が上回り、麒麟ビールの販売も始まるなど国産ビールの興隆期を迎えました。

 ※キリンビールに関する過去記事は、こちら。(↓)


そんな中、今からちょうど130年前の今日・1890(明治23)年2月25日に日本麦酒醸造会社から発売されたのが、


 惠比壽麦酒


そう、現在の 『ヱビスビール』 です。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-ヱビスビール


サッポロビールの前身である同社が、ドイツ人技師カール・カイザー氏を招聘して醸造されたこのビールは、当初〝大黒天〟 と命名されるはずでしたが、既に横浜で〝大黒ビール〟 が販売されていたことから 〝恵比寿〟 に。


しかしその味は人々の支持を集めたようで、早くも4年後の1894年には黒ビールも発売開始。

   

  1890年発売当時のラベル(左)と1894年発売当時の黒ビールラベル

1900年に開催されたパリ万博では金賞を獲得するなど、一流ブランドとしての地位を確立します。


当初現在の目黒区三田にあった醸造工場から馬車で出荷していましたが、この受賞をきっかけに販売量が増えたため、1901年に貨物積卸専用駅の恵比寿停車場を開設。

    

              三田に竣工したビール工場


1906年に旅客の取り扱いを開始したのが、現在のJR恵比寿駅なのです。 (当然のことながら、地名の恵比寿もこのビールが由来。)


太平洋戦争時の1943年にビールが配給制になった時点で一旦ブランドは消滅しますが、1971(昭和46)年に復活。


当初は販売が低迷したものの、グルメ漫画 『美味しんぼ』 で取り上げられたことなどから販売量が伸び始め、いわゆるプレミアムビールのトップブランドに。


現在はプレミアムモルツと鎬を削っており、ヱビスブランドで多品種のビールが販売されていることは、皆さんご承知の通り。


さて、そのエビスビールの中に、〝ラッキーヱビス〟なるものが存在することをご存じでしょうか?


ラベルに印刷されているえびす様は、向かって左側後ろにビク(魚篭)を置いていて通常はカラなのですが、稀に鯛が入っているのだそうな。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-ヱビスビール


その確率は、数百本に1本とのことですが・・・残念ながら私は今まで現物に出会ったことはありません。ダメだぁ顔


皆さんは、如何でしょうか?


これからはラベルをじっくりチェックしてみてください。


あっ、くれぐれも量販店やスーパーで探しまくるのだけは、みっともないから止めましょうネ。うー



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始 祖 

日本美術史上最も有名な流派といえば、狩野派でしょうか。

その狩野派を代表する同派4代目の絵師・狩野永徳については、過去に拙ブログでも記事にしました。(↓)



今日は、その狩野永徳と同時期に活躍し、狩野派に対抗する長谷川派を立ち上げた、

 長谷川 等伯

の命日・没後410周年にあたります。


等伯は1539(天文8)年に、現在の石川県七尾市で能登藩の下級家臣・奥村文之丞宗道の子として生まれました。(狩野永徳の4歳年下)


そして幼少時に染物屋を営む長谷川宗清の養子になりましたが、その宗清が雪舟の弟子・等春の門人だったことから、絵画に親しむ環境に育ったそうな。

10代後半頃から父・祖父から絵の手ほどきを受けていたと思われ、長谷川家が熱心な日蓮宗信者だったことから、法華関係の仏画・肖像画を数多く描いたようです。

20代半ばでは既に熟達した作品を描いていた等伯は、33歳の頃の養父母を相次いで亡くしたことから、郷土の菩提寺・本延寺の本山・本法寺を頼って妻子共々上洛。

一時は狩野派・狩野松栄に学んだものの、千利休や日蓮宗の僧侶・日通らとの交流を通して宋・元の絵画に触れるなどして、独自の画風を確立していきました。

千利休の仲介により、それまで狩野派の牙城であった大徳寺などの大仕事を請け負うように。

 
                
大徳寺山門天井画


等伯が利休に近づいたのは、競争相手だった狩野永徳と親しくなかったからだったとか。


永徳の記事にも書きましたが、彼等2人は相当お互いをライバル視していたようです。


       

         利休没後に等伯が描いた『利休居士像』(重文)


1590年には秀吉が建立した仙洞御所対屋の障壁画の仕事を請け負うべく画策したものの、狩野永徳に巻き返されたことも。

しかしその1ヶ月後に永徳が亡くなると、翌年には秀吉の嫡子・鶴松の菩提寺・祥雲寺(現・智積院)の障壁画制作を等伯が受注。(↓)

 

                
楓図(かえでず)・国宝 


これを大変気に入った秀吉から知行200石を与えられたことで、長谷川派は狩野派と肩を並べることに。

しかし好事魔多し・・・同年に支援者の利休が秀吉に切腹させられると、その2年後には跡継ぎとして育てた長男・久蔵に先立たれてしまいます。

その悲しみを乗り越えて・・・というか振り切るかのように、等伯はこの年から2年の歳月をかけて自らの代表作である水墨画の傑作 『松林図屏風』(国宝) を完成させています。(上・右隻 下・左隻)

    


 


その後、1599年には本法寺寄進の『涅槃図』から〝自雪舟五代〟と落款に冠し、自身を雪舟~等春~法淳(養祖父)~道浄(養父)~等伯と雪舟から自らの養祖父・養父を間にして5代目であると宣言。

これが功奏して大寺院からの制作依頼が次々と舞い込み、当代一流の絵師としての地位を盤石のものとしました。

65歳の時には制作中に高所から転落し、利き腕の右手を負傷したようですが、それでも制作意欲は衰えず。

1610(慶長10)年に徳川家康の要請により次男・宗宅を伴って江戸入りしましたが、その途上で発病し、江戸到着後わずか2日後の同年2月24日に70歳でこの世を去りました。

当時としては長寿だったため多数の作品を残し、また宗宅をはじめ実子をそれぞれ絵師として長谷川派を継承させているのは、さすがといえましょう。


ただし狩野派よりも色彩感覚に優れ斬新な意匠を特徴とする長谷川派も、始祖・等伯の没後は彼を超える優れた画家は輩出できませんでしたが・・・。


あの狩野永徳が一目置いた程の等伯の作品、是非美術本やネット検索で味わってみてください。


    

      『長谷川等伯 生涯と作品』(黒田泰三・著 東京美術・刊)


 


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一枚の写真

1975~86年にかけて、久米宏さんが司会を務めた人気番組『ぴったしカンカン』に、ブログタイトルと同じコーナーがありましたが、今日はその話題ではありません。

今からちょぅど75年前の今日・1945年2月23日・・・その年のピューリッツァー賞を受賞した歴史に残る写真が、太平洋の無人島で撮影されました。


皆さんもご存じであろう、その1枚とは


     硫黄島の星条旗

   Raising the Flag on Iwojima


    


後に太平洋戦争のシンボルとしてアーリントン墓地に建てられた海兵隊戦争記念碑の元になった、有名な写真です。


我が母校・長野高等学校の大先輩であった栗林忠道中将(当時)率いる日本軍が死守せんとする硫黄島にアメリカ軍が上陸を開始したのが、同年2月19日。

 ※栗林中将に関する過去記事は、こちら。(↓)


激しい艦砲射撃や空爆に耐えた日本軍の必死の抵抗も虚しく、遂に米軍兵6名が擂鉢山頂上に日本軍の水道管をポールにして星条旗を掲げ、それを同行したAP通信社カメラマンのジョー・ローゼンタールが撮影したのです。


※しかし星条旗はその後2回にわたり夜間日本兵によって日章旗に取り換えられたとか・・・日本兵の執念が伝わってきます。


この写真は異例の速さでアメリカ本国に送られ、18時間半後には各新聞がこれを掲載。


米国民が熱狂する中、一人の政治家がある策略を巡らせます。

それは、時の大統領F・ルーズベルトでした。

        Franklin Delano Roosevelt  


彼は星条旗を掲げた国民的ヒーローの6人を帰国させ、売れ行きが伸び悩んでいた戦時国債のキャンペーンに利用することを思いついたのです。


結果的に3名がその後の戦闘で死亡し、残ったレイニー・ギャグノン、ジョン・ブラッドリー、アイラ・ヘイズの3名が大統領命令で帰国。

彼らはヒーローとして全国各地を巡り、ルーズベルトの企み通り国債売上に貢献。


実に目標額の2倍に当たる233億ドルを国庫にもたらしました。


私はこの史実を、C・イーストウッドがメガホンを取った映画


  『父親たちの星条旗』 2006年公開)      

   Flags of Our Fathers


を観て、初めて知りました。


       


そしてこの映画でも描かれていますが、本来なら平凡な帰還兵だったはずの3人は偶然旗を立てたことで国民的ヒーローとなり、またその後半生・・・いや、人間性までもが大きく変わってしまいます。


ギャグノンは早く結婚したものの、その後なかなか定職には就けず。

ヘイズは有名になった重圧からその後アルコール依存症に陥り、うつ病も併発。 

何度か留置場の出入りを繰り返した挙句、硫黄島の戦いから10年後に32歳の若さで過度のアルコール摂取により急死。

またブラッドリーも心に深い傷を負い、この一連の出来事を家族には話さなかったと言います。


しかし 「孫たちのために語り継いでほしい」 という妻の強い要請により、1985年に一度だけ過去を語ったそうですが、その話を元に彼の息子ジェームズ・ブラッドリーが関係者を訪問して調査・出版した同名の著書が、映画の原作となりました。


そして隠された事実が、もうひとつ。

この写真、実は2回目の掲揚の時のもの。
これ以前に一回り小さな星条旗が立てられていたのです。


しかし最初の旗を掲げたC・W・リンドバーグ伍長が帰国後周囲にその事実を話しても信じてもらえず、逆に嘘つき呼ばわりされたとか。ダメだぁ顔


もし最初の星条旗掲揚の写真が大々的に報じられていたら、リンドバーグ伍長が時の人となって逆に3人は平穏無事な後半生を送り、更にはイーストウッドの映画は制作されなかったかも・・・。

1枚の写真は、国政から兵士の人生までを大きく変えたのです。


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新大陸

新大陸を発見したとして一般的に有名なのはコロンブス・・・ですが、実際に彼が辿り着いたのは大陸ではなく、西インド諸島のひとつであるサン・サルバドル島。


 

しかしコロンブスは終生ここがアジアのインドだと信じていました。

 ※コロンブスに関する過去記事は、こちら。(↓)



今日は彼の陰に隠れながらも現在の世界最強国というか大陸にその名を残すイタリアの探検家・地理学者、

 アメリゴ・ヴェスプッチ
   Amerigo Vespucci


の命日にあたります。


       


ヴェスプッチは1454年にフィレンツフェで公証人の息子として生まれました。 (コロンブスより3歳年下)

父の弟つまり叔父から教育を受けラテン語やギリシァ語を習得した彼は、プラトンなどの古典文学や地理学に親しむように。

やがて分家の当主ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコに仕えた彼は、1481年にセビリアのベラルディ商会に入り、メディチ家の事業監督者となりました。

そしてスペイン国王フェルナンドが西インド探検航海を企画、それに参加要請を受けたヴェスプッチは43歳にして初めて外洋航海へ。

1497~98年にかけてカリブ海沿岸を探検する(※現在は航海していないとする説が有力)と、1499~1500年にかけての2回目の航海では更に南下してブラジル北岸まで探索。

ちょうどこの頃、カブラルがポルトガル王に命じられ喜望峰経由でインドに向かう途中にブラジルを発見し、同国はその領有を主張。

同地が新発見の島なのか、あるいは既にスペインが探索していた大陸の一部なのかをはっきりさせるべく、その調査役にヴェスプッチを抜擢。

彼は1501~02年に3回目の航海を行い、南緯50度まで南米大陸東岸を南下。

 


この時、彼はアジア最南端のマレー半島やアフリカ最南端よりも南に陸地が続くことから、それが新大陸であることに気づき、1503年に論文 『新世界』 で主張しました。

(その後更に1503~04年にかけて4回目の航海に出たとする説もありますが、これは確認されていません。)


この主張は当時の常識を覆すものとして知識人層には衝撃を与えましたが、彼の名が一般的に知られるようになったのは、1507年に南ドイツの地理学者マルティン・ヴェルとゼーミュラーがこの『新世界』 の内容を含む 『世界誌入門』 を出版してから。

この中に収録された世界地図に新大陸が描かれているのですが、ヴェスプッチに敬意を表して彼の名アメリゴのラテン語名アメリゴ・ウェスプキウスの女性形から〝アメリカ大陸〟と初めて名付けられたのです。


 

        左・矢印の細長い陸地が、アメリカ(南米)大陸


その後多少の紆余曲折がありながらも、アメリカ大陸という呼称が一般的に使われ現在に至っています。

但しこの当時はヴェスプッチ自身も北米大陸の存在は知らず、南米大陸について記述しているのみに留まっています。

北米大陸と陸続きであることがスペインの探検家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアによって確認されたのは、1512年2月22日に57歳でヴェスプッチが亡くなった、その翌年のことでした。

それでも現在の世界最強国に自らの名が冠せられていると知れば、きっとヴェスプッチもあの世で満足しているかも・・・。

※ちなみにコロンブスの名も南米コロンビアの語源となっており、それなりに名誉を保っています。
あせあせ

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来 日

葬儀屋時代は、いつ入電があるか分からないため、大好きなクラシック音楽のコンサートは年に一度、年末の第九しか聴きに行けなかった私。

昨年引退してからは、良いコンサートがあれば行こうと思ってはいたものの、中々これは・・・と思える演奏会はなし。

11月にはよくCDで聴いているベルリン・フィルやウィーン・フィルが立て続けに来日したものの、S席50,000円はさすがに手を出せず。

結局昨年末の第九のみに終わってガッカリしていたのですが、今年に入って以前から聴きたいと思っていたアーティストの来日情報を掴みました。

それは以前拙ブログでも記事にした、


 
アンネ=ゾフィー・ムター
          Anne-Sophie Mutter


たまたまクラシック専門チャンネルで見かけた〝カラヤンの秘蔵っ子〟は、天才少女からすっかり美貌と貫禄を備えたヴァイオリン界の〝女王〟に成長していました。

CDも何枚か購入して聴いていた私は、彼女の来日情報を聴きつけ、すぐにチケットを購入。

そして昨夜、サントリーホールでのコンサートに足を運んで来ました。


    


ベートーヴェン生誕250周年記念〟と銘打たれたコンサートの演目は、3曲。

序曲 『コリオラン』 はオーケストラ(新日本フィル)のみの演奏でしたが、彼女は(この日のメインと言える)2曲目の 『ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品61』 からラメ入りのゴージャスな黒いドレスに身を包んでステージに登場。

※ 写真撮影禁止のため、その美しさをお見せできないのが残念!
 
 昨日のイメージに近い画像が、こちら。(↓)

    


この曲は数あるヴァイオリン協奏曲の中でも最も重厚かつ有名な作品ですが、以前テレビで観たムターのドキュメンタリー番組で彼女自身が語ったところによれば、かつてカラヤンと最も数多く共演したコンチェルトだそうな。

ただ彼女が14歳の時にリハーサルをした後、カラヤンは共演を急遽中止。

まだこの大曲を演奏する域には達していない・・・という判断だったようですが、ムターはこれを帝王からの激励と捉え、その後もクサらず精進に励んだそうな。

そしてそれから1年後再びリハーサルに臨んで見事カラヤンのお墨付きをもらい、コンサートでも成功を収めたとのこと。

※私が持っているCDは、その直後・・・彼女が16歳の時、1979年の録音。(↓)


    

そんなエピソードを知った上で聴くと、まるでカラヤン/ベルリン・フィルとの共演を聴いているような錯覚に陥りました。


演奏後ブラボーの掛け声と共に何人もの聴衆からスタンディング・オベーションを受けた彼女は、「今世界中で病気(コロナ・ウィルス)で苦しんでいる方々に」捧げるバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルテイータから1曲をアンコール演奏。


そして休憩の後、3曲目の(偶然?にも↑のCDに収録されている)『ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲』では、長年ピアノ伴奏のパートナーとして組んでいるランバート・オルキスと共演。

さすが超一流アーティストが奏でるヴァイオリンの音色は、どの曲でも実に艶やか。 特に高音域が素晴らしかったです。

『第九』で聴く合唱の圧倒的な音量とは違うものの、たった1挺のヴァイオリンの音がオーケストラに負けず、あそこまでホール一杯に響き渡るとは・・・ちょっと鳥肌が立つくらい感動。

やはり、アンネ=ゾフィーは〝女王〟でした!


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北極点

日本ではあまり知られていませんが、今日は西洋人で初めて北極点に到達したといわれる探検家、


 ロバート・エドウィン・ピアリー
Robert Edwin Peary


の命日・没後100周年にあたります。


        


ピアリーは1856年にペンシルバニア州クレソンで生まれましたが、父親を3歳の時に亡くすと母と共にポートランドに移り住み、ボルデウィン・カレッジで土木工学の学位を取得。


1877年に卒業した後、米国沿岸測地測量局でエンジニアとして働き、1881年から海軍に入隊。


その後ニカラグア運河調査の助手などを務めた彼が北極に関心を持つようになったのは、1891~97年にかけて4度グリーンランド探検をしてからのこと。

その間現地イヌイットの女性と結婚し2児をもうけた彼は、翌1898年に北極点到達に挑戦するも、失敗。

そして1909年4月6日、ピアリーら6名(アメリカ人2名・イヌイット4名)が北極点到達に成功した・・・といわれています。

       


この宣言により、それまで同様に北極点を目指していたアムンセンや白瀬中佐らは南極点に目標を変えることに。

 ※アムンセンに関する過去記事は、こちら。(↓)



「したと言われている」 と伝聞形で書いたのは、実際に西洋人として初めて北極点に到達したのが彼だ、という確かな証拠がないから。


この探検から帰還後、以前共にグリーンランド探検をしたものの本の出版を巡ってピアリーと衝突・決別したフレデリック・クック(1865-1940)が、

「自分は1908年4月21日、北極点に到達していた。」

と主張し、論争が巻き起こりました。


        
              Frederick Albert Cook


調査委員会まで設置され事の真偽が審査されましたが、クックが以前宣言したマッキンリー初登頂がウソだったという証人が現れたことで彼の発言の信憑性が疑われ、結局ピアリーに軍配が。

しかし後日、その証人に対しピアリーから現在の貨幣価値で約1千万円もの大金が渡されていたことが明らかになっていますから、偽証の疑いが非常に強いのです。

当時ピアリーのバックにはナショナル・ジオグラフィックやニューヨーク・タイムスがついていたそうですから、彼はメディアによって力ずくで英雄に仕立て上げられたとも言えます。

※クックはその後偽証の罪で収監されるなど、不幸な後半生を歩みました。 実際に北極点には到達していなかったようですから、ある意味身から出た錆とも言えます。
しかし彼の名誉のために付け加えますと、その探検技術は一級品だったようで、前述のアムンセンもそう証言しています。


またピアリーの到達地点は後の調査で北極点から約6km離れた場所だったことも確認されていますから、果たして彼を西洋人初の北極点到達者と認めていいのかどうか・・・。

ただ最初の北極点到達に失敗した際、凍傷により足の指8本を切断したにもかかわらず何度もチャレンジした彼の探検家スピリットは一級品だったことは確か。

いや、もしかしたらスポンサーの関係で止めるに止められなかったのかもしれませんが・・・。
うー


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