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激情型?

今日は、映画監督としてだけでなく、タレントやコメンテーターとしても活躍した

 大 島  渚 さん

の命日・没後7周年にあたります。    


    


大島監督は1932(昭和7)年に岡山県玉野市に生まれました。

父親が水産学者でカニやエビの研究をしながら瀬戸内海を転々としていたことから、〝渚〟と命名された大島少年は、6歳の時にその父親が亡くなったため京都にある母の実家で暮らすように。

1950年に京都大学に入学した彼は、学生運動に加わり京都府学連委員長を務めた、バリバリの左翼(とは言え、後に彼は既成左翼を批判していたそうですが)。

そのせいか法学部助手試験に不合格となるも、在学中に劇団 『創造座』 を創設・主催していた彼は、大学卒業後松竹に入社。

助監督を務めた後、1959年に 『愛と希望の街』で監督デビュー。


翌年の 『青春残酷物語』 などのヒットにより、篠田正浩さんらと共に〝松竹ヌーベルバーグの旗手〟として知られるように。

しかし1960年に安保闘争を描いた 『日本の夜と霧』 を発表したものの、公開から僅か4日後に松竹が無断で上映を打ち切ったことに怒った彼は、翌年退社。



後に結婚する女優の小山明子さんや助監督だった田村孟さん、俳優の小松方正さんら6名で映画会社 『創造社』 を立ち上げます。

その後テレビ界にも進出し、活動の幅を広げると共に認知度も高まると、1973年に 『創造社』 を解散し、2年後に大島渚プロモーションを設立。

その翌年、阿部定事件をモチーフに激しい性描写で話題となった『愛のコリーダ』 を発表。

現在販売されているDVDにもボカシが入っているそうですから、当時としては時代の最先端(?)を行っていた同作は、カンヌ映画祭に出品され話題になる一方、スチール写真などを掲載した雑誌 『愛のコリーダ』 は猥褻物頒布等の罪で起訴されました。(判決は無罪)


しかし個人的に最も印象に残る大島作品といえば、やはり1983年に公開された『戦場のメリークリスマス』。


ビートたけし師匠が勝新太郎の代役として起用され、後に北野武監督が誕生するキッカケを作ったこと、また沢田研二さんの代役で出演した坂本龍一さんの音楽が素晴らしかったことやデビッド・ボウイを起用したことなど、まさに日本映画史に残る名作・・・というより話題作でした。


       


大島監督は、以前拙ブログでご紹介した 『少年』(1969年) でも、主役の少年に素人を抜擢するなど、俳優以外の素人をよく起用することでも有名だそうですが、『戦メリ』 もその典型と言えましょう。

 ※『少年』に関する過去記事は、こちら。(↓)



その後も人間とチンパンジーの愛を描いた 『マックス、モン・アムール』 などを発表し、1980年から16年間も日本映画監督協会の理事長を務めた大島さんですが、私としては映画よりも 『朝から生テレビ』 のレギュラー出演など、テレビのコメンテーターという印象が強いです。

実際、ご本人も当初は撮影資金捻出のためにテレビ出演していたものの、この頃にはそれが生きがいになっていたと仰っていますから・・・。

そして最も記憶に残る大島さんの映像といえば、1990年に行われた
結婚30周年パーティーの際、祝辞を頼んでしたのにそれを忘れ、何時間も待たせた野坂昭如さんにステージ上で殴られ、マイクで反撃したシーン。(↓)


まるで子供の喧嘩みたいで笑っちゃいますが・・・実は大島さん、過去に頼んだマッサージが来ないと腹を立てて旅館の女中さんを殴ったり、対談した韓国の文化人に 「バカヤロー」 と言ったりと、かなり血の気が多い方。

でも短気な人に、悪人はいないっていいますけどネ。


そんな大島監督が脳出血でイギリスのヒースロー空港で倒れたのが、1993年。


3年のリハビリを経て1999年に発表した『御法度』は、ブルーリボン賞の作品賞・監督賞を受賞。


2000年には紫綬褒章、翌年にはフランス芸術文化勲章オフィシエ章を受章したものの、再び病状が悪化。

そして遂に2013(平成25)年1月15日、肺炎により80歳で天に召されました。

今は、2015年に亡くなった野坂昭如さんと仲直りして、天国で酒を酌み交わして・・・あっ、飲み過ぎるとまた喧嘩になっちゃうかナ?
あせあせ


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