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太神楽

もういくつ寝ると・・・の時期になりました。

お正月というと、初詣や松飾りなど様々な恒例行事がありますが、芸能界の風物詩といえば


 海老一 染之助・染太郎 兄弟

の伝統芸能〝太神楽(だいかぐら)〟でした。

彼等の 「おめでとうございま~す!」 をテレビで観ると、お正月が来たという実感が湧いたものです。

しかし現在、その伝統芸をナマで楽しむことはできません。
盛り上げ役だった兄・染太郎さんは既に2002(平成14)年に他界し、今日は曲芸担当の弟・染之助さんの命日・三回忌にあたりますから・・・。


       

海老一兄弟(本名:兄 村井正秀 弟 村井正親)は、落語家・三遊亭圓駒の子として東京・新宿区に生まれました。

終戦直後の1945年9月に二代目海老一海老蔵に入門した2人は、コンビを結成。

翌年12月に新宿末広亭で海老一勝太郎・小福の名で初舞台を踏むと、1949年に染之助・染太郎と改名し、太神楽を披露。

1960年には旧ソ連で初の海外公演を行うと1965年には米ABCテレビにも出演。

1988年から約半年間 『笑っていいとも』 にレギュラー出演するなどしましたが、やはり彼らの姿を多く見かけるのは、お正月。

各局をハシゴして何度も傘の上で枡を回したり口にくわえた棒に土瓶を乗せるというワンバターン芸(失礼!)を披露していましたが、不思議と何度観ても飽きませんでした。


       

 「弟は肉体労働、兄は頭脳労働、これでギャラは同じ」


という定番ギャグの通り、染之助さんばかりが芸を披露していましたが、実は兄・染太郎さんも芸が出来たとのこと。

そのせいか、ステージ上では絶妙の掛け合いをしていた2人ですが、楽屋裏では仕事の役割分担を巡って時々喧嘩するなど、兄弟仲はあまり良くなかったとか。

2002年に染太郎さんが亡くなった後、染之助さんはピンで活動を続け、2003年には林家木久蔵(現・木久翁)さんと正月限定でコンビを結成。

翌年には桂米助さんと〝お染ブラザーズ〟を組むなどして芸能活動を続けましたが、2017(平成29)年12月6日・・・肺炎により、83歳でこの世を去りました。

きっと今頃は天国で兄弟そろって正月の出し物を稽古しているのかも・・・。

最近は殆ど地上波テレビを観ない私ですが、今度の正月はこの動画を観て昭和時代の思い出に浸りたいと思います。



 


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公 営

皆さんは、こんな暖簾が下がっているお店に入ったことがありますか?

       

私は幸いにしてありませんが、言わずと知れた質屋さんですネ。


質屋とは、財産価値のある私有物品を担保(質草)として預かり、流質期限までに弁済を受けない場合は当該担保を以ってその弁済に充てる条件でお客に金銭を貸し付ける事業者のこと。

その歴史は古く、西洋では古代ギリシァやローマ帝国に、また東洋でも約1,500年前の隋に現在とほぼ同じシステムの質屋業務を寺院が行っていたとか。

我が国では、鎌倉時代に出現したといわれています。

そして現代日本の質屋は民営ですが、意外なことに以前は


 公益質屋

が存在していました。

それが東京都内で初めて日暮里に登場したのが、今からちょうど100年前の今日・1919(大正8)年12月5日のこと。


(運営は、1917年に発足した東京府慈善協会・・・現在の東京都福祉事業協会)

※日本初の公益質屋が登場したのは、これより7年前・1912年。 

場所は宮崎県・細田村だといわれています。

時の村長が既にヨーロッパで登場していた公益質屋の存在を知り、貧しい漁村の困窮を救うべく知事に相談して開設したとのこと。

    

                公益質屋の受付窓口

この公益質屋と民間質屋の違いは、

◆民間が実質月利9%なのに対し、公益は3%と低く、しかも利息は半月計算。
◆民間より公益の方が流質期間が1ヶ月長い。


◆流質しても、公益質屋では競争入札で売ることが要請され、その代金から元金・利息を引いて残金があれば、顧客に返す。

今なら民営圧迫だと質屋さんから猛抗議されるでしょうが、不景気だった当時に生きた人々にとっては、まさに天の助けだったはず。

この公益質屋はその後徐々に増え、1925年には39軒。

       

                東京・下谷の公益質屋


そして公益質屋法が施行された1927(昭和2)年には81軒、1940(昭和40)年には1,127軒と急増。

しかし戦後の好景気やサラリーマン金融の登場でニーズは徐々に減り、2000(平成12)年に公益質屋法が廃止され、日本からは消滅。


ですから今は利用したくてもできないんです。

公益質屋同様、民営の質屋もサラ金の登場で一時はかなり苦境に立たされたようですが、最近は従来の貸金業というよりもブランド品や宝飾品の買取で、再び息を吹き返しているのだそうな。


バブル期後半からでしょうか? 主に女性が高級ブランド品を質屋さんに持ち込んで換金するようになったのは・・・。


リアリティーTVやニュース番組の企画で質屋さんの窓口に隠しカメラを設置し、店員さんとお客さんのやり取りを紹介することがあります。

女性客が入りやすいような、明るくて清潔感のある店内に持ち込まれる品々と繰り広げられる会話は、実に味わい深いものが・・・。


一番ビックリしたのは、ホステスさんらしき女性が、全く同じ色と型番の高級ブランドバッグを5つ持ち込んだ時のこと。


「何でこんな同じ品物ばかり持ってるんですか?」


と訝る店員さんに、カラカラと笑いながらその女性が言うことには・・・複数のお客さんに同じバッグをおねだりおねだりして買ってもらい、一個だけを残して全部を換金に来たとのこと。


「だってぇ、そうすれば誰とデートした時でも、『アナタに買ってもらったバッグ、いいわよォ』 ってごまかせるじゃない!」 驚き顔


いやはや、女性の逞しさというか、したたかさを見せつけられました。


こんなケースが多いからでしょうか、質流れ品のバーゲンセールは、新品同様のモノが安く手に入るってことで、大変な人気だとか。


さすがに今では、こんな裏ワザを使える女性は限られるでしょうけど、 


下心を持って言われるままにプレゼントしようとする男性諸氏は、くれぐれもご用心、ご用心!うー


 


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進 呈

先日、エネゴリ君の店でいつものようにランチを食べていると、カウンター越しに彼が突然、

「渡辺さん、コレ差し上げますョ。」


と、細長い筒を差し出してきたんです。

「何? コレ。」

と聞くと、

「渡辺さん、最近熱心にゴルフやってるじゃないですか。
だから、マスターズのカレンダーをプレゼントしようと思って。

先日『紅葉』をいただいたんで、そのお返しです。」


彼の言う紅葉とは、枯れ葉じゃなくて私と女王様が大変好きな日本酒の銘柄。(↓)



店のオーナーが日本酒好きなこともあり、日頃お世話になっているお礼として毎年1本お店に進呈しているんです。

「へぇ~、今までそんなお返しなんてしなかったのに・・・随分気が利くようになったじゃない。」


「いやァ、いつも渡辺さんに鍛えられてますから~。」


「おぅおぅ、オベンチャラまで言えるようになったとは、随分進歩したネ。
とにかく嬉しいョ。 サプライズ・プレゼントありがとう!」


「ウッホッホ~。」

と、彼も鼻の穴を膨らませて満面の笑み。

私はカレンダーを手に、木枯らしの吹く道をテクテク歩いて帰宅すると、早速ビニールの筒からカレンダーを取り出して広げてみました。

昨年優勝したタイガー・ウッズの勝負服の赤と、マスターズ・トーナメントの開催コースであるオーガスタ・ナショナルの緑色が眩しい表紙にウットリ。

ところが、その下には『〇〇産業株式会社』という、聞いたことのない企業名が入っているじゃありませんか。


    


数日後再び店に行った私は、カウンター席に座るなり、

「おい、エネゴリ君ョ。 
この前くれたカレンダー、買ったんじゃないの?」


「えぇ、友達がボクにくれたんです。
わざわざカレンダーなんて買いませんョ。」


「ってことは、貰い物かョ。 
じゃあ 『紅葉』 のお返しが、横流し品ってこと?」


「そういうことになりますかねェ。 
でもいいじゃないですか、渡辺さんあんなに喜んでくれたし。」


「そりゃ嬉しかったけど、そういうもんじゃないんじゃない?」

「そうなんスか?」

と怪訝そうな顔をするエネゴリ君・・・やっぱり、まだ私の指導が甘いのかも。


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印象派

今日は、いわゆる〝印象派〟の画家として日本ではモネと共に人気が高い


ピエール=オーギュスト・ルノワール

  Pierre-Auguste Renoir


の命日・没後100周年にあたります。

       


ルノワールは1841年に、フランス南部にある磁器工場が立ち並ぶ街・リモージュで仕立て屋の息子として生まれました。(7人兄弟の6番目)

他の印象派画家がブルジョワ階級出身の中で珍しく労働者階級の出だった彼は、3歳の時に家族共々パリのルーブル美術館近くに移住。

生まれつき美声だった彼は、9歳の頃作曲家グノー率いる教会の聖歌隊に入り、高い評価を受けます。

その才能を見込んだグノーは熱心にオペラ座の合唱団入りを勧めましたが、知人からルノワールを磁器工場の徒弟として雇いたいという申し入れを受けた父親がこれを断り、聖歌隊も辞めさせてしまいました。

でも結果的に、それがルノワールにとっても人類にとっても正解だったのかも・・・。


13歳の時に絵付け職人見習いとして磁器工場に入りましたが、その頃は産業革命が進む時代・・・磁器業界にも機械化の波が押し寄せて失業したルノワールは、扇子の装飾職人を経て、20歳の時に画家になることを決意。


1861年11月にシャルル・グレールのアトリエに入塾すると、そこでモネやシスレーなど後の印象派画家たちと知り合いに。

そして師匠グレールの放任主義にも助けられ、自由に作品を描き研究を重ねた彼は、1862年に官立美術学校にも通い、翌年サロン・ド・パリに初応募するも落選。


しかし翌年に再応募して入選を果たし、以後は常連に。

1869年には一時期モネとキャンバスを並べて描いたこともありましたが、1870年に普仏戦争が勃発すると騎兵隊に従軍。

1871年にパリに戻りましたが、その頃からサロンは保守性を増し、ルノワールや仲間たちは落選が続くように。

そこで彼はモネやビサロと共に共同出資で会社を設立し、1874年にサロンから独立したグループ個展(第1回印象派展)を開催。
(※上の写真はこの頃のルノワール)


しかし保守的な画壇では彼らの斬新な表現は受け入れられず酷評され、その後第2、3回の個展の評価も同様。

有名な大作 『
ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』(1876年 ↓)も厳しい評価をされたとか。


  


※この作品は、1990年に大昭和製紙のオーナー経営者・齊藤了英氏が約119億円で購入、「俺が死んだら一緒に荼毘に付してくれ」 と発言したことでも有名。           


当時は国内外から非難を浴び、ちょっとした騒動になりましたが・・・幸いにもそれが現実になることはなく、現在は他の収集家の手に渡っているとか。


しかし世の中には先見性があり彼らの作品に理解を示す人もいて、中でもシャルパンティエ夫妻はルノワールにとって大事なパトロンとなりました。


1878年には経済的な苦境を脱するため、やむなく印象派展から離脱しサロンに再出品して入選した彼はその翌年、後に妻となるアリーヌと交際を開始。

1881年からアルジェリア・イタリアを旅してインスパイアされた彼は古典主義への関心が強まりましたが、1890年以降は温かい色調の女性裸体画を数多く制作。

1892年の『ビアノに向かう娘たち』が4,000フランでフランス政府買い上げになったり、レジオンドヌール勲章(3等)を授与されるなど、珍しく生前から一流画家としての評価が固まりました。


    

3人の子宝に恵まれたものの、その一方で1897年に自転車から落下して右腕を骨折したことが原因で、以後慢性リウマチに悩まされるようになった彼は、1990年からその療養を兼ねて、南仏カーニュ=シュルメールで過ごし、1919年12月3日に78歳で病没するまで、約4,000点もの膨大な作品を遺しました。


       

                1910年・70歳頃  


亡くなる数時間前、花を描きたいからと言って筆とパレットを欲し、それを返す時息子に

「ようやく何か分かりかけてきたような気がする。」

と呟いたとか・・・芸術の底の深さを感じさせるエピソードですネ。

日本の浮世絵に影響を受けた半面、マティスやピカソだけでなく梅原龍三郎や岸田劉生など多くの日本画家に影響を及ぼしたロマン派を代表する巨匠の冥福を、今宵その作品を鑑賞しつつ祈りたいと存じます。


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自 動

これを1回も利用したことのない日本人は、子供を除いて殆どいないでしょう。 その

 現金自動支払い機
     Cash Dispenser


所謂〝CD〟が日本で初めてお目見えしたのが、今からちょうど50年前の今日でした。


この画期的な機械を開発したのは、京都に本社を置く大手電気機器メーカーのオムロン。


同社がCDを手掛けるキッカケになったのは、自動食券発売機の開発でした。

東京五輪が開催される前年の1963年、同社が開発した自動食券販売機・両替機が大丸百貨店京都店に設置され、大きな話題に。


それは121種類もの食券を販売し、硬貨の真贋を判別し釣り銭も出せるという、それまでにない画期的な機械でした。


         


同社はその技術力を見込んだ科学警察研究所から緊急依頼を受け、百発百中の識別性能を持つニセ札発見機を開発。

更には当時世界最大の自動販売機メーカーだったアメリカのオートマティック・キャンティーン社と共同で、1965年に世界初のカード式自動食品販売機も。

これら一連の技術を生かして、磁気カードによるオフラインの現金自動支払機を開発して住友銀行に納入。


1969(昭和44)年12月1日、同行が新宿など4つの支店に配置したのです。


       

当時は現在とは違い引き出し額が1万円単位でしか指定できず、千円札10枚が入った袋が出てきたとか。

この2年後には三菱銀行本店で世界初のオンラインCD機が稼働。


その後預入専用の機器の開発を経て、支払いと預け入れの二つの機能を併せ持つ、現金自動預払機ATM Automatic teller machine) の開発へと繋がりました。

現在は銀行だけでなくコンビニ等でも24時間現金を引き出すことがてできますが、このATMが無かった時代は口座を開設している銀行窓口に届け出印鑑と通帳を持って行き、列に並んで引き出したもの。

しかも平日のみ午後3時まで・・・今ではちょっと考えられない不便さですょネ。

ただ便利になった反面詐欺を目論む連中に悪用される事例が増え、静脈認証等々様々な新技術も導入されていますが、当分イタチごっこが続きそう。

ところでこのATMを利用された時、出てくるお札が一万円札と千円札のみだってことを、ご存知でしたでしょうか?

二千円札はもちろん、五千円札を出さないのは経費節減のためだそうで、五千円札が出るATMは全国でも殆どないんだそうです。

今度ご利用される時、ちょっと確かめてみてください。

でもいくら便利になったとはいえ、このATMをパチンコ屋に設置するのだけはやめて欲しいですけど・・・。


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