大晦日恒例の紅白歌合戦・・・第1回がラジオ第一で放送されたのは1951(昭和26)年のことですか、実は1月3日でした。
その後第2回も1月3日、第3回が1月2日に行われ、現在のように大晦日の放送になったのは、テレビ放送が始まった第4回から。
当初から人気が高かったそうですが、ビデオリサーチ社が発足し視聴率という具体的な数値が公表されるようになって以降、史上最高の視聴率81.4%を記録したのが、今から56年前の今日・1963年12月31日に行われた第14回大会でした。
20%を超えればオバケ番組と言われる現代では、まさに天文学的な数字ですネ。
この年の会場は、有楽町にあった東京宝塚劇場。
(現在使用されているNHKホールは1972年に完成しましたから、当然ですけどネ。)
司会は白組が宮田輝アナ、紅組は当初森光子さんの予定でしたが、新年早々の舞台の関係で急遽人気歌手の江利チエミさんに変更。
その結果、それまで11年連続出場していた江利さんは、史上初の司会兼歌手としての出場となりました。
しかしそれ故に、歌手の方が目立つよう地味な衣装を選ぶなど、いろいろ気遣いが大変だったようです。
出場歌手としては、紅組が雪村いづみ、島倉千代子、越路吹雪にザ・ピーナツ、更には吉永小百合さんも歌っています。
また白組ではアイ・ジョージ、森繁久彌、三橋美智也、村田英雄、橋幸夫、舟木一夫、春日八郎ら錚々たるメンバー。
後に50回連続出場を果たした重鎮・北島三郎さんはこの年が初出場で、三番手に出場した若手でした。
そしてトリは紅組が美空ひばりさん、白組が三波春夫さんと、まさに昭和の香りプンプン。
更に通常はラストで蛍の光を全員で合唱するところを、翌年に東京五輪を控えていたため、『東京五輪音頭』が歌われたとか。
もしかしたら、今年の紅白でも同じような趣向が繰り返されるかも・・・?
幸いにも、この歴史的な紅白歌合戦のビデオ映像が残っています。
3分半の短縮バージョンですが、是非ご覧ください。(↓)
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009050264_00000
この動画に登場する、後に日航ジャンボ機墜落事故の犠牲になった坂本九さんは3回目の出場でしたが、この時は本番直前に衣装を全部盗まれ、急遽自宅から持ってきた自前のタキシードでの登場だったとか。
さて史上最高の視聴率を叩き出したものの、それ以降紅白の視聴率は年々下がり気味。
グラフで見ると、一目瞭然です。
視聴率低下の要因としては、視聴者の嗜好の多様化とチャンネルの増加。
また番組のマンネリ化・陳腐化が挙げられます。
しかし下がったとはいえ昨年も40%を超えていますから、他に類を見ない高視聴率番組であることは確か。
さて、今晩行われる第70回紅白歌合戦・・・皆さんは、最初から最後まで観ますか?
それとも私のように、観ませんか?
いずれの方々も、良いお年をお迎えください。
殆どの方はそのメロディーに聴き覚えがあっても、作曲家の名を知る人は少ないかもしれません。
今日は、その20世紀アメリカを代表する作曲家、
リチャード・ロジャース
Richard Rodgers,
の命日・没後40周年にあたります。
ロジャースは1902年にニューヨークのクイーンズ区でドイツ系ユダヤ人外科医の子として生まれました。
10代の頃から作曲の才能を見せていた彼は、17歳の時にまず作詞家のロレンツ・ハートと知り合い、彼の詞に曲をつけることですぐに名声を博すように。
名曲を量産し続けましたが、1943年にロレンツが48歳で亡くなってしまい、このコンビは解消。
パートナーの死にショックを受け落ち込んだロジャースでしたが、やがてそれ以上の名コンビとなる人物との出会いが。
それは作詞家・作家だった、オスカー・ハマースタイン2世。
Richard Rodgers & Oscar Hammerstein II
ロレンツが亡くなった1943年に発表された新コンビによるミュージカル『オクラホマ』は大ヒット。
これに気を良くした2人は、『回転木馬』(1945)、『アレグロ(1947)、『南太平洋』(1949)、『王様と私』(1951)、『ME&JULIET』(1953)、『パイプ・ドリーム』(1955)、『フラワー・ドラム・ソング』(1958)とヒットを連発。
そして極めつけが、1959年の『サウンド・オブ・ミュージック』。
半世紀以上経った今でも世界のどこかで上演されていると言われる名作中の名作ですが、私を含め殆どの日本人は1965年に公開された映画でこの作品を知ったはず。
最も有名な『ドレミの歌』は、私を含め殆どの方が小学校で歌った経験があるでしょう。
しかし残念ながらこの超人気ミュージカルがブロードウェイで公演中だった1960年8月にハマースタイン2世が65歳でこの世を去ってしまったため、黄金コンビによる作品は、これが最後になりました。
それでもロジャース&ハマースタインが創り上げたミュージカルは、トニー賞を34回、アカデミー賞を15回、ピューリッツァー賞を2回、グラミー賞を2回、そしてエミー賞も2回受賞。
これら全てを受賞したのは、過去にロジャースともう一人しかいないそうな。
生涯に出版された彼の曲は900以上、そしてブロードウェイで上演されたミュージカルを40作品も残した彼が77歳でこの世を去ったのは、1979年12月30日のことでした。
亡くなった日の夜は、ブロードウェイの劇場全てが灯を消して彼の死を悼んだそうな。
それでは20世紀にアメリカが生んだ名作曲家の冥福を祈りつつ、黄金コンビが遺した作品のストリングス・メドレーをお聴きください。
皆さんもご存知の旋律が、いくつも登場するはずです。
そして曲だけでなく、リチャード・ロジャースの名も記憶に刻んでいただきたく・・・。


今日は、我が愛読誌・月刊『致知』1月号より、致知出版社・藤尾秀昭社長の巻頭エッセーを一部編集にてご紹介致します。
◆ ◆ ◆ ◆
JR東海の葛西敬之(よしゆき)名誉会長は、1963(昭和38)に国鉄入社。
当初は国鉄の枠の中で与えられた使命をいかに完遂するかに集中して仕事をしてきた。
だが、その国鉄は赤字と累積債務が拡大し、経営危機に陥る。
折しも、国の財政も破綻をきたしていた。
となれば増税である。 しかし、国民の反対は免れない。
そこで政府は増税なき財政再建をテーマに行政改革を決意し、第二次臨調行政調査会をスタートさせた。
国家財政再建には、国鉄の問題を解決しなければ先へ進めない。
ということで、国鉄問題は増税なき財政再建のメインテーマとなった。
国鉄で予算と長期計画と労働問題の3つを経験してきた葛西氏は、第二臨調の担当調査役に任命された。
これがきっかけで、氏は国鉄の分割民営化及びJR東海の創業に携わり、以後32年間同社の発展に懸命に尽力、今日に至ることになる。
国が運営する巨大組織・国鉄は、なぜ崩壊したのか?
当時、国鉄は毎年国から7千億円を超える助成金を受けていた。
にもかかわらず、毎年の赤字は1兆円を超えていた。
赤字最大の要因は、労働生産性の低さにあった。
人件費が年収の90%近くを占めていたのである。
稼いだ金の90%近くが賃金に支払われるという異常状況にあった。
しかも一方では東北・上越新幹線を建設中で、経常的な赤字分に加えその工事費分も借金で賄っていたため、毎年2兆円ずつ借金が増加。
昭和56年当時、借金の合計は16兆円を超えていた。
借金が利子を生み、その利子が新たな借金を生む。
国鉄の台所はまさに火だるまになっていたのである。
なぜこのような状態になったのか?
公共事業体という組織の在り方そのものに原因があった・・・と、葛西氏は言う。
公共事業体は国の一部であり、運賃・賃金・要員総数・設備投資など予算全てが国会で決まるが、国会の議決には国鉄労働組合が支持母体となっている社会党の合意が必要であるなど、迅速かつ合理的な意思決定ができない。
こういう状況では対策は常に不十分で時期遅れとなる。
そこに国鉄赤字の真因があった。
この根本的解決には、一旦国鉄を解体、清算する必要がある。
ということで、国鉄の分割民営化に向けた取り組みがスタートし、1987(昭和62)年にJR各社が誕生した。
※国鉄の分割民営化に関する過去記事は、こちら。(↓)
この国鉄崩壊の事実から我々が汲み取るべきものは何か。
自律自助のないところには、どんな経営も成り立たない、ということである。
自律とは自分で自分を律すること。
他に振り回されず、自分をコントロールし、自分のリズムを創っていくことである。
自助とは自分で自分を助けること。
「自分の力で自分の向上発展を遂げること」と辞書にある。
即ち自律自助とは依存心を捨て、すべてを自分の責任として対処していくことだと言える。
他人や環境のせいにせず、自分の最善を尽くすことだとも言える。
「天は自ら助くる者を助く」 という格言がある。
自律自助の精神がある人にのみ、天はその力を与えてくれる、ということだろう。
明治初期、福澤諭吉『学問のすゝめ』と共にベストセラーとなったサミュエル・スマイルズ『自助論』の冒頭の言葉をかみしめたい。
「自助の精神は人間が真の成長を遂げるための礎である。
自助の精神が多くの人々の生活に根付くなら、それは活力にあふれた強い国家を築く原動力となるだろう。」
今、日本は自律自助の精神を失ってはいないか。 今こそ私たちは、自律自助の精神をこの国に甦らせなければならない。
◆ ◆ ◆ ◆
確かに現代日本は、如何にして楽をするか、何とか補助金や税金をせしめて暮らそうと考える人が増えている気がします。
働かざる者、食うべからず・・・これが人間の基本のはずなのに。
以前、経営不振に喘ぐ日産自動車の社長に就任し、同社を短期間に建て直した 〝コスト・カッター〟 ことC・ゴーン氏については、皆さんもご存知のはず。
しかし日本には、それより半世紀近く前に徹底的な経費削減を柱に数々の赤字会社を立て直した人物がいました。 その人の名は、
坪内 寿夫 氏
今日は 〝再建王〟 と異名をとった、この名経営者の命日・没後20周年にあたります。
坪内氏は、1914年に愛媛県で生まれました。
弓削商船学校卒業後に南満州鉄道に就職するも、大東亜戦争に従軍。
復員後、34歳の時に地元・松山で映画館を建て、日本で初めて〝2本立て〟を行って評判を取るなど、中々のアイデアマンだったようです。
その経営センスに目を付けたのか、地元地銀が経営不振に陥っていた來島船渠株式会社(現・新来島どっく)の社長就任を依頼。
それを受けた坪内氏は徹底的な経費削減を行い、会社再建に成功。
その経営手法を評価した銀行は次々に赤字会社の再建を依頼し、坪内氏は悉くそれを成功させていきました。
◆原材料費・経費等を全て前年比20%カット
◆就労時間の厳守=完全就労の徹底
◆平社員を役員に抜擢したり、その逆も行うなど信賞必罰人事の徹底
ドラえもんのような愛嬌ある外見からはちょっと想像できない程、強烈かつ徹底的に大ナタを振るった坪内氏の経営手法について行けず、会社を去る者も多かったようです。
しかし彼自身も社長室・役員車の廃止、ゴルフは一切やらず365日休まず出社するなど、率先垂範の姿勢を崩しませんでした。
だからこそ坪内氏を信奉して残った少数精鋭の社員によって、トップダウンの会社組織を作り上げられた、とも言えましょう。
その後も請われて佐世保重工業、関西汽船、オリエンタルホテルなど大会社の再建を任された坪内氏・・・その経営手法には、体育会的、超ワンマン等という批判もあります。
しかし私は、倒産寸前の会社の再建はそれくらい強烈なリーダーが先頭に立たない限り無理だと思いますし、それが時代を超えた真理であることはゴーン社長も日産自動車のV字回復で実証したと思うのです。
『坪内寿夫 成功への意識革命』 (PHP研究所・刊)
同書に出てくる、
〝安易に儲かる仕事は長続きしない〟
〝合議制は無責任の裏返し〟
〝競争を忘れたら堕落する〟
〝少数にすれば精鋭になる〟
〝建物は金を生まない〟
〝正しいことをしていれば必ず成功する〟
・・・等々の教訓は、現在でも十分通用するもの。
また彼が単なるコストカッターではなく、タンカー製造からいち早く自動車運搬船製造に切り替えるなど、先見性を持った経営者であったことが分かります。
彼の遺した言葉は、時代を超えて人間学・経営理念の王道を説いていると言えましょう。
1999(平成11)年12月28日、85歳で天寿を全うした〝四国の大将〟のご冥福をお祈り致します。

もういくつ寝ると、お正月・・・ですが、年末恒例といえば、歌謡曲ファンにとっては紅白歌合戦 と
日本レコード大賞
でしょうか。
このイベントが初めて開催されたのは、今からちょうど60年前の今日・1959(昭和34)年12月27日のこと。
1958年にアメリカ音楽界最大のイベント〝グラミー賞〟を視察した古賀政男氏らが、「日本にも同様の賞を」 と創設されたのが、この大賞でした。
※古賀氏に関する過去記事は、こちら。(↓)
同年12月に設立された日本作曲家協会の主催での開催が決定しましたが、作品にランク付けすることにレコード各社が反発、賛同したのはビクター社のみ。
テレビ局も、理解を示してくれたのはラジオ局を併設していた東京放送(TBS)だけだったとか。
そして栄えある第1回の大賞受賞曲は、中高年の方には懐かしい 『黒い花びら』。
しかしガラガラの神田共立講堂で受賞曲を歌った水原弘さん本人でさえ、
「レコード大賞? なんだ、それ。」
と怪訝な顔をしたほど、認知度は限りなくゼロ。
第10回までは小さな会場で12月中・下旬に行われていたこのイベントが大きく様変わりしたのが、1969年の第11回から。
会場がメジャーな帝国劇場になり、テレビもカラー放送の生中継に。
そして歌手のスケジュール調整をしやすくするため、大晦日・紅白歌合戦直前の19~21時の開催が恒例化。
各賞のノミネート曲を事前に発表し、本放送で大賞曲を決定するというシステムも、この時から始まりました。
よくレコード大賞受賞歌手が、帝国劇場から紅白歌合戦会場のNHKホールに行くのに手間取り、オープニングに間に合わない・・・なんてこともありまたっけ。
その後歌謡曲ブームと共に視聴率も上昇、1977年には最高視聴率50.7%を記録。
レコード大賞を受賞することが、歌手にとって大きなステータスに。
しかしその審査基準がレコード売上げだけで決まるわけではなく曖昧なため、その権威が高くなるに従って審査委員と一部レコード会社・芸能プロダクションとの癒着などの疑惑が囁かれるようになり、終いには〝出来レース〟とまで言われるように。
そして紅白歌合戦の放送枠拡大による放送時間や開催日の変更を余儀なくされたことや、歌手の考え方が変わり賞レースに関心が薄くなるなど様々な要因が重なって、現在はそれほど注目されなくなっています。
演歌歌手全盛~ビンクレディー~安室奈美恵~浜崎あゆみ~EXILE・・・その時々の時代を象徴する歌手たちが受賞してきたこのレコード大賞は、一体いつまで続くのでしょう?
というか、殆ど売られていない〝レコード〟をいつまで冠に?
そろそろ 『日本CD大賞』 に変えたほうが・・・・いや、もう時代は『日本ダウンロード大賞』 かナ?

先日夜、我が家における年末恒例行事、N響の 『第九』 演奏会に女王様共々出かけてきました。
ここ数年は音響の良さからサントリーホールで聴いていましたが、今年はスケジュールの都合上その日に行けず、久しぶりに渋谷のNHKホールへ。
地下駐車場から地上に出て驚いたのは、ホール前の目抜き通りの並木がLEDのイルミネーションでブルー一色に光り輝いていたこと。
今ままではほぼ真っ暗で人通りも疎らだったのに、まるでディズニーランドのように若い男女でごった返していました。
そんな喧騒の中を人混みを分けてやっとの思いでホールに到着・入場すると、ロビーがデコレーションされ雰囲気を盛り上げていました。
高揚感を抱きつつ開演を迎えた私ですが、今回のコンサートでは今までにない体験を2つすることができました。
まず指揮者が、オーストラリア出身のシモーネ・ヤングさんという女性だったこと。
2001~03年までオーストラリア・オペラ首席指揮者を務め、2000年のシドニー五輪では、開会式でシドニー交響楽団を指揮し、オーストラリア国歌 『アドヴァンス・オーストラリア・フェア』 を演奏。
2005年から過去にカール・ベームら名だたる指揮者が歴任したハンブルク州立歌劇場総支配人を女性として初めて務め、同年にはこれまた史上初めて女性としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したという逸材。
女性らしい柔らかな腕の振りながら、ボディー・アクションは男性のようにエネルギッシュで比較的早いテンポの演奏は第四楽章のラストまで一気に盛り上げる熱演!
今まで(失礼ながら)男性指揮者の禿げた後頭部ばかり見てきた私としては、長い髪をなびかせながら指揮棒を華麗に操る彼女の指揮ぶりは、強く印象に残りました。
それからもう一つは、4人のソロ歌手の立ち位置。
サントリーホールでは合唱団の前・・・とはいえ、オーケストラの後ろだったり、指揮者とオケの間で歌っていましたが、今回は指揮者のほぼ真横・・・即ち観客席から見れば最前列。
たまたま私たちの座席が前から2列目の〝かぶりつき〟でしたから、彼らのノドチ〇コが見える程の至近距離。
これまでになく彼等の歌声が強烈に響きました。
更に4人共歌唱力は十分・・・とかく合唱の大音量に埋もれがちだったメゾ・ソプラノの歌声がクリアに聴き取れましたし、個人的には外国人のテノール歌手の声質と唄いっぷりが出色。
毎年指揮者や座席が違うことから、演奏や音色の違いを楽しんできましたが、今回も新たな発見・経験ができて大満足でした。
例年以上に 「ブラボー!」 の声がかかったホールを午後8時半過ぎに出ると、目抜き通りはイルミノーションを楽しむ人々で相変わらずの大賑わい。
来年は音質のサントリーホールと雰囲気のNHKホール、どちらのコンサートに行くべきか・・・今から迷ってます。
さてその女性指揮者による第九演奏会の模様は、NHK・Eテレにて大晦日・12月31日(火)午後8時から9時20分まで放送される予定。
紅白歌合戦の合間に、是非お楽しみください!

今から26年前の今日・1993(平成5)年12月25日の午後、クリスマスで賑わう日本中に、悲しみが広がりました。
温厚な顔立ちとソフトな語り口で、多くの視聴者に親しまれたアナウンサー、
逸見 政孝 さん
の訃報が飛び込んできたから・・・つまり今日は、彼の二十七回忌にあたります。
終戦の年・1945(昭和20)年に大阪で生まれた逸見さんは、高校時代放送部に所属していたこともありアナウンサーを志望。
一浪後早稲田大学に入学してアナウンサー部に入り、徹底的に関西弁を標準語(?)に矯正したとか。
その努力が実り、見事フジテレビに採用され念願のアナウンサーに。
私の記憶では黒縁メガネをかけて真面目にニュースを読んでいたイメージが強いのですが、若手時代はスポーツ・アナとして活躍・・・意外にもボクシングの実況は絶叫調だったそうです。
その後ワイドショーを経由して1978年に当時としては珍しく30代で報道キャスターとなり、1984年から担当した 『FNNスーパータイム』 では幸田シャーミンさんとのコンビが評判に。
さらに 『夕焼けニャンニャン』 に出演すると、お堅いイメージとかけ離れた軽妙なトークが人気を呼び、やがて彼の〝七・三分けブロマイド〟が発売されるなど、一気にブレーク。
しかし社内で管理職となって徐々に現場から離れつつあった彼は、「生涯アナウンサーであり続けたい」 と独立を決意・・・1988年、43歳でフリーとなりました。
事務所〝オフィスいっつみぃ〟を設立し、『クイズ世界は SHOW byショーバイ!!』 や 『たけし・逸見の平成教育委員会』 など仕事は順風満帆。
私は当時毎年正月に放送されていた、彼の司会による 『タモリ・たけし・さんまのBIG3ゴルフ』 ・・・特に〝英語禁止ホール〟での掛け合い漫才(?)が一番の楽しみでした。 しかし世田谷に大邸宅を建て、絶頂期を迎えていた彼を、病魔が襲います。
元々糖尿病を患い、腰痛を悪化させるなど決して健康体とは言えなかった逸見さん・・・特に実弟がスキルス性胃癌により32歳で亡くなっていたこともあり、癌検診は年に1度必ず受診していたそうですが、そんな中1993年1月に癌が発見され、密かに手術が施されていました。
表向きは十二指腸潰瘍治療のためという理由で休養、しばらくテレビ画面から姿を消していた逸見氏が復帰した番組で、首筋あたりが痩せた逸見氏の姿を見た瞬間に抱いた私の (あれっ? もしかして・・・) というイヤな予感は、やがて現実のものとなってしまいます。
同年9月、日本テレビ局内で行われた逸見氏の記者会見は衝撃的でした。
「本当の事を申し上げます。
私が今、侵されている病気の名前・・・病名は、ガンです」
「もう一回、いい形で生還しましたという風に言えればいいなと思っています。 どうもありがとうございました」
最後の記者会見に臨む逸見さん
広く名を知られた有名人がカメラの前で自らの病状を公表・闘病宣言をしたのは、少なくとも日本では逸見氏が初めてだったのではないでしょうか。
居合わせた記者たちから、思わず 「頑張ってください!」 と声がかかった鬼気迫る会見・・・その悲壮な決意は、多くの方々に感動と勇気をもたらしたと思います。
※お時間のある方は、こちらでその会見の模様をご覧ください。
会見の様子をニュースで見た私は逸見氏を応援したいと思いつつも、その尋常ならざる痩せ方に、正直 (これが彼の姿をテレビで見る最後となるのでは?) という不安を払拭することができませんでした。
果たせる哉、それから僅か3ヶ月半後・・・人々の願いも虚しく、彼は48歳の若さで天に召されたのです。
彼の死後、病院の診察・対応に関して様々な憶測が流れましたが、その後も奥様がガン治療に関して講演・文筆活動を続けていらっしゃったことからも、ご家族の無念が推し量れます。
フリーになったことで収入が増えたと同時に、仕事に対するストレス・プレッシャーも想像以上に重くなったことが原因だったのでしょうか。
彼の笑顔とその壮絶な最期を思い出す時、やはり人間にとってかけがえのないものは〝健康〟であることを痛感します。
私が大好きだったBIG3ゴルフの〝英語禁止ホール〟の懐かしい映像を楽しみつつ、あらためて名アナウンサーのご冥福をお祈り致します。
皆さんは、アフガニスタンという国がどこにあるか、すぐ地図で指させるでしょうか?
正解は、こちら。(↓)
旧ソ連と中東に挟まれインドや支那にも近いという、かなり物騒(?)な位置。
故に歴史的には、周辺国からの様々な影響を受けてきました。
同国では1978年、共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党が政権を樹立したものの、これに対抗する武装勢力が蜂起し全国をほぼ支配下に。
これに危機感を持った政権がソ連に軍事介入を要請すると、ソ連は今からちょうど40年前の今日・1979年12月24日に、いわゆる
アフガン侵攻
を決行しました。 クリスマス・イヴに、何という無粋なことを・・・。
この決定について、当時ソ連のトップだったブレジネフ書記長は病床に伏せていて、知らなかったそうな。
決定したのは、当時のソ連国家保安委員会(KGB)議長にして後に書記長となったアンドロポフらごく一部の幹部だったとのこと。
ソ連は介入を要請したアミーン大統領に統治能力がないと見るや殺害し、新たな大統領を擁立。
この傀儡政権に対抗して戦ったのがムジャヒディンと呼ばれる抵抗勢力で、アメリカを始め複数国が 「ソ連の介入は主権国家に対する正当な理由なき侵略行為」 だとして彼らに武器供与などの支援を行いました。
ムジャヒディンには20ヶ国以上のイスラム諸国から約20万人の義勇兵も含まれており、その中にはあの9・11の首謀者とされるウサマ・ビン・ラディンも含まれていたそうな。
更に当時のアメリカ・カーター大統領は、翌80年に開催される予定だったモスクワ五輪ボイコットを決め、西側各国に同調を求めた煽りを受けて日本も選手を送らないことを決定。
※この五輪ボイコットに関する過去記事は、こちら。(↓)
報復として1984年のロス五輪はソ連を始めとする東側諸国がボイコットするなど、事態は膠着状態に。
流れが変わったのは、ゴルバチョフ書記長の登場でした。
アフガン問題やムジャヒディンが登場する007『リビング・デイライツ』(1987年)や『ランボー 怒りのアフガン』(1988年)などの映画が公開された直後、彼の命令により事件発生から10年後の1989年にソ連軍はアフガンから撤退したのです。
しかし結果としてソ連軍が介入して排除しようととしたイスラム原理主義者が撤退後逆に台頭してタリバンが誕生し、アフガニスタン国内はより混乱状態に。
またアメリカが援助したイスラム反ソ勢力が、湾岸戦争後はその武器で反米闘争を展開することになるという、皮肉な結果をもたらしました。
そして侵攻により疲弊したソ連が崩壊する端緒にもなったのです。
結局ソ連のアフガン侵攻は、米ソ両国にとって損失をもたらしただけ・・・スポーツ選手を含めた多くの国民を悲しませ、喜んだのは軍需産業だけだった?

拙ブログでは今まで日本共産党の歴史について何度か記事にしてかましたが、今日もそのひとつ・・・というか、犯罪をご紹介します。
1922年に結党された日本共産党は治安維持法により当初から非合法活動を強いられ、収入源に苦しんでいました。
そして1932年10月、同党は『熱海事件』・ 『赤色ギャング事件』 により多くの幹部党員が逮捕され、壊滅的な打撃を受けます。
(※赤色事件に関する過去記事は、こちら。 ↓)
これらの取り締まりをかいくぐって検挙を免れた幹部党員により、同党は辛うじて存続したのですが、しばらくして
日本共産党スパイ査問事件
が露見することに。
今から86年前の今日・1933(昭和8)年12月23日、当時同党中央常任委員だった宮本顕治氏(1908-2007)らが中央委員だった大泉兼蔵・小畑達夫両名にスパイ容疑をかけて呼出し監禁。
自白させようと〝査問〟と称するリンチを行い、同日小畑委員は死亡し床下に埋められたのです。
(この時大泉委員は壮絶な拷問に気絶。 しかし宮本氏は死んだと勘違いして引き上げたため、その後蘇生し命拾いしたとか。)
宮本 顕治 氏
翌日付の 『赤旗』 紙には 「中央委員小畑達夫・大泉兼蔵の両名は、党攪乱者として除名し、党規に基づき極刑をもって断罪する」 という声明を掲載。
警視庁はこの〝極刑〟という表現に注目。 両名が殺害された可能性があるとみて捜査を開始し、3日後の26日に宮本氏は逮捕。
黙秘を続けたものの、治安維持法違反等の罪で無期懲役の判決を受け収監。
しかし終戦直後の1945年10月、GHQが政治犯の釈放を命じた事により、網走刑務所に収監されていた宮本氏の赦免が決定。
その直後から党を再建した彼は、1958~70年に同党書記長、70~82年まで委員長を務め、実質的には亡くなる2007年まで約半世紀にわたり共産党を指導・支配し続けました。
この事件については、1988年に当時衆院予算委員長だった浜田幸一氏が
「宮本氏が人を殺したと言っただけじゃないか!」
などと発言し、辞任するキッカケとなったことで注目を集めたことも。
しかし宮本氏の影響力は、彼がこの世にいない現在でも同党から払拭されたとは言い切れません。
現在委員長を務めている志位和夫氏は、かつて宮本顕治氏の長男の家庭教師を務めていた人物ですから。

共産党はこの〝査問〟事件における小畑・大泉両名に対する暴行の事実をすべて否定しています・・・が、私はとても額面通りには受け取れません。
同党に関して詳しく知りたい方には、(上掲・赤色事件の記事でもご紹介した) 『日本共産党研究』 (産経新聞出版・刊)のご一読をお勧めします。
また共産党は、オウム真理教関連団体や革マル派・中核派・革労協などの過激派らと同様、公安調査庁の調査対象団体であることも事実。
有権者の方々には、耳触りの良い選挙演説に耳を傾けるだけでなく、政党の歴史や背景も熟知した上で投票していただきたいものです。

相変わらず国際社会の意に反し、ミサイル発射や核開発を止めない北朝鮮。
過去に複数回領土・領海上空にミサイルを飛ばした同国の存在は、日本にとって最も頭の痛い存在です。
かの国の指導者の暴走がいつ始まるか全く不透明な中、国防能力・体勢の充実を望むところですが・・・今から18年前の今日、その北朝鮮と一触即発の事態を迎えたことがありました。 それは
九州南西海域工作船事件
この海上保安庁の巡視船が初めて逃亡する不審船に銃撃を加えた出来事を、ご記憶の方も多いと思います。
2001(平成13)年12月18日、在日米軍から防衛庁(当時)に不審船の情報がもたらされ、それを元に海上保安庁は東シナ海の公海上で船体に 『長漁3705』 と書かれた国籍不明船を発見しました。
無許可操業の疑いがあったため強制捜査を行うべく停船を命ずるも、同船はこれを無視して逃走。
数日間の追跡の末、12月22日巡視船は機関砲による船体砲撃を敢行。
銃弾が燃料に引火し火災を引き起こすも、船員がこれを鎮火。
続いて巡視船が接舷を試みようとしたところ、突然乗組員が小火器や対戦車ロケット弾を使用して反撃。
巡視船はやむなく応戦して激しい銃撃戦となるも、不審船は自爆とみられる爆発を起こし自沈。
この交戦で海上保安官3名が負傷、不審船乗組員は10名以上が死亡したとみられます。 (後に8名の遺体を確認。)
この追跡・交戦映像(10分)を、是非こちらでご覧ください。(↓)
映画やドラマのようなフィクションではなく、実弾が飛び交うリアルな映像に、思わず身体が硬直してしまいます。
この不審船は、北朝鮮・中国に配慮する一部左翼勢力の反対を当時の小泉首相が押し切って引き上げを決定。
沈没地点が中国の排他的経済水域であったため同国と粘り強い交渉の末、1億5千万円の謝礼金を支払って翌2002年9月11日、引き上げに成功。
遺留品の鑑定及び発見された遺体の検死結果から、同船を北朝鮮の工作船と断定。
同船は検証後スクラップにされる予定でしたが、日本船舶振興会(現・日本財団)が経費を全額負担して東京に移送・展示されました。
実は私、女房と共にこの展示を見学に行ったんです。
朝一番に行ったら、開館前から長蛇の列・・・まるで上野動物園のパンダ見物のようでしたが、船体に残された機関砲による銃痕の大きさと数の多さに、戦慄で体中の毛穴が開いたことを憶えています。
そして現在も、この工作船を見学することが出来ます。 展示場所は
『海上保安資料館 横浜館』
所在地は神奈川県横浜市中区新港1-2-1・赤レンガパーク隣
そう、観光名所・赤レンガ倉庫のすぐそばです。
開館時間は10:00~17:00 月曜定休
但し年末は12月29日~1月3日まで休館とのこと。
入場料無料ですので、観光等で横浜に行かれる方は是非足をお運びください。
※同館HPは、こちら。(↓)
https://www.kaiho.mlit.go.jp/03kanku/kouhou/jcgm_yokohama/

領土・領海を護るために海上保安官や自衛官が命がけで職務に取り組んでいることを、きっと実感できると思います。
特に普段TVゲームのバーチャル世界でしか戦闘を知らない子供たちには、是非見学させて欲しいもの。
末筆となりましたが、普段暖房の効いた部屋でヌクヌク暮らし平和にクリスマスを楽しむ私たち国民を守るため、寒風吹きすさぶ荒海で監視活動等を行っている海上保安官や自衛官に対し心より敬意を表し、かつ感謝する次第です。
