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触 雷

1939年9月、ポーランドに侵攻したドイツに対しイギリス・フランスが宣戦布告したことで始まった、第二次世界大戦。

しかしその後も日本は商船を欧州航路で運航していたのですが・・・その中の


てる  くに  まる
照 国 丸


が機雷に触れて沈没したのが、今からちょうど80年前の今日のこと・・・これは第二次世界大戦勃発後に日本が喪失した最初の、そして日本が開戦する前に唯一沈没した商船でした。


  


大正時代、日本郵船は箱根丸級の船舶を4隻欧州航路に就航させていましたが、欧州各国の同業他社が新型の大型客船を導入したことで集客力が低下。

それを挽回すべく、1930(昭和5)年6月に全長160.59m、11,931トンの大型船・照国丸を就航させ、同クラスの靖国丸と2隻を従来の4隻に加え、横浜~ロンドン間で月2回の航海を行わせました。


照国丸の船内は基本的に洋風の装飾を施しましたが、特別室内には松田権六の蒔絵を取り入れるなど和風のインテリアを多用したことで、外国人にも好評だったとか。

そして同船は、前述の宣戦布告が行われた直後の9月24日に横浜港をイギリスに向け出港。

11月上旬にフランスのマルセイユに到着すると、ここで乗客の殆どが下船。


船内に残ったのは、乗客28名と乗組員176名のみとなりました。

しかしジブラルタル海峡では英仏の軍艦が行き来し、たびたび浮遊機雷警報が発せられたため、照国丸は見張りを増員したり乗客に対する避難訓練も実施するなど、船内は緊張状態に。

そして11月15日にモロッコのカサブランカを出港した同船は、予定より10日遅れ11月19日にイギリスのダウンズ泊地に到着。

本来ならばここで積荷検査を済ませた後にテムズ川沿いのロンドン港に入る予定でしたが、英海軍が機雷を発見したため航路を閉鎖。

翌日掃海作業が行われ閉鎖が解除されたため、照国丸は11月21日朝、指定された北航路を通ってテムズ川河口に向け、15ノット(時速27.8km)で進行。

見張りを5名増員して厳戒態勢での航海だったのですが、同日午後1時前・・・北緯51度50分・東経1度30分のハリッジ沖で触雷により突然船体に大きな衝撃が。


    

その直後照国丸は大きく右に傾き、船首から沈み始めました。

船長は一旦機関停止命令を出しましたが、沈没を防ぐべく深度の浅い海岸に座礁させようと機関再始動を試みるも、エンジンは始動せず。

航行不能となったため船長は即時退去命令を出し、船体が激しく右に傾く中、船員は迅速に救命艇5隻を降ろし、照国丸は沈没したものの乗客・乗組員全員の救助に成功しました。

この辺り、船長や乗組員が乗客をほったらかして逃げたどこぞの国とは大違いですネ。

しかし日本政府が国際法上の重大な違法行為だとして英独両政府にどちらの機雷が原因だったかの説明を求めましたが、両国とも責任のなすり合いをするばかりで、結局真相はウヤムヤのまま。

泣きをみたのは、日本郵船だけでした。

昔も今も、国際社会に於ける日本の立ち位置は殆ど変わっていないようです。
うー


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